2015年の夏休み、高尾野にでかけた帰りに野田麓の武家屋敷通りに寄ってみました。
風情ある武家屋敷通りの風景は変わりありません。
野田から国道504号線(紫尾山・堀切峠)を通って鹿児島市内に戻る。
2015年の夏休み、高尾野にでかけた帰りに野田麓の武家屋敷通りに寄ってみました。
風情ある武家屋敷通りの風景は変わりありません。
野田から国道504号線(紫尾山・堀切峠)を通って鹿児島市内に戻る。
出水市向江町は出水麓を形成するもう一つの武家集落です
出水麓は高台の高屋敷(麓町)と平良川を挟んで下にある向江の武家地と町人地からなっていた。
向江町の風景。低い玉石垣と生垣が続く。大きな犬槇の木が目立つ
玉石垣と生垣が続く。犬槇がそびえている
白壁の倉と武家門が残る
低い玉石垣、長く続く生垣、手入れされた犬槇の木、緑に溶け込む武家門。
とても絵になる風景です
全体に石垣や垣根が低いためか、高屋敷の麓町よりも風景が柔らかい
こちらの犬槇もよく手入れされている
(訪問後記)
向江は下級郷士の集住武家地。上級郷士の高屋敷がいかめしい印象があるのに対し、向江の武家地は、全体的に石垣や生垣が低く作られて、いかめしい印象はない。このあと紫尾峠と入来峠を超えて鹿児島市に戻った。
出水麓の続き。諏訪馬場。伊藤邸。犬槇がきれいに刈り込まれている
諏訪馬場。犬槇のある出水カトリック教会。麓町の景観に溶け込んでいる。教会に聖母幼稚園が併設
諏訪馬場の武家門。南北に走る
諏訪馬場の石柱の門。出水麓では少数派の存在
諏訪馬場の武家門
諏訪馬場の武家門。他の武家門より一段高い位置にある。石の無骨な積み方が面白い
諏訪馬場の風景
出水麓にもキンチク(竹)の生垣が残っている
最初の竪馬場に戻る。ここにもキンチクの生垣が残る
(訪問記)
出水麓は薩摩藩最大の外城だけあって規模が大きい。
これだけの規模の麓が当時の形のままよく残ったと関心する。知覧のような華やかさはないが、北の守りに備えた出水郷士の息吹きを感じる。牛車に揺られながら景観をゆっくり楽しむとよい。松江の武家屋敷街にあるような美味しい食事処があるとなおよいが。(続く)
出水麓の続き
仮屋馬場
道幅の広さと長く続く石垣と生垣は出水麓の規模の大きさを物語る。石垣内の敷地は出水小学校
御仮屋門。出水麓の武家門を代表する。仮屋馬場から奥の上馬場(うえんばば)へ歩く
上馬場。野石積みの石垣に切石が積み上げられている
山崎馬場。南北に走る
山崎馬場の武家門。出水麓の中でも古い部類に入りそうだ
東西に走る三原小路。当時の麓の景観そのままの感じがする
山崎馬場の突き当たりの宮地邸
宮地邸は大河ドラマ「篤姫」のロケ地となった
宮地邸。観光客用に陣笠と羽織を用意している
ロケの様子を示す写真の数々が展示されていた
宮地邸の前は菱刈街道。宮地邸は出水麓町では珍しく石塀で囲まれる
(続く)
出水麓の武家屋敷群を訪れました。2度目の訪問。
竹添邸。篤姫のロケ地となりました。屋敷林が立派ですね。
高台の麓町には本町商店街の信号を直進し「鶯谷」(うぐいすたに)と呼ばれる急坂を登って入りました。
鶯谷。城郭のように高く野石を積み上げて石垣を構築している
竪馬場の角にある保育園。武家門風の門を構えているのが面白い
竪馬場。写真の観光客と比べると生垣や屋敷林の高さがずいぶんあります
竪馬場の武家門
竪馬場。税所邸
竪馬場。竹添邸。NHK大河ドラマ「篤姫」のロケが行われた
竪馬場の風景。出水麓を特徴付ける景観は武家門、野石積みの石垣、生垣。さらに屋敷内にそびえる屋敷林であろう。大きな屋敷林は麓の築造当時からのものもあるという。
-伝統的建造物群保存地区-現地案内板より-
本保存地区は、中世山城である亀ヶ城跡の山麓とそれから張り出す台地の崖線で区画される台地上に形成された「高屋敷」と呼ばれた旧武家屋敷地です。保存地区は「西南の役」や「太平洋戦争」の戦災からも免れ、麓造成時の街路や屋敷地割が良好に旧態を留めています。地区内には5本の南北街路と4本の東西街路が通じ、いずれも道に面して石垣を築き、その上に生垣を設ける等、従前の景観を路襲しているため歴史的風致を留めています。
武宮邸の玉石垣
(続く)
野田郷と出水市街地の間に旧高尾野町が広がる。
高尾野駅の北に小さな麓集落が紫尾神社付近まで細く延びている
麓の名前のバス停
道沿いに地頭仮屋敷の跡がある。紫尾神社まで歩く
麓の景観。石垣や生垣に麓の面影が残っている
交差点を渡って進むと突き当たりに紫尾神社がある
石橋が架設された旧家。手前は駐車場スペースにつぶされている
屋敷跡。石柱だけが残る。現在は公園として使われている様子
よく見ると左側の門は武家門だ。高尾野で唯一確認する
歩いてきた方向を振り返る
突き当たりが紫尾神社の参道
紫尾神社の本堂は鮮やかな色で装飾が施されている
(訪問記)
高尾野の麓は地名として残る。交差点の前後付近に石垣や生垣が残り、当時の麓の面影を知ることが出来る。
しかしながら全体としては麓特有の景観が失われつつあるようです。
野田郷の武家屋敷通りから下名地区の感応寺まで歩いた
武家屋敷通りから北に続く薩摩街道・出水筋。玉石垣群が残る
石造倉庫。「野田村農業協同組合第二倉庫」の刻印
石柱の門
線路を渡り、野田郷駅の北へ。
下名地区。道が綺麗に整備されている。肥薩おれんじ鉄道の列車が通過する
感応寺方面を眺める。感応寺へはすこし先を右に入る
感応寺周辺の町並み。ここでも玉石垣と生垣が残っている
感応寺の境内入口に立つ仁王像
境内から入口側を眺める。京都みたい
感応寺。
感応寺の歴史は古く、1194年、初代島津忠久の命で創建された日本最古の禅寺といわれる。その後、島津氏の菩提寺となったが、明治2年の廃仏希釈で廃寺となり、のちに再興。現在の本堂は昭和46年再建のもの。西側に、島津忠久、忠時、久経、貞久の島津氏初代から5代までの墓碑が残されている。右側のソテツは琉球の中山王より拝領したと伝えられるもの。
野田寺。出水市街地へ向かう幹線道路沿いに建つ
野田郷の田園地帯で見つけた茅葺民家。
野田郷駅。肥薩おれんじ鉄道。
梅雨の晴間を利用して、野田郷の武家屋敷通りに出かけました
野田郷には出水、高尾野とともに北の守りに備えるため多くの郷士が配置された。
野田郷駅を下り上名地区に入ると野田小学校の正門付近から石垣群と生垣群が続く。
1km先の天神神社まで歩く
初夏の中、出水市シルバー人材センターによる生垣の剪定作業が行なわれていた。
左右に玉石垣と生垣が続く
武家屋敷通りに面する武家門
袖壁の上に袖屋根付き。脇に切石を3~4段に積み、左右に丸石を積み上げて石垣としている。
取り上げた武家門はいずれも出水市の文化財に指定されている
屋敷内には屋敷林が高くそびえる
この付近は左右に武家門が並んでいる
右側(西側)の敷地に比べると左側(東側)の敷地が高くなっている
反対側から
東側の門は階段を登ってくぐる。武家門が並ぶ
武家屋敷通りの東側に並ぶ三棟の武家門を見ていきたい。
野田郷の武家門は古いもので170年以上、新しいもので100年近く経過する。
損傷が激しいものは修復してあるとのこと
こちらは立派な構え。親柱の後ろに控え柱。袖屋根付き。
こちらは親柱の前に屋根を支える補強柱を立てている
こちらの門は袖壁がもっとも短い。簡素な造りだがしっかり袖屋根を備える
武家屋敷通りは薩摩街道、出水筋にあたる
大日集落の仁王像。武家屋敷通りに面して二基立っている
大日集落付近
天神集落。T字路に設けられた石敢當。もうすぐ終点の天神神社
(訪問記)
初夏の暑い中、出水市シルバー人材センターによる剪定作業が印象的であった。
地元の人の手により地区の景観が保たれている。
多くの人が訪れ、楽しんでもらえる仕組み作りを出水市に期待したい。
2007年6月に野田郷、武家屋敷通りを訪れたときのもの。
通りに沿って玉石垣と生垣がずっと続く
野田郷は旧野田町に位置する。肥薩おれんじ鉄道の野田郷駅にその名前を留めている。
野田郷の武家屋敷通りは野田郷駅をまっすぐ南に下り、野田小学校のあたりから1kmにわたり続く。
武家屋敷通りに沿って武家屋敷が並ぶ
通りの終点付近
下の写真は野田郷駅の北側の通り。
通りがきれいに整備されている。南側と異なり、武家門は見当たらなかった。取り壊したのかも知れない。
近くに島津家の初代から5代までの墓が並ぶ感応寺がある
(訪問メモ)
昨年訪問時には野田郷の武家門にはさほど注目してなかったので次回はじっくり観察したい。
武家屋敷通りは車の往来が多いので散策する際は車に要注意。
近くにくすくす館のような物産館ができるといい。