鹿児島歴史みてあるき  ~ 外城・四季・フォト ~

     2007年から始まった薩摩藩・麓(外城)巡りの記録。各地を訪れた四季折々の風景。日々の暮らし。

2010 都城島津家・城下町の風景

2010-05-12 | 麓-小林・都城

G.W.に都城市を訪れる。高城麓に向かう途中、都城の市街地で都城島津邸の案内板に目が留った。

都城島津邸。今年3月27日から一般公開。朝早すぎて門は閉まったままであった。

開館までの時間、早鈴町界隈を散策することにする。

 

都城島津邸の正面に建つ武家門。

 

 

早鈴町界隈には玉石垣と生垣の風景がよく残っていることが分かった。

 

 

 

早鈴町界隈を歩くと武家門や古い石垣が残っている。

 

古い石垣と生垣が続き、庭木がきれいに手入れされているところが多い。

 

 

 

 

崩れかけた古い武家門にも出会った。

 

 

向かいに石柱の門が残る。かつては大きな屋敷があったのではなかろうか。

 

マンションに建て替えられた屋敷の石垣はそのまま残されていた。 

 

東口番所跡。よく見ると向こうのマンションの玄関は武家門のままだ。

 

保存か解体かで揺れた都城市民会館。

 

恐竜か巨大なハリネズミのようにも見える建物は戦後モダニズム建築の傑作と言われた。

確かに斬新な建物だ。建設にGOを出した当時の市長も偉いし、作った地元の建築会社もすごい。

地元大学からの貸与申し入れで解体の危機を免れることができた。よかったね

早鈴町界隈は武家門や石垣、生垣等が良く残っている。


2008 都城・野々美谷麓

2008-09-28 | 麓-小林・都城

都城市の野々美谷は都城島津家4万石の外城の一つです。

都城島津家は私領地内に6つの外城(安永、山口、志和池、野々美谷、梶山、梅北)を設けました。

野々美谷の中心

 

 

 

 

麓の名前が残るバス停

近くに野々美谷城跡がある。1599年の庄内合戦(庄内の乱)の際に島津氏宗家側と戦った

(訪問記)野々美谷には麓らしい風景は余り残っていない


2008 都城・今町街道をいく

2008-09-21 | 麓-小林・都城

都城市から曽於市へ戻る途中、今町街道を通りました。現在の国道269号

今町街道の脇に一里塚が残っている

国指定史跡「今町一里塚」

 

 

今町街道は昭和10年頃まで美しい緑の松並木が続いていた。街道の両側に土盛のように残されていた塚が国の指定を受け保存されることとなった。現在は松並木がなくなっているが塚は残っており、一里塚として九州で唯一の国指定史跡となっている。

 

今町街道沿いに残る楠見家武家門。腕木門

 

大正時代に藁葺から瓦葺に葺き替えられた

 

 

 

 

 

門の後ろには土蔵

 

新旧2つの武家門がたつ


2008 宮崎・三股 02

2008-09-20 | 麓-小林・都城

三股町の山王原は麓地区ではないが当時の薩摩藩郷士(士族)により明治初期に開拓された。

郷士による開拓の歴史を町割りや景観から知ることができる貴重な地区である。思わぬ発見である。

山王原地区。道の両側に川原石を積んだ低い石垣が作られている

 

低い石垣の上には生垣が配置されている。綺麗に剪定され、気持ちのいい空間となっている

 

 

 

 

 

山王原地区。南北に走る道も低い石垣の上に生垣が作られている

 

 

家は新築されても、石垣そのまま残されている 

 

武家門があった。こちらの石垣は切出し石を4段に積んだもの

 

 

 

上の武家門の近くにもう一つの武家門。柱は自然木?を使っている。

ここは薩摩弓の流れを汲む都城大弓(国指定伝統工芸品)の製作所でもある

 

上の武家門の面する通りでも生垣が綺麗に剪定されていた

 

通りに面する武家門。こちらの石垣は切出し石使用

 

 

 

三股町に入って最初に見かけた武家門

 

この武家門を見かけたことをきっかけに山王原地区内で思いもかけずに素晴らしい景観に出会うことができた

(訪問記)

川原石を積んで道の両側に石垣が作られる点は、時代は違うが薩摩川内市の入来麓によく似ている

綺麗に刈り込まれた生垣のある風景は姶良町の重富麓によく似ている

都城市とその近郊をまわるとまだいろんな歴史的風景に出会えそうな気がします


2008 宮崎・三股-薩摩藩士が開拓した郷士集落

2008-09-15 | 麓-小林・都城

三股町山王原にある早馬神社

明治2年に都城地頭として赴任した三島通庸は庄内の地頭仮屋を役館とし、道路建設、原野開発に力を注ぎました。

その原動力として薩摩・大隅・日向の各地から多数の郷士を移住させました。

境内内にある三股開拓の碑

三島通庸は勝岡郷と梶山郷を合併して三股郷を作り、その中心をここ山王原におきました

原野を開拓するため70戸を移住させたとある

 

早馬神社の近くに当時の移住者によって作られたであろう町並みが残っています

 

石垣の上に生垣を配する独特の景観は、薩摩藩の郷士集落の町並みそのもの

 

生垣の途中に武家門が残っています

 

残念ながら門の屋根が崩れかけている。生垣はきれいに整備されている

 

 

 

 

通りの先にある薬屋。石垣は丸石の二段積み。上の写真もそうだ。

開拓当時、川原石を運んでみんなで町づくりに精を出したのではと想像する

 

さきほどの武家門の前に武家門が並んで建っている

道の両側に武家門が並んで建つと、さまになる

 

惜しいのは左側の屋敷は石垣の上がブロック塀に作りかえられていること

 

 

 

 

途中のT字路に石敢当

 

生垣の向こうに見かけた祠

 

三股町の山王原を歩くと川原石を積んだ石垣やきれいに刈り込まれた生垣、そして武家門等に、三島通庸とともに三股郷の原野を開拓した薩摩藩の郷士達の苦労や誇りを感じることができます。

(続く)


2008 都城・勝岡麓

2008-09-14 | 麓-小林・都城

曽於市を訪ねた際、都城まで足を延ばしてみた

都城から三股町に向かう途中、郷士集落らしい雰囲気の残る地区を見かけた

綺麗な生垣で囲まれている。よく見ると少し入った所に武家門が見える

 

幹線道路を脇に入った奥に石垣と生垣が見える

 

丸石を積んだ石垣と生垣が続く。奥に見えるこんもりした山が都城12外城の一つ、勝岡城址らしい

山の向こうに麓らしい景観が残っているかも知れない。

 

 

質素な武家門があった。むしろ可愛らしい?

 

 

 

このあと三股町へ向かう。

三股町では素晴らしい出会いがあった。


2008 都城・山之口麓

2008-08-16 | 麓-小林・都城

宮崎県都城市の山之口地区には地頭仮屋が置かれ、周囲に郷士の居住地である麓が作られた。

国道269号線に面して建つ地頭仮屋跡

 

山之口麓文弥節人形浄瑠璃を上演する人形の館(資料館)

 

人形の館の前には比較的新しい武家門がぽつんと建つ

 

国道を一歩入った通りに武家屋敷の面影が漂う。

 

 

 

通りに面して建つ石垣と武家門

 

 

 

 

 

石垣の反対側に生垣が続く

 

こちらには石柱が残る

 

 

(訪問後記)

宮崎旅行の序に宮崎県内の麓集落を多く回りたかったが断念する。それでもいくつかは回ることができた。山之口麓はその一つ。

昨夏に訪れた記録⇒山之口麓


2008 都城・庄内 02

2008-03-07 | 麓-小林・都城

願心寺の遠景。本堂と山門が国の登録文化財となっている

 

立派な山門。大正9年落成

 

本堂。明治39年完成。周囲に洋風のガラス窓を備える和洋折衷の非常にモダンな建物

 

願心寺の周囲を囲む立派な石垣。上部の意匠が見事です

 

 

こちらの通りは生垣が続く

 

東地区にある豊幡神社

都城島津家初代北郷資忠(ほんごうすけただ)を祭る

庄内町の各神社では薩摩藩領地での古くからの行事である六月灯が毎年夏に行われるそうだ

城山(安永城跡)の麓にある南州神社

奥の階段を上ると安永城跡

西南の役で政府軍と戦い戦死した庄内郷の五十六名が西郷隆盛とともに祀られている

 

 

 

 

近くの農協倉庫の裏には都城島津家歴代の墓がある

 

庄内町の商店街に残る鍛冶屋


2008 都城・石垣造りの町並み~庄内

2008-03-06 | 麓-小林・都城

都城市の庄内町には100年前の明治中期の趣を残す石垣造りの町並みが残っています

 

明治の頃に作られた美しい石垣と建物が続く

 

 

 

  

 

庄内地区は梅が見ごろを迎えていた

 

 

 

こちらの門柱も見事な造形です

 

 

 

 

門柱に歴史を感じる

 

安永城跡の麓にある庄内小学校

樹齢400年のイチイガシの木と明治初期に庄内町の発展に尽くした都城地頭、三島通庸の碑が建つ

都城は薩摩藩時代に都城島津氏(北郷氏)の城下町として栄え、私領内に6つの外城(安永・山田・志和池・野々美谷・梶山・梅北)を構えた。外城の一つ、安永が現在の庄内町にあたる。安永城は、関が原の合戦の頃、都城で起こった「庄内の乱」のとき、都城とともに島津本家側と戦った歴史がある。庄内町は安永城の麓に郷士集落が形成されたと考えられる。

地方には知られていないが歴史的な町並みが残されているところが多い。庄内町もそんな地区

趣のある通りを散策するのは気持ちいい

 

 

 

庄内町に残る石垣は明治創建の願心寺の石垣を作った大工が庄内町に住み着き、周囲の屋敷の石垣を手がけたと言われています

(続く)