鹿児島歴史みてあるき  ~ 外城・四季・フォト ~

     2007年から始まった薩摩藩・麓(外城)巡りの記録。各地を訪れた四季折々の風景。日々の暮らし。

2008 甑島麓・里 02

2008-11-30 | 麓-薩摩川内

甑島麓・里の続き

中町馬場。左右に玉石垣群と生垣群が続く

地元の方の話によると苔の生えている石垣が古い時代のもの

屋敷の入口の様子。入口の角に切石を積み、奥の突き当たりまで玉石を築く

 

もうすぐ12月だというのに石垣の上に可愛らしい花が咲いている

 

 

 

 

中町馬場の突き当りに設けられた石敢当

 

中町馬場の突き当たりにある西願時

 

新町馬場。イチョウのある敷地が西願寺

 

 

沖縄の民家に似た屋根が続く。薩摩藩の麓集落の中でも甑島は独特の景観と言える

 

どこの屋敷も入口が切石で整えられている

 

津口番所跡

 

中国・朝鮮・南蛮の異国船の出入りや積荷を監視するため、江戸時代に設けられた薩摩藩の番所跡である。当時、薩摩藩内の24箇所に津口番所があり、甑島には、里・中甑・手打にあった。-薩摩川内市教育委員会-

里小学校(里地頭仮屋跡)の裏手の山に、亀城跡がある

 

亀城跡にある展望台からの眺め

陸繋砂洲(トンボロ)と呼ばれる細長く低い砂洲の上に里集落が形成されている

 

昔読んだ「日本の民家」という本に、里の西海岸のシノーゴヤ(収納小屋)の風景写真が紹介されていた。昭和45、6年位まで200棟位の藁葺きの小屋が並んでいたそうだ。浜に沿って藁葺き小屋が並ぶ様は壮観だったろうと思う。

373newsの懐かしフォトギャラリーで取り上げられている。(http://373news.com/modules/wordpress/index.php?m=200803&paged=2

里集落の散策後、朝9時5分発の高速船シーホークに乗船し、里港から下甑島の手打港へ向かう。

(訪問記)里の麓集落は薩摩藩の外城らしく玉石垣と生垣が続き景観が大事に保護されていると感じた。沖縄の竹富島のように低い屋根の民家が続く様は玉石垣、生垣と合せて独特の景観を醸している。今度は鹿の子ユリの咲く時期に訪れたい。


2008 甑島麓・里

2008-11-30 | 麓-薩摩川内

里港の朝の風景。宿泊先の甑島館より。前日とはうって変わって天候が回復した

薩摩藩時代、甑島(列島)は上甑島の里と下甑島の手打に地頭仮屋が置かれその周囲に麓集落が形成された。

里と手打の武家屋敷通りを散策すると当時の麓集落の面影を知ることができる。

 

明け方、甑島館から里集落を散歩する。時刻は午前7時過ぎ

里港の周囲は玉石垣により景観が整備されている

玉石垣が続く。朝日が昇り始める頃。甑島の家は屋根が低く沖縄の民家に似ている

 

里小学校。里地頭仮屋跡

 

江戸時代初期、薩摩藩には87の郷があり、甑島郷もその一つでした。各郷には地頭が任命され、役所(地頭仮屋)が置かれ、その周りに武士の集落(麓)が形成されました。これを外城制といいます。甑島郷には慶長16年(1611年)甑島移地頭が任命され、元和5年(1619年)、本田伊賀守が初めて来島しました。薩摩藩は以来30数代の地頭で甑島郷を直轄地として治めましたが、地頭仮屋は、里・手打・中甑にあり、地頭は里から中甑そして手打と居場所を変えていったと考えられます。当時の地頭仮屋は、この里小学校校庭の大半を占めて武士の集落(麓)は現在の村西にあります。-薩摩川内市教育委員会-

 

 

里小学校の近くの風景

 

この付近一帯は藩政時代の城を中心とする典型的な外城制度の名残をとどめた史跡が多い所で武家屋敷は、おおかた微禄の郷士の居住地であったが、石垣の規模等日本有数といわれる。亀城を中心として地頭仮屋、郷士屋敷、津口番所、馬場寺社等往時のおもかげを十分に残していて、江戸時代の歴史の姿をうかがうことができる。-里村観光協会-

 

 

武家屋敷通りの入口付近の風景

 

武家屋敷通りの入口にある八幡神社

 

武家屋敷通りの入口。中町馬場。古くからの玉石垣が残る

 

 

数百メートルに亘り、中町馬場の両側に玉石垣と生垣が続く。薩摩藩麓の典型的な景色

(続く)


2008 甑島・上甑島

2008-11-29 | 薩摩地方

串木野新港から甑島へ向けて高速船「シーフォーク」に乗船した

料金は大人片道2480円

天候は雨模様。海は一見穏やかに見えるがときおり波しぶきが船の窓を叩きつける

 

串木野新港から約60分で上甑島の里港に到着。

天候から欠航になるかも知れないと心配した。意外と欠航になる場合があるようだ。

里港から車を走らせて上甑島の見所を案内していただいた。

 

海鼠池。長目の浜によって外洋と隔てる形で作られた3つの湖沼群のひとつ。海水の出入りがある

 

振り返ると貝池

 

長目の浜に出ることができる。海は荒れていた。漂着物が多いようだ

 

長目の浜と海鼠池。田ノ尻展望所より。風が強く体が吹き飛ばされそうだ

 

上甑島から甑大明神大橋、鹿の子大橋をわたり中甑島へ。

アーチが美しい鹿の子大橋。甑大明神大橋420メートル、鹿の子大橋240メートル

 

中甑港にもどる。フェリーニューこしきが入港。甑島の各港と串木野新港とを結んでいる

 

上甑島には7月から8月に掛けて鮮やかな紅色をした鹿の子ユリの花が咲くそうだ

 

上甑町の中甑にて。甑島には玉石垣で囲まれた民家が残っている。

 

屋根の形は沖縄の民家の屋根に似ている

 

上甑町の中甑にて。玉石が丁寧に積み上げられている

 

 

甑島神社

 

寺の本堂の屋根も傾斜が緩やかになっている。台風対策なのだろう

 

上甑町から里に戻る。宿泊は「甑島館」。島内唯一のモダンな建物で温泉もでる。

夜は甑島名物のきびなごを頂く。

(続く)


2008 甑島へ

2008-11-23 | 薩摩地方

11月19日から21日まで甑島を訪問した。

甑島は串木野港からジェットフォイルで約60分。東シナ海上の3つの島からなる。

甑島には上甑島の里と下甑島の手打に地頭仮屋が置かれ、両地区に武家集落(麓)が形成された。玉石垣の続く武家屋敷通りを歩くと東シナ海の洋上に武家集落が形成されたことに不思議さと感銘を受ける。

一方、甑島の集落には平家落人の伝説が残っているそうだ。同行のMさん(彼は中世の歴史に詳しく各地の城跡を訪れる趣味をもっている)の話によると、鹿児島の離島には源氏(=島津氏)を囲むように平氏の伝説が島々に伝わっているとのこと。

歴史の事実はともかく、鹿児島の島々に源氏を挟むように平家の伝説が伝わるという話に興味を覚えました。案内者の方も確かに甑島の集落には転々と平家のゆかりが伝わっているようだと話してくれました。

民俗学的には各地の平家伝説の信憑性に疑問符が付くケースが多いようだが伝説が伝わる背景に興味を覚える。

そんな視点から記事を取り上げるのもおもしろい。

甑島の武家屋敷通りの風景は後日写真をアップしたい。


2008 樋脇麓 03

2008-11-15 | 麓-薩摩川内

地頭仮屋跡のある庄内地区を後にする

地頭仮屋跡から移転した樋脇小学校付近

ふと小学校の脇の道を入ってみた

先の石垣に囲まれた屋敷地にぽつんと武家門が残されていた

 

屋敷は取り払われても、武家門は不思議と残る。鄙持ち館主人さんの言葉を思い出す

 

人が住まなくなった屋敷は諸事情で取り壊さざるを得ないのだろうが武家門だけが残るのはなぜだろうか。

せめて門だけでも残したいという屋敷地の所有者の意思の表れではなかろうか

 

 

 

樋脇小学校前の幹線道路沿いに建つ門。

昔からの武家門かは分からないが左右に小さいながらも袖屋根が付いている

(訪問記)

樋脇町は旧役場付近、少し離れた地頭仮屋跡一帯に玉石垣や生垣、武家門構えの屋敷が点在し、外城の面影を十分に残している。これらの歴史的遺産を活かそうという動きは今のところ見られない。おそらく今後もないでしょう。これからも歴史的風景が残り続けることを祈ります。


2008 樋脇麓 02

2008-11-15 | 麓-薩摩川内

樋脇麓の続き

赤い屋根の建物のある敷地が樋脇郷の地頭仮屋跡

 

薩摩川内市指定文化財「樋脇郷地頭仮屋跡」(昭和50年9月1日指定)

 

樋脇郷の地頭仮屋跡で、郷内の行政・軍事・警察の一切を担っていました。江戸時代初期の寛文11年(1671)に設置されました。このあたりを麓といい、ここに郷士の大部分が住んでいました。前の広い通りを馬場といい、郷士が武芸を練った場所で、射撃訓練をした台場跡もあります。明治4年(1871)、外城第4郷校として仮屋跡に学校が設立されました。これが樋脇小学校の起源です。-薩摩川内市教育委員会-

 

麓内を真っ直ぐ延びる馬場。左右に玉石垣と生垣が並ぶ

 

馬場の武家門

 

 

左のブロックが惜しい。この麓も人知れずひっそりと残っている

 

頂部に傘石を載せた石柱のある門構え

 

 

 

 

 

馬場の先で見かけたとても立派な武家屋敷

 

 

左右の生垣や庭木も手入れが行き届いている様子

 

地頭仮屋跡一帯は樋脇町の中心市街地から少し外れており、ひっそりと静かな時間が流れている。

(続く)


2008 樋脇麓

2008-11-15 | 麓-薩摩川内

市比野に出掛けた際に樋脇町の麓地区をまわってみた。初訪問

旧役場の近くで見つけた武家屋敷。門に風格がある。朝方霧につつまれる

 

 

 

晩秋の時期。背後の建物は薩摩川内市樋脇支所(旧役場)

 

近くの路地を歩くと武家門が残っていた。屋敷はない

 

 

天神地区。道の左右に玉石垣が築かれ、その上に生垣が配されている

 

 

 

玉石垣が続く。地頭仮屋跡へと続く道。

 

 

地頭仮屋跡へ続く道に面して二棟の武家門が並び建っている

 

 

 

 

(続く)


2008 山崎麓 02

2008-11-14 | 麓-さつま宮之城

山崎麓は御仮屋門から国道を越えて山裾の道に沿って石垣や屋敷が点々と続いている

長い石塀と武家門

 

 

 

広い敷地と道を隔てるように石塀がずっと続く場所がある。実に長い石塀だ

 

田の神様と石塀。

 

石塀がえんえんと続く

 

古い石柱が建つ

 

低い石垣の上に生垣。これが昔の姿だったのかも知れない

 

 

東市来の鶴丸城跡のように石垣を高く積み上げた場所がある。石垣の上は屋敷跡か

(訪問記)

山崎麓は国道を中に入ると山裾に沿って道がゆるやかに曲がり、武家屋敷が点在します。

印象的な麓の風景でした。

参考:旧宮之城町・山崎麓の風景(2007.11)


2008 山崎麓の風景

2008-11-14 | 麓-さつま宮之城

さつま町宮之城の帰りに山崎麓に寄る

山崎の仮屋門。御仮屋門が残る麓は山崎、出水、蒲生、末吉

山崎は宮之城から川内に向かう国道267号と入来に向かう国道328号が分岐する要衝の地にある

 

 

仮屋門付近の風景

 

山崎郵便局近くのお寺

 

国道328号を渡り、山裾の道を歩いてみた

国道からはこの向こうに武家屋敷があるとは分からない

 

ひっそりと武家門がある。石垣は川原石を積んだ玉石垣。生垣もある

 

 

山裾に沿って石垣がずっと続く

 

石垣沿いに道を進むと別の武家門がある。

石垣の形、意匠が微妙に異なっている。下の石塀は頂部に笠石を載せている

(続く)


2008 吉利郷・麓 02

2008-11-09 | 麓-串木野・日置

吉利麓の続き

左右に生垣とひくい石垣がつづく

 

生垣は綺麗に刈り込まれ、石柱もいい雰囲気

 

武家門の奥にある母屋は周囲の雰囲気に合せて外壁が塗り替えられていた

 

 

吉利小学校正門前からの風景

 

 

 

通りの反対側に残る武家門

 

 

吉利小学校。小松家古書が展示されている。こちらの小松帯刀は少し厳しい面構え

 

 

(訪問記)

1年振りに吉利を訪れた。大河ドラマに出てくる小松帯刀のゆかりの地を見ようと訪れる人が多いようだ。

前回訪れた時よりも吉利小学校前の通りを中心に町並みの景観が綺麗になっている。

大河ドラマは地区の魅力を再発見するいい機会になったと思う。

参考:吉利麓(1)(2)(2007.11訪問)、喜入麓(2008.07訪問)