鹿児島歴史みてあるき  ~ 外城・四季・フォト ~

     2007年から始まった薩摩藩・麓(外城)巡りの記録。各地を訪れた四季折々の風景。日々の暮らし。

2009 佐土原藩

2009-10-18 | 麓-綾・宮崎

翌朝の綾は曇。

 

宿の朝はコーヒーを置いてなかった。宮崎市のマックに立ち寄ってから佐土原に向かう。

佐土原は旧佐土原藩2万7千石の城下町。佐土原町の中心は国道10号線を北上したJR佐土原駅付近にある。

目指す佐土原城はここから大分離れた場所にあるようだ。期待を膨らませつつ佐土原城跡に着いた。

佐土原城跡(二の丸跡)に建てられた鶴松館

 

佐土原城は伊東氏の中心城で伊東義祐が居住した。

木崎原の戦いや高城、耳川の戦いで島津氏に敗れ、島津義久の末弟家久が佐土原城に入城する。秀吉の九州進攻により義久は降伏するが佐土原は家久に安堵される。家久の子豊久が関が原の戦いで義弘の殿軍を努め戦死する。 佐土原城は関が原の戦いの後一時家康の支配下に置かれたが、慶長8年(1603年)家康から封を受けた島津以久が垂水から入城し佐土原藩島津家の初代となる。

明治2年に佐土原藩島津家の居城が広瀬に移されると佐土原城は廃城となった。

館内を係の方が案内して下さった。藩主が対面する大広間や佐土原藩島津家ゆかりの展示品を見て廻る。佐土原人形の展示コーナーには垂水人形や帖佐人形も一緒に展示してあった(館内撮影はNG)。

最後に佐土原の武家屋敷はどのあたりに在りますかと係の方に尋ねたら、広瀬に城を移すときに佐土原の武家屋敷は全部取り壊してしまったと残念そうに語って下さった。残っていれば飫肥に負けないくらいの城下町だったのにと実に残念そう。藩主が移ると家来もついて行かざるを得ないのでしょう。

鶴松館を後にして近くをまわってみることにした。

現在の佐土原小学校が藩校「学習館」跡。門は復元

 

佐土原に残る商人町の町並み

 

商家「旧坂本家」。宮崎市指定文化財

 

 

(訪問記) 佐土原藩2万7千石の城下町として期待した佐土原訪問であったが、居城が広瀬(現在のJR佐土原駅付近)に移るという歴史は知らなかった。広瀬城も明治4年の廃藩置県により幻の城に終わる。 佐土原城下の家中屋敷は全て跡形もなく取り壊され、見た範囲では石垣等も見当たらず。城下町を偲べるものとしては町人町や古い神社仏閣が残る。広瀬の方に石垣等が残るかは行ってみないと分からない。


2009 綾麓 散策 02

2009-10-17 | 麓-綾・宮崎

ここは私が綾の麓を最初に訪れた際、最も印象に残った場所。隠れ里の風情がある。

 

同じような風景は曽於市の財部麓にもある。木々に隠れるようにして武家門が佇む。

木々は成長しているが昔の麓はこんな風景だったんだろう。

 

 

綾の麓地区でも稲刈りの真っ最中。2台のレンタサイクルで道沿いに進んでみた

 

 

ふいに武家門が現れた。左右に小さな袖屋根が付く

 

 

何神社だろう。忘れてしまった。

 

右から耕運機がやってきた。左には見覚えのある赤い消防設備と門が見える。

 

潜り戸らしきものもある。格式の高そうな門だ。石垣に囲まれた敷地も広い。

標柱には単に武家門とある。町指定文化財

 

 

 

もと来た道を引き返して帰ることにした。夕日が一段と傾く

 

 

 

 

 

レンタサイクルによる綾の麓地区巡りは楽しい。綾町の新しい観光スポットになれるのではないか。

小さな案内標識があるだけでぐっと良くなると思う。(続く)


2009 綾麓 散策

2009-10-16 | 麓-綾・宮崎

綾町にある綾手づくりほんものセンターでレンタサイクルを借りて子供と麓地区を回ってみた。

 

綾手づくりほんものセンターから麓地区まではレンタサイクルで2、3分のところにある。

 

 

綾麓の武家門。ここの武家門は入口からずっと奥にある。

 

麓地区を走る広い道路に出たところを横断する。

 

 

横断すると石垣と生垣の続く筋に出る。

 

最初の武家門前の道から続くこの筋がメインの道だったと思われる

 

石垣脇の用水路は冷たくて綺麗な水が流れていた。

 

夕方なので夕日が生垣や武家門にきれいな陰影を作っている。

 

近くに漆喰壁の倉も残る。ここの門は簡素な構えをしている

 

 

 

(続く)


2009 綾麓 綾城へ

2009-10-15 | 麓-綾・宮崎

綾城にのぼった。

 

綾城は日向伊東氏48城の一つで伊東氏の拠点として重要な役割を果たした。綾城はその後島津氏の支配となり、江戸時代の一国一城令制度により廃止され、綾に外城(麓)が置かれた。昭和60年に日本ではじめての戦国初期城楼建造物として構築。木造建造物ゆえに中世山城はこうだったんだろうと想像できる位、リアル感がある。三階の物見やぐらに登ってみた。

 

 

物見やぐらから見る綾の市街地と麓。眺望が素晴らしい。

武家門が見える。手前の杉の向こうにも別の武家門が隠れている

 

 

綾城から見る麓の風景。2つの武家門が見える。

木々が密集するところにも実は2つの武家門が隠れている

 

 

 

綾城の物見やぐらから見る眺めは素晴らしい。武家門が麓のあちこちに点在している様子がよく分かる。

こんな眺めは他の地区ではなかなか見れない。(続く)


2007 綾麓を訪れる

2009-10-12 | 麓-綾・宮崎

2007年7月に宮崎県東諸県郡綾町を訪れた時のもの。薩摩藩時代に外城が綾に置かれました。

綾の麓にある路地の両側に武家門が建つ。隠れ里のような風情。

 

 

道路から奥まった位置にたたずむ武家門。同じ通りに武家門、石垣、生垣がつづく。 

 

 

 

 

畑のむこうに倉と武家門がたたずむ。

 


2008 高岡麓 03

2008-08-24 | 麓-綾・宮崎

前にも書いたが、高岡町の麓の景観を特徴付けるものとして独特の石垣の色合いがありそうだ。

 

高岡石を採用した石垣。鹿児島県内の山川石や加治木石とも違う産地独特の色あいがある

 

高岡郷の武家屋敷の垣は本来は竹の生垣にして、横二段に割竹で固定したもので石垣は許可されませんでした。石垣ができたのが幕末頃と言われています。その後石垣を作る屋敷が増え、竹の生垣は石垣へとかわっていきました。(現地解説板)

 

 

 

 

 

 

竹の生垣が残る地区もある

 

 

 

 

高岡町の市街地で確認した武家門の数は11。これに長屋門を入れると少なくとも12の武家門が残る。

薩摩藩113の外城の中ではよく残っているほうではないか。

高岡町の市街地を見下ろす天ヶ城公園に上る。S字に曲がるのは大淀川

急峻な坂道を車で駐車場まで上がる。山の上は広い芝生の公園になっている。

なるほど、昔の山城は造成次第でてっぺんに意外と広い土地を確保できるのだなと妙に関心した

城址には城郭を模した歴史民俗資料館が建てられている。城郭風の建物は薩摩藩外城の風景には相応しくないかも知れない。

しかし公園のシンボルとしてこれでいいのではないか。

(訪問記)

この後、綾町の麓まで足を延ばしたかったのだが(昨年訪問⇒綾町・麓)、今回は断念し、鹿児島へ戻る。


2008 高岡麓 02

2008-08-23 | 麓-綾・宮崎

河上家武家門。高岡町の代表的な武家門の一つ。宮崎市登録有形文化財

 

観音開門は禄高80石以上の武家に許され、両開きで左右いずれかにくぐり門が取り付けられて、夜間の出入りに使用された。河上家の武家門は、観音開門の代表的な存在。弓術の指南家、禄高280石程度の高禄武家のものといわれている。禄高80石以上というのは現在の貨幣価値ではちょっと想像がつかない

 

 

河上家武家門に面する側の高岡小学校の門。歴史を感じる

 

 

安藤家武家門と石垣。宮崎市登録有形文化財。観音開門にくぐり戸付き

 

 

 

 

 

 

 

長野家武家門。登録有形文化財。くぐり戸が付いている

 

 

 

 

神崎家武家門。市登録有形文化財

 

 

 

 

 

 

宮崎市では薩摩藩時代の史跡が大切に保存されている。

フェンスに囲まれた門を見つけた。びっくり。

姿・形からすると観音開門くぐり戸付きの上級郷士に許された形式の門かも知れない。

 

 

壊して処分することはせず保存しようという意思が伺える。早い段階で修復、移設してほしい

(続く)


2008 宮崎・高岡麓

2008-08-23 | 麓-綾・宮崎

鹿児島に帰る途中、高岡町へ。高岡町は人口1万2千人の小さな町。

高岡町の中心に石垣や門構えの武家屋敷が多く残る。最初に目に留まった粟野神社

 

石垣造りの古い塀が旧国道に沿って続く

 

粟野神社は島津義弘が高岡郷を創立したときの郷の宗廟。島津斉彬公が高岡巡見の際に参拝した

 

高岡市街地に入って最初に目にした武家門

 

 

こちらは武家門と石垣と生垣の組合せが美しい

 

 

生垣も綺麗に手入れされていた

 

こちらの屋敷も生垣が綺麗に手入れされている

 

 

独特の色合いは高岡石と呼ばれる。石の性質が非常に柔らかく加工しやすいことから石垣に採用された


 



上の通りを進んだ先の九州森林管理局付近

独特の石垣や生垣が通りの左右に続く。交差点の角に武家門が見える

 



角を曲がると武家地らしい石塀が通りの左右に続く

 

高岡小学校。旧地頭仮屋跡

 




(高岡町の歴史)

関ケ原の戦いから退却した島津義弘が現在の高岡の地に山城(天ヶ城)を築城し、薩摩・大隅・日向各地から家臣や郷士を多数移住させ、高岡、綾、穆佐、倉岡の四郷の外城を創設した。去川の関の外に位置する高岡郷は出水麓や大口麓などと並び、境を守る要衝として大規模な麓が形成された。

(続く)


2008 宮崎・去川-二見家住宅

2008-08-16 | 麓-綾・宮崎

鹿児島から宮崎へ夏休みの旅行にでかけた

都城市から国道10号線を上って宮崎市に下る途中に去川地区がある。去川は薩摩街道(高岡筋)の関所があった

去川小学校の手前を左に入ると去川の関の御定番を代々勤めた二見家の屋敷がある

二見家屋敷。前の道路はかつての薩摩街道

屋敷の入口に二見家の武家門が建っていた。しかし台風で壊れてしまったらしい。

現在、宮崎市によって二見家住宅の保存修復工事が行なわれている

 

山あいにある去川地区を望む。手前は二見家建立の”去川の大イチョウ”の石碑。

左奥に二見家の銅版葺きの屋根が見える。近くからは樹木に遮られ見えない

 

去川の大イチョウ。二見家所有。秋には葉が黄金に変り見事な姿になる

 

薩摩街道(高岡筋)。

去川の関からは和石(よれし)、尾根伝いに国見山を越えて有水に抜ける険しい道だったそう。

尾根に登ってしまえば、後は楽だったかも知れない。