景行18年、天皇はさらに進んで熊県(くまのあがた)、現在の熊本県球磨郡に到着した。兄熊(えくま)・弟熊(おとくま)という土着の豪族の熊津彦兄弟がいたので呼び寄せたところ、弟熊が来なかったので派兵して誅殺した。
その後、海路で葦北の小島に泊まった。現在の熊本県葦北郡である。この島には水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。葦北から再び船に乗って火国(ひのくに)に着き、八代県豊村、現在の熊本県宇城市に上陸した。
高来県(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)へ渡り、ここで土蜘蛛津頬(つちぐもつつら)を殺した。高来県は現在は長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市などに再編されているが、明治まで高来郡が、平成の市町村合併までは北高来郡や南高来郡が郡名として残っていた。玉杵名邑は現在の熊本県玉名郡あるいは玉名市である。
そして阿蘇国に到着した。阿蘇津彦と阿蘇津姫の二柱の神がいた。さらに進んで筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木に着いた。御木は現在の福岡県大牟田市三池町である。ここに高田行宮(たかたのかりみや)を設けた。次に八女県に着いた。現在の福岡県八女郡あるいは八女市である。ここで天皇が南の粟岬を見て「峯が重なって大変麗しいあの山には神がいるのか」と尋ねたところ、水沼県主(みぬまのあがたぬし)の猿大海(さるおおみ)が「八女津媛という女神がいます」と答えた。それでこの神の名が地名になった。水沼県主はこのあたりを支配していた土着の豪族で水間氏(水沼氏)の祖とされる。さらに的邑(いくはのむら)、現在の福岡県うきは市に到着して食事をとった。日向の夷守で諸県君の泉媛が大御食を奉ろうとして集まっている場面に出くわして以降、この的邑に到着するまでの行程は全て景行18年の一年間のことである。そして景行19年、天皇はようやく大和へ戻った。
さて、ここであらためて景行天皇の九州平定の行程を確認し、九州の地図にプロットしてみた。
①周芳の娑麼(山口県防府市佐波)
②豊前国長峡県(福岡県行橋市長尾)
③碩田国(大分県)
④速見邑(大分県速見郡)
⑤来田見邑(大分県竹田市)
⑥柏峡の大野(大分県豊後大野市)
⑦日向国高屋宮(宮崎県宮崎市高屋神社)
⑧子湯県丹裳小野(宮崎県児湯郡)
⑨日向国夷守(宮崎県小林市)
⑩熊県(熊本県球磨郡)
⑪葦北(熊本県葦北郡)
⑫八代県豊村(熊本県宇城市)
⑬高来県(長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市)
⑭玉杵名邑(熊本県玉名郡、玉名市)
⑮阿蘇国(熊本県阿蘇郡)
⑯筑紫後国御木(福岡県大牟田市三池町)
⑰八女県(福岡県八女郡、八女市)
⑱的邑(福岡県うきは市)
これを見ると西征のルートがよくわかる。大和から周芳の娑麼まではおそらく瀬戸内海を船で行ったのだろう。ということは、景行天皇のときには淡路や吉備、伊予など瀬戸内海航路の要衝は崇神王朝の支配下に入っていたと考えられる。いずれも神武東征を支援した一族であった。
九州に渡った一行は豊前国長峡県を皮切りに時計回りに九州を一周していることがよくわかる。長峡県は豊前国に属し、碩田国、速見邑、来田見邑、柏峡大野は豊後国に属するが、豊前と豊後は7世紀末に分轄されるまでは豊国としてひとつの行政単位であった。その豊国の中心にある宇佐は神武東征の最初の寄港地であった。景行天皇が宇佐に滞在した記載はないが、長峡県に行宮を設ける前に偵察隊が討った鼻垂という賊は菟狭川の川上にいたという。菟狭川の川上と言えば、神武一行が宇佐に立ち寄った際に菟狭津彦・菟狭津媛が一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を設けて神武天皇を歓迎した場所だ。また、私の考えではこの宇佐は魏志倭人伝に記された狗奴国と倭国(北九州倭国)の戦闘において鉄製武器の供給で狗奴国を支援した、すなわち狗奴国王である神武側についたところだ。景行天皇はこの宇佐の鼻垂を始めとする豊前の賊を討ち、続いて来田見邑を拠点に豊後の土蜘蛛を討った。これによって豊国を支配下におくことに成功した。
ところで、鼻垂ら4人の賊のことを告げて降参してきた神夏磯媛はいったい何者だろうか。書紀には非常にたくさんの部下を持つ一国の首領で、八握剣、八咫鏡、八坂瓊と白旗を船の舳先に掲げて降参してきたとある。八握剣、八咫鏡、八坂瓊とは三種の神器である。神夏磯媛は三種の神器を持つ豊前国の首領であり、しかも「神」を名に持つ。福岡県田川市夏吉に若八幡神社があり、祭神には仁徳天皇、応神天皇、神功皇后に加えて 地主神として神夏磯媛命の名がある。神社由緒によると、神夏磯媛は夏吉地域開発の祖神とある。一方で書紀には神武東征の際に中臣氏の遠祖である天種子が菟狭津媛を娶ったことが記される。天種子は天孫降臨の際に瓊々杵尊に随伴してきた天児屋命の孫である。天孫族に近い関係にある天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔が神夏磯媛ではないだろうか。神夏磯媛が祀られる若八幡神社は宇佐からはかなり離れているが、いずれも豊前国である。天種子の系譜は書紀編纂時の実力者である藤原不比等へとつながる。藤原氏の祖先が天皇による九州平定に尽力したことが暗に示されている、と考えるのは想像が過ぎるだろうか。
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その後、海路で葦北の小島に泊まった。現在の熊本県葦北郡である。この島には水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。葦北から再び船に乗って火国(ひのくに)に着き、八代県豊村、現在の熊本県宇城市に上陸した。
高来県(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)へ渡り、ここで土蜘蛛津頬(つちぐもつつら)を殺した。高来県は現在は長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市などに再編されているが、明治まで高来郡が、平成の市町村合併までは北高来郡や南高来郡が郡名として残っていた。玉杵名邑は現在の熊本県玉名郡あるいは玉名市である。
そして阿蘇国に到着した。阿蘇津彦と阿蘇津姫の二柱の神がいた。さらに進んで筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木に着いた。御木は現在の福岡県大牟田市三池町である。ここに高田行宮(たかたのかりみや)を設けた。次に八女県に着いた。現在の福岡県八女郡あるいは八女市である。ここで天皇が南の粟岬を見て「峯が重なって大変麗しいあの山には神がいるのか」と尋ねたところ、水沼県主(みぬまのあがたぬし)の猿大海(さるおおみ)が「八女津媛という女神がいます」と答えた。それでこの神の名が地名になった。水沼県主はこのあたりを支配していた土着の豪族で水間氏(水沼氏)の祖とされる。さらに的邑(いくはのむら)、現在の福岡県うきは市に到着して食事をとった。日向の夷守で諸県君の泉媛が大御食を奉ろうとして集まっている場面に出くわして以降、この的邑に到着するまでの行程は全て景行18年の一年間のことである。そして景行19年、天皇はようやく大和へ戻った。
さて、ここであらためて景行天皇の九州平定の行程を確認し、九州の地図にプロットしてみた。
①周芳の娑麼(山口県防府市佐波)
②豊前国長峡県(福岡県行橋市長尾)
③碩田国(大分県)
④速見邑(大分県速見郡)
⑤来田見邑(大分県竹田市)
⑥柏峡の大野(大分県豊後大野市)
⑦日向国高屋宮(宮崎県宮崎市高屋神社)
⑧子湯県丹裳小野(宮崎県児湯郡)
⑨日向国夷守(宮崎県小林市)
⑩熊県(熊本県球磨郡)
⑪葦北(熊本県葦北郡)
⑫八代県豊村(熊本県宇城市)
⑬高来県(長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市)
⑭玉杵名邑(熊本県玉名郡、玉名市)
⑮阿蘇国(熊本県阿蘇郡)
⑯筑紫後国御木(福岡県大牟田市三池町)
⑰八女県(福岡県八女郡、八女市)
⑱的邑(福岡県うきは市)
これを見ると西征のルートがよくわかる。大和から周芳の娑麼まではおそらく瀬戸内海を船で行ったのだろう。ということは、景行天皇のときには淡路や吉備、伊予など瀬戸内海航路の要衝は崇神王朝の支配下に入っていたと考えられる。いずれも神武東征を支援した一族であった。
九州に渡った一行は豊前国長峡県を皮切りに時計回りに九州を一周していることがよくわかる。長峡県は豊前国に属し、碩田国、速見邑、来田見邑、柏峡大野は豊後国に属するが、豊前と豊後は7世紀末に分轄されるまでは豊国としてひとつの行政単位であった。その豊国の中心にある宇佐は神武東征の最初の寄港地であった。景行天皇が宇佐に滞在した記載はないが、長峡県に行宮を設ける前に偵察隊が討った鼻垂という賊は菟狭川の川上にいたという。菟狭川の川上と言えば、神武一行が宇佐に立ち寄った際に菟狭津彦・菟狭津媛が一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を設けて神武天皇を歓迎した場所だ。また、私の考えではこの宇佐は魏志倭人伝に記された狗奴国と倭国(北九州倭国)の戦闘において鉄製武器の供給で狗奴国を支援した、すなわち狗奴国王である神武側についたところだ。景行天皇はこの宇佐の鼻垂を始めとする豊前の賊を討ち、続いて来田見邑を拠点に豊後の土蜘蛛を討った。これによって豊国を支配下におくことに成功した。
ところで、鼻垂ら4人の賊のことを告げて降参してきた神夏磯媛はいったい何者だろうか。書紀には非常にたくさんの部下を持つ一国の首領で、八握剣、八咫鏡、八坂瓊と白旗を船の舳先に掲げて降参してきたとある。八握剣、八咫鏡、八坂瓊とは三種の神器である。神夏磯媛は三種の神器を持つ豊前国の首領であり、しかも「神」を名に持つ。福岡県田川市夏吉に若八幡神社があり、祭神には仁徳天皇、応神天皇、神功皇后に加えて 地主神として神夏磯媛命の名がある。神社由緒によると、神夏磯媛は夏吉地域開発の祖神とある。一方で書紀には神武東征の際に中臣氏の遠祖である天種子が菟狭津媛を娶ったことが記される。天種子は天孫降臨の際に瓊々杵尊に随伴してきた天児屋命の孫である。天孫族に近い関係にある天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔が神夏磯媛ではないだろうか。神夏磯媛が祀られる若八幡神社は宇佐からはかなり離れているが、いずれも豊前国である。天種子の系譜は書紀編纂時の実力者である藤原不比等へとつながる。藤原氏の祖先が天皇による九州平定に尽力したことが暗に示されている、と考えるのは想像が過ぎるだろうか。
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