4月上旬、大隅半島の南部、南大隅町佐多を訪れる際、途中の根占に立ち寄りました。
根占麓の中心、地頭仮屋は現在の根占川北、神山小学校敷地。郷士集落はもう少し広がっているようです。
川南の諏訪神社の前に続く馬場沿いに古い石垣や石柱が残っている。
諏訪神社は小根占郷の総社として長野の諏訪神社より分霊を勧請したとある。
諏訪神社の面前の馬場に構える石垣と古い石柱門の数々。
※ 神山小学校前の馬場に面して唯一建っていた武家門はなくなっていた。実に残念。
4月上旬、大隅半島の南部、南大隅町佐多を訪れる際、途中の根占に立ち寄りました。
根占麓の中心、地頭仮屋は現在の根占川北、神山小学校敷地。郷士集落はもう少し広がっているようです。
川南の諏訪神社の前に続く馬場沿いに古い石垣や石柱が残っている。
諏訪神社は小根占郷の総社として長野の諏訪神社より分霊を勧請したとある。
諏訪神社の面前の馬場に構える石垣と古い石柱門の数々。
※ 神山小学校前の馬場に面して唯一建っていた武家門はなくなっていた。実に残念。
2月中旬、南大隅町・佐多へ行く。念願であった佐多麓を廻ってみました。
佐多まで車で約3時間。垂水フェリーで渡り、本土最南端をめざし佐多街道を南下する。途中に麓がある。
大根占麓にて
根占麓にて
佐多から帰る途中。神山小学校前の武家門がなくなっていた。取り壊されたのかもしれない。
根占から佐多街道(国道269号)を南下すると、ようやく佐多の中心、伊座敷に着く。
7年前に佐多岬を訪れたときに比べると新しいトンネルができるなど道路事情がずいぶんよくなっている。
旧佐多町役場付近。地頭仮屋が置かれたところ。
佐多旧楽園。近くに“麓”コミュニティーセンターもある。
伊座敷を歩く。
旧役場(佐多支所)から称讃寺付近を歩くと、石垣で囲まれる旧宅や広い屋敷跡が見られる。
武家門や生垣は見あたらないが、麓らしい石垣の遺構が伊座敷の中心の其処此処に残っています。
近くに伊座敷漁港。坊津のような路地の雰囲気も感じられる。
佐多をあとにする。
風が強く海沿いの畑作地は風除けシートで囲まれていた。ブルーの色がとても印象的。
帰りの大根占麓にて
垂水フェリー乗り場に着くと、すっかり日が落ちてしまった。
垂水市から佐田岬へ向けて国道269号線(佐田街道)を南下すると旧大根占町(現錦江町)を通る。
大根占麓は2008年に訪れているが今回新たな発見があった。
錦江町保健センター(地頭仮屋跡)横の馬場を進むと武家門が点々と並んでいた。
通り沿いに立派ないぬまきの木も見える
2棟目の武家門が見えてきた。門の両脇にソテツ。南国らしい風景
3棟目の武家門。
そして同じ馬場に4棟目の武家門。但し管理状態は悪い。中の屋敷は取り壊されているようだ
上の武家門の先は道が狭くなる
広い道に出る。このあたりも馬場地区に含まれる。古い石垣が残っている。
2008年に訪れた武家門を確認しに行く。健在のようだ
今回、大根占麓には5棟の武家門が現存することが分かった。
県内各地の麓を訪れてみて私の知らない麓の風景がまだまだ残っていることを知ることができてよかったと思う。
西之表麓には島主種子島家ゆかりの史跡が残る。
栖林神社。毎年1月11日に大的始式が行われる。
大的始式は第12代島主種子島忠時が室町時代に宮中の御的始式を伝えたのがその始まりとされている。
種子島家当主を迎えて室町時代の様子が再現される。奉納旗にある三角の印は種子島家の家紋である。
境内の隣には種子島家歴代の墓地がある。島津家一門にあるような立派な墓が並んでいた。
栖林神社は本源寺の隣で19代種子島久基を祭る。久基は琉球王から甘藷(サツマイモ)の苗を分けてもらい
種子島でサツマイモの栽培に成功する。サツマイモはその後薩摩に渡り青木昆陽が江戸でサツマイモの栽培
に成功して天保の飢饉から多くの人々を救う。久基の功績はもっと語られてよいと思う。
種子島家の菩提寺。本源寺
参道階段の両脇に珊瑚石垣が残る。保存状態がよい
本源寺の境内。本源寺は明治の廃仏希釈により取り壊されたが明治16年に再興された。
本源寺坂と呼ばれる通り。周辺に珊瑚の石垣が残っている。第11代島主種子島時氏が建立。
旧榕城中学校跡に残る種子島時尭像。第14代領主(島主)
時尭は種子島に漂着した中国船に同乗していたポルトガル人の所持する鉄砲の威力を見て大金2000両
を支払い二挺を購入する。鍛冶職人八板金兵衛に鉄砲の複製を命じ、苦労の末出来上がった鉄砲は足利
将軍家にも献上された。
鉄砲館(種子島総合開発センター)
国内外の古い鉄砲や種子鋏などが展示されている。建物は横から見ると帆船の形をしている。
西之表市役所近くの風景
珊瑚ではない石垣もあった。
西之表港近の八板金兵衛の像
赤尾木城跡(榕城小学校)。島主、種子島家の居城。
西之表麓は赤尾木城を中心としてその周辺に形成されました。
種子島家の史跡とともに麓の名残が今も残っています。
左右の石垣は南の島らしくサンゴが積んである。
榕城小学校の角から犬の馬場と呼ばれる広い馬場が真っ直ぐ延びる。
犬の馬場は郷士たちの乗馬の稽古場で錬兵場でもある。
犬を放して弓を射たことにより名がついたという。
犬の馬場の脇から延びる小路。樹木がうっそうと茂っている。切り通しになっている。
種子島に由緒のあるお宅のようだ。
麓らしく竹垣にイヌマキがみられる
榕城中学校跡は内城と呼ばれ、その後種子島家の居城は上之城(榕城小学校)に移った。
根占戦争とは大隅半島の祢寝氏との間で起こったいくさ。屋久島が祢寝氏に一時領有されたとある。
右は赤尾木城跡の土塁で左は榕城中学校跡。
突き当たりに石敢当が残る。
樹木の小路と呼ばれた通りを進む.
武家門が残っていた。思わずおおっと声が出る。
個人宅にしては随分大掛かりな工事である。鉄砲館で尋ねると市の施設として4月にオープンする予定とのこと。
種子島家の家臣の屋敷で島主の種子島家も一時居住していた。
屋敷周りにはサンゴの石垣が残っている。
訪問日:3月18日
(続く)
鹿屋市を訪れたので錦江町の大根占麓まで足を延ばしました
国道から脇に入る
天候は少し荒れ模様だったが大根占麓に着いた頃は少し回復する
立派な石垣と生垣。最近の石垣よりもやはり昔の石垣の方が味わいがあるようだ
背の高い犬槇が続いている
武家門が残っていた。生垣といい素朴な佇まいをしている
武家門が残っているとほっとした気持ちになる
旧大根占町は大根占小学校を中心に佐多街道(269号線)の旧国道に沿って麓が拡がっている
旧根占町からの帰りに駆け足で立ち寄った。今回は武家門は見当たらなかった
旧国道沿いに建つ旧家。石垣が続く。入口に立派な石の門柱が建っている
どこも庭木が綺麗に手入れされている。鉄製の門扉がいい
こちらは門と石塀のみ残る
石塀に地元の産出石を使っているのだろうか
鹿屋で荒平石という少し赤みがかった石が採れる
旧国道に沿って独特の赤味がかった石垣が続く
味わいのある門柱と石垣。山之口付近
石垣と石塀の違いはなんだろう。
大辞林によると「垣」は家や庭の区画を限るための囲い。垣根のこと。「塀」は用心や目隠しのため家や敷地の境界に建てた板・土・ブロックなどの障壁のこと。言葉の使い分けは難しい。
旧大根占町は大隅半島の南部、現在の錦江町に属している
錦江町といっても場所がピンとこない。合併後の新名称である南九州市や湧水町もそう
神山小学校の近くの通り沿いに武家門が残っていた
ここの屋敷は地元の子供達の教室として利用されているようだ
武家門の両側に壁や石垣などは見られないが、昔はあったのだろう
八島太郎生誕の碑のある旧家
神山小学校付近の風景
旧根占町は大隅半島の南部、現在の南大隅町の中心に位置する
麓の入口にたつ南蛮船係留の大くす。向こうに見えるのは雄川
根占郷の地頭仮屋は現在の神山小学校。その周辺に麓が形成された
麓地区の風景
根占町立図書館の敷地内に日本庭園が残っている。木々が剪定されたばかりのようだ
枯木の大株に磯長得三翁邸宅門跡記念株の看板がある
磯長得三翁の経歴は興味深い。川北生まれ。薩英戦争の際に辺田(へた)海岸に急造された台場の砲台責任者を任された。上京し、東京府庁に勤めたが退職して民間初の測量会社を設立し、その後郷里に帰り、地元の有志と近郷の名士に書籍館の開設を訴え、創立間もない神山小学校の一室に全国で4番目、九州では1番目という根占書籍館が誕生したという。
大株のそばに建つ仁王像
麓地区の風景
(続く)
旧田代町は大隅半島の南部中央に位置する。田代麓交差点付近が町の中心のようです
田代小学校。奥は田代麓交差点
田代小学校正門
田代小学校近くの国道沿いに立派な武家門や石柱の門が建っている
いぬまきの枝を石柱の上に架け渡した形の門
国道から脇道に入ってみました。奥に石垣が見える
ここにも立派な武家門がありました
国道沿いの武家門と意匠的に非常によく似ている
麓交差点の向こう側へ移動しました
石垣は道路拡張に併せて後退させ組み直したのでしょう
麓交差点を中心とした道路拡張工事はほぼ終わったようです