鹿児島歴史みてあるき  ~ 外城・四季・フォト ~

     2007年から始まった薩摩藩・麓(外城)巡りの記録。各地を訪れた四季折々の風景。日々の暮らし。

2013 高山麓・秋

2013-09-20 | 麓-肝属地区

南日本新聞に肝付町・新富にある武家門の修復記事(カラー写真入り)が掲載されました。

2年ぶりに高山(こうやま)麓へ

 

修復された日高家武家門

 

潜り戸に乳鋲付きの観音扉と大きな屋根の堂々たる構え。

修復に大変な苦労があったのではなかろうか。

二階堂家住宅とともに高山麓のシンボル的存在になるはず。

 

馬場は長い生垣が続く。

 

同じ馬場に面する武家門。

 

馬場の反対に面する肝付町役場。一番いい場所を占めているのに雰囲気無さすぎ。

 

通りの修景が進み蒲生のような武家屋敷通りになるといいですね。

 

麓内に残る別の武家門。

 

 

高山(こうやま)は豪族・肝付氏の城下町として古くから栄えたまち。

肝付氏が島津氏に下った後は外城として機能する。連綿と続く歴史を備える点は興味深い。

ロケット基地がある内之浦とあわせて「ロケットと流鏑馬と武家屋敷の町」として全国に発信していけば面白いと思う。


2011 二階堂家住宅

2011-06-08 | 麓-肝属地区

高山麓の中心からすこし離れた場所に二階堂家住宅がある。江戸期1810年建立。国の重要文化財に指定。

二階堂家は鎌倉幕府の要職を務めた有力御家人でそのなかの一流が鎌倉後期に薩摩に下向した。

阿多(田布施)に定着して島津家の家臣となった後、義久公の命により高山に移り、現在の大林坊屋敷を拝領した。

その子孫が連綿として今日まで400年にわたりこの地に永住しているという。

二階堂家住宅の表門。茅葺の武家門。

 

二階堂家の茅葺門。他に加治木の曾木家、入来の入来院家、大口の祁答院家にある。

 

オモテとナカエを備える薩摩藩南部の典型的な民家。手前がナカエ。

 

 

 

 

故二階堂進氏の胸像。その昔、東京・神楽坂交差点で二階堂氏を目撃したことがある。

大型のキャデラックの後席に座っていた。

 

雨量の多い鹿児島らしく庇が深い。庇を複数本の細い柱で支えている。

 

二階堂家住宅の日本庭園。

 

 

オモテの建物は修復の際にもとあった場所から南西に30メートル移動したという。

江戸期に建てられた二階堂家住宅が現在まで残ったのは高山麓の中心から少し離れているからかもしれない。

撮影:平成23年6月3日


2011 高山麓 02

2011-06-05 | 麓-肝属地区

四十九所神社は、大宰府の大監であった大伴兼行(肝付氏の始祖とされる)が下向した際に創建されたと言われる。

島津氏より古い歴史をもつ肝付氏ゆかりの神社である。

 四十九所(しじゅうくしょ)神社

 

秋には900年近い伝統を誇る流鏑馬(やぶさめ)が参道で行なわれる。

参道にあたる宮之馬場。ここは中麓。このあたりは屋敷の敷地が広い。

 

秋の流鏑馬は右の未舗装部分を馬が疾走する。

 

宮之馬場脇にある護国神社。

 

6月の四十九所神社は紫陽花が花開いていた。

 

 

 

 

宮之馬場のアジサイ。

 

大伴兼行は720年の隼人の乱に対し征隼人大将軍として中央政府から派遣された大伴旅人の子孫と言われる。

隼人の乱と中央政府の関係は南日本新聞に連載中のかごしま古(いにしえ)散歩(永山修一氏監修)に詳しい。

 

新富集落は石垣と生垣が連続する。屋敷内にはこんもりした樹木がそびえ麓らしい風景が残る。

 

 

新富の石柱門

 

中麓にも屋根付きの武家門が残って少しも不思議でないのだが一棟も見当たらず。

下の門は現代の武家門と言えるかも知れない。


2011 高山麓・梅雨

2011-06-04 | 麓-肝属地区

6月3日、肝付町の高山麓を訪れる。

高山(こうやま)は肝付氏の城下町(肝付氏は島津氏よりも古く大隅一円に勢力を振るった)として知られる。

肝付氏が島津氏の軍門に下った後は地頭仮屋が置かれ、今の肝付町役場の周辺一帯に麓が形成された。

梅雨の最中、いまにも雨がぽつりぽつりと降ってきそうな天気だが高山麓の生垣はみずみずしい

 

肝付町役場前の馬場。馬場沿いに生垣が続く。

 

 

肝付町役場前に残る武家門。腕木門。控え柱を備える。

 

 

役場前の馬場。見事に剪定されたいぬまきの木が印象的。庭も見事。石柱頂部の植込みはどうなってるのだろう。

 

 

 

役場前の馬場を脇に入ってみる。かつて今にも崩れそうな武家門を見つけた場所だ。

 

高山麓に残る数少ない武家門の一つ。前回訪問時にくらべ手入れがなされているようだった。

 

 

近くに生垣、石垣が続く場所がある。ブロック塀の上は笹垣だろうか。

 

石垣に生垣。サツキが色付いている。立派ないぬまきが残っている。

 

 

 

この後、四十九所神社方面へ移動しました。

撮影日:平成23年6月3日


2008 高山麓 02

2008-10-27 | 麓-肝属地区

旧高山町で流鏑馬と同じく有名なのは二階堂家住宅

二階堂家住宅 

手前がオモテ。奥がナカエ。江戸時代の郷士屋敷。興味深いのは、武家(郷士)の屋敷らしく作りがしっかりしており、保存状態が良いことから国の重要文化財に指定されたこと(ウィキペディアより)。当時は各地に民家が建っていたのでだろう、ほとんどが消滅したなかで、ここの屋敷が現在まで奇跡的に残った点はそれなりに理由があるのだろう

 

庭木をきれいに剪定作業していた

 

二階堂家の武家門。茅葺。親柱は自然木の枝を落としただけの素朴なもの。

 

なるほど昔の郷士屋敷は屋根瓦もなく素朴な佇まいだったのが分かります。

 

この後、高山川の向こうの上之馬場へ向かったが車を停める適当な場所が見当たらず。

四十九所神社方面へ引き返す。上之馬場付近にも麓らしい景観が残っている。

肝属氏の歴代の墓もそちらにある。

 

四十九所神社の参道。

10月19日に流鏑馬が行なわれた。未舗装路を馬が疾走する。普段は車が低速で通る。

 

 

四十九所神社

 

八幡馬場付近の風景。高山麓には多くの用水路がある

 

 

 

歴史を感じさせる石柱のある門構え。

 

鹿屋市内や近郊の国道や幹線道路を走ると石垣の立派な家があちこち見られる。

このような味わいのある意匠の石柱を門に構えてくれたら歴史の継続性が感じられてとてもいいと思う。

 

肝属町新富の交差点付近

 

(訪問記)

旧高山町を訪れたのは2回目。先週の流鏑馬祭りに行けなかったのは残念。

旧高山町の麓地区は武家門はそれほど残っていないが麓らしい雰囲気は残っている。

役場前の景観を整備するだけで町並みの雰囲気はぐんとよくなると思う。肝属氏の本拠地であったことを伝える情報や案内板があれば高山の歴史の深さをもっと感じることができると思う。

参考⇒二階堂家住宅と旧高山町(2007年8月訪問)


2009 高山麓

2008-10-27 | 麓-肝属地区

肝属町の高山(こうやま)を訪れました

肝属町役場前の馬場

 

役場前の馬場は樹木が茂る広い敷地の武家屋敷が並ぶ

 

潜り戸のある立派な門

 

役場前の馬場。生垣が続く。敷地は広い

 

同じ馬場。高山小学校前付近。武家門が並ぶ

 

取り上げるか迷ったが門に主屋根が復活する期待を込めてアップしました

潜り戸付きの立派な門構え

 

同じ馬場に面する屋敷。石柱の頭部に帽子を被ったような意匠が面白い。左右で大きさが異なる

 

 

馬場から川に向けて曲がる

 

 

付近に武家門が1棟残っていた

 

 

高山は流鏑馬祭りが有名。

流鏑馬は肝属氏が1036年に高山に居を構えた以降に始まったとされる。島津氏に敗れた後の高山は島津氏の外城として機能した。現在の肝属町役場一帯に当時の麓集落の景観が残っている。高山の流鏑馬は昭和28年頃までは麓の青年組織によって仕切られていた。

(続く)


2008 内之浦郷・麓02

2008-02-01 | 麓-肝属地区

内之浦の北方地区に郷士集落の面影が残っていた

志布志と内之浦をむすぶ国道448号の両側に生垣が続く

石柱の門が残る。桃色の花が咲いていた

 

国道に沿って生垣がつづく。イヌマキとツバキが植えられているようであった

 

生垣の向こうに石柱の門が見える

 

 

国道に沿って生垣がずっと続いているのが分かる

 

国道の反対側にも生垣がつづく

 

 

 

 

 

きれいに刈り込まれた生垣が門から奥に続く

 

国道から脇道に入ってみた。石垣が続

 

高く刈り込まれた生垣

 

 

菅原神社

 

 

 

 

 

生垣、梅、石垣、旧家。歴史を感じさせてくれる

 

メジロ(数十羽もいたろうか)が花の蜜を吸っていた

 

元々は南方にあったが大火があって北方に移転したという


2008 内之浦郷・麓

2008-02-01 | 麓-肝属地区

1月22日、垂水市から旧高山町に向かった

旧高山町で仕事を終えたのは夜9時半。その後宿泊先の内之浦へ移動

内之浦は初訪問。国見トンネル(全長3.3km)ができるまではアクセスが大変だったらしい

旧高山町から約40分で内之浦の「コスモピア内之浦」に着いた。温泉に入って直ぐに就寝。

翌朝、内之浦の南方を散策。曇り天気の内之浦漁港。内之浦は漁業が盛ん

 

漁港近くに薩摩藩の番所跡があった

 

網元か。豪壮な造りの屋敷があった

 

 

 

内之浦漁港近くの風景

 

 

 

梅が咲いていた

 

 

八坂神社。前日からの雨で濡れている

 

 

 

 

地頭仮屋跡を捜して南方(現在の内之浦支所付近)をぐるぐる回ってみたが分からずじまい

 

 

(続く)

地頭仮屋跡を教育委員会に問い合わせてみたところ、いろいろと調べてくださった。旧お仮屋は南方の旧派出所の跡(現在の町営住宅付近)にあったようだが、当時の跡を思わせる石垣や案内板は特にないようです。御礼申し上げます。