指宿市の市街地に近い地区で思いがけず武家門を見かけました。
JR指宿駅方面に向かう途中。大牟礼地区にて。
外から見る限りはいつ頃に作られたものか、昔から由来ある門か、ご主人の趣味で作られたのかはっきりしない。
指宿市の麓地区はここからずいぶん離れた宮ヶ浜地区にある。
とりあえず記録にとどめる。
指宿市の市街地に近い地区で思いがけず武家門を見かけました。
JR指宿駅方面に向かう途中。大牟礼地区にて。
外から見る限りはいつ頃に作られたものか、昔から由来ある門か、ご主人の趣味で作られたのかはっきりしない。
指宿市の麓地区はここからずいぶん離れた宮ヶ浜地区にある。
とりあえず記録にとどめる。
谷山は独特の石文化が残っている。
合併前は旧谷山市として鹿児島市から独立していた。鹿児島市の中心市街地と異なり戦前の空襲を受けなかった。
したがって独特の入りくんだ街並みが今に残った。
8月の上旬に谷山を訪れた際、古い武家門をカメラに収めることができた。
見るからに最近建てたものであろう。古い武家門が建っていたのかも知れないが
谷山は現在JR谷山駅を中心に再開発事業が進められており、開発用の土地が虫食い状態となっている。
再開発が進むと狭い路地を中心とする風景ががらりと変わるので今のうちに開発予定地区の風景を残しておきたい。
鹿児島市谷山を訪れた。
車で通るたび石塀や石垣が残る町だなと思っていたがその思いを強くした。
谷山中央1丁目。近くに北麓という名前の集会所がある。
石垣に石柱の門が残る。向こうは谷山小学校
谷山小学校。谷山麓の地頭館跡。
低い石垣が敷地をぐるりと囲むが石垣はもっと高かったのではなかろうか
右折する。谷山中央4丁目付近
石塀。いぬまきの木も残る。
谷山中央4丁目。この路地の石塀は圧巻であった。南麓地区。
ずっと向こうまで石垣・石塀が続く。
先まで行って引き返す。独特の風合いの石は溶結凝灰岩。
頂部に傘石を載せた立派な石柱の門。よく見ると柱の足元に小さな石碑がある
石碑:赤崎海門生誕地。薩摩藩谷山の郷士で江戸中期の儒学者。造士館の教授、後に江戸の昌平黌の教授を務めた。
今回は谷山麓の一部を紹介した。谷山市街地を抜ける国道から武家門らしき門がちらと見えた。
谷山小学校の近くの三宅美術館周辺や国道を挟む東側の地区にも独特の石垣や石塀が残っていそうであった。
次の機会に紹介したいと思う。
指宿小学校(指宿市西方)の近くに松尾城の跡がある。松尾城の麓が指宿麓。初めての訪問。
指宿麓の全景。奥方は松尾城跡。
国道225号線沿い。国道を渡って松尾城跡方向へ
麓らしい雰囲気が残る。少し歩くと武家門が残っている。
トタン屋根が痛々しい
さらに進むと武家門がみえてきた。う~む。こんな場所に武家門が残っているなんて想像していなかった。
もと来た道を国道に引き返す。
国道から反対の側道へ。
国道の反対側にも武家門がある。見事な生垣が門の奥まで続いています
国道沿いに残る古いいぬまき
喜入麓の馬場の山側にある石垣に比べると反対側の石垣はどれも低い
山側だけが高いのは馬場の造成上の理由でしょうか
この武家門はいまにも崩れそうだが1年前の姿と変わっていない。台風で壊れないか心配です
馬場を進むと左右に武家門が見えてくる
武家門は石製の柱に取り替えられています。三段構えの立派な門です。修理中でしょうか
綺麗な石垣が続いています。石垣と生垣の組合せが綺麗です
ここの武家屋敷の佇まいがとても好きです。実に絵になります。後ろの法面工事が気になりますが
馬場は突き当たりで左折するようになっています
馬場にたつ最後の武家門
(訪問後記)喜入麓は鹿児島市内の貴重な歴史的風景ある地として是非整備して欲しい地区です
6月中旬に南九州市頴娃町へ向かう途中、喜入麓を訪れました
喜入小学校(領主肝属家の御仮屋跡)前の広い馬場に沿って石垣や生垣が続き、武家門が点在します
喜入麓の入口付近に建つ武家門。山の緑が綺麗です
喜入小学校の正門前の生垣は造形が実に見事です
喜入小学校正門
馬場から脇に入ると古い石塀の続く武家門が残っています
石垣の続く馬場に戻りました
武家門の少し先に別の武家門の屋根が左右に見えるのが分るでしょうか?
1つの写真に複数の武家門が収まる風景がとても好きです
(続く)
甲突川河畔に歴史ロード “維新ふるさとの道” が整備されました。
高麗橋のたもとに武家門が作られた。
高麗橋。街灯は薩摩切子をデザイン。
元の石造りの高麗橋は平成5年の8・6水害をきっかけに撤去して架け替えるか歴史的建造物として残すかずいぶんと議論されたが、架け替えが決まり、石橋公園に移設された。平成5年の8・6水害は東京にいて南日本放送からの生中継に釘づけになった。今でも生々しく覚えている。
甲突川河畔の桜が咲き誇っている。
西郷隆盛生誕地。一帯は加治屋町と呼ばれ、鹿児島城下の下級武士の居住地であった。
西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌などの明治の偉人が加治屋町で誕生した
復元された薩摩藩の郷士屋敷
オモテとナカエの二ツ家。高山の二階堂家住宅などに代表される
山之口馬場の碑。写真の左端を奥に走る道が山之口馬場のようだ
南州橋よりのぞむ。右奥は維新ふるさと館
甲突川の河畔を進むと 大久保利通像に突き当たる。
(訪問記)
散策コースとしては甲突川の反対側に駐車スペースを確保して車を停め、そこから高麗橋方面へ歩いて高麗橋を渡る。武家門をくぐって郷士屋敷で休憩し、維新ふるさと館や大久保利通像まで歩き、南州橋(木製の歩道)を渡って元の駐車場に戻れればいいかな。
参考:甲突川・大久保利通像
旧麓の馬場に沿って歩く。
給黎城の歴史が書かれている。
1411年伊集院頼久の所領。島津久豊との争いに負け、給黎から喜入に名前が改められた。
1595年から代々肝属氏の居城となる。4代兼屋のとき現在の麓に居館を移す。
約460年以上この地が麓として政治の中心的役割を果たしてきた。
この付近は用水路に沿って石垣がずっと続いている
さらに竹垣も続く
鯉が泳いでたら言うことない
背後は給黎城址の一部。山城は既に森化しているので城址と言われてもピンとこない
この付近が地区の終点あたりか。
馬場に沿って道を登っていくと一倉小学校のある一倉地区に辿りつく。そこから知覧への幹線道路に出る
(訪問記)
旧麓にはかつての政治の中心地であったであろう麓の面影が石垣、門等に残っている。
特に馬場沿いや路地に面する殆どの家の門に古い石柱が残っている点は印象的であった。
子供の頃遊びに行ったときは子供の数がもっと多かった気がする。お盆に帰省した子供達だったかも知れない。
現在の喜入麓から車で5分ほど八幡川に沿って走ったところに旧麓(もとふもと)がある。
地名から分かるように現在の麓に移るまで領内の政治の中心がここにあった。
背後の給黎城(山城)が肝属氏の居城とされてきた。四代領主兼屋のとき現在の麓に居館が移された。
旧麓の入口にある田の神
地区内に入ると馬場が真っ直ぐ延びている
旧麓で確認した唯一の武家門。
子供の頃、旧麓に何度か遊びに行って用水路に掛る橋を渡ってこのお宅に遊びに行った記憶がある。
石柱の上に屋根が架けられている
旧麓には石柱の門が実に多い。
ほとんどの家の門に写真のような古い石柱が残されている。古い石柱の数々を見てみよう。
手前は旧麓公民館。公民館の入口に立派な石柱。奥の方に今年の干支のねずみの像が飾られていた
馬場の脇の用水路を流れる水は途中で堰き止められ、左側の用水路へ
(続く)
喜入麓は肝属家の御仮屋跡と肝属家の家臣の屋敷の面影が残る。
喜入小学校前の馬場
大河ドラマで篤姫に想いを寄せた肝属尚五郎は、喜入領主・肝属兼善の三男として生まれた
22歳のときに吉利領主・小松清猷の養子として家督を継ぎ、小松帯刀と改名する
喜入麓入口に建つ武家門。石垣は3段と低い
喜入小学校。肝属家の御仮屋跡
喜入小学校前の案内板
喜入小学校前の武家門。石垣が低い。左右に武家門が並んでいたと思われる
馬場を左折する。左は石塀
門をくぐりながら子供達は塾に通っているのでしょう
再び馬場に戻る。馬場の山側は石垣が少し高いが、反対側の石垣は低い。なぜだろう
馬場の左右に武家門が並ぶ
下の門は新しく修繕したものと思われる。こういう修繕の仕方もあるのですね
馬場を進む。見事な石垣が続く
5段積みの石垣の上に生垣、そして武家門。薩摩藩の麓を代表する景観
8棟めの武家門。知覧麓に次ぐ規模かも知れない
喜入小学校方面を眺める。右に石柱の門が見える
手前は石垣。その上に竹垣、犬槙の生垣が配されている。庭の木は手入れが良くない様だが木自体は大きい
(訪問記)
喜入麓は喜入小学校の御仮屋跡の前の馬場に沿って左右に肝属家家臣の武家門が並ぶ。
しかし既に屋敷が取り壊され駐車場になっている場所も幾つかある。
かつては知覧麓のような趣があったかも知れない。このあと、旧麓(もとふもと)を訪れる。
(続く)