古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

景行天皇(その8 日本武尊による熊襲征討)

2017年09月14日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行天皇による九州平定の話は古事記に収録されていないことから史実ではないという考え方もあるが、私はこれまで書いてきたように、崇神王朝は垂仁天皇の時期までに大和において神武王朝勢力を押さえることに成功したので、次のステップとして彼らの本拠地である九州を攻め落とそうとする戦略に至るのは必然であると思うので、天皇が自ら西征したかどうかはわからないが、何らかの形で九州への遠征が行われたと考えている。その流れがあるからこそ日本武尊による熊襲征討や東国平定の話につながるのだ。景行天皇は九州平定のあとすぐに五百野皇女(いおのひめみこ)を遣わして天照大神を祀らせている。神武王朝の本拠地を制圧したことで彼らの祖先神である天照大神の祟りを畏れたからだ。そして西の次は東ということで、全国平定を目指して武内宿禰を東国へ派遣して視察させたところ、攻略して広大な土地を手に入れようという結論に至った。

 そうこうするうちに熊襲が再び反抗するようになった。先の九州遠征で熊襲の本拠地である熊県を攻め、日向の高屋宮での6年間の滞在をもって襲の国を完全に平定したものの、支配下に置き続けるためには臣下を派遣して統治する必要がある。しかし、どうやらそれを怠ったものと思われる。取石鹿文(とろしかや)、またの名を川上梟帥という熊襲の首領が反抗を企てたのだ。書紀には辺境を侵すことが止まないと記されている。「辺境」とはこれまで何度も触れてきたとおり、狗奴国と北九州倭国との国境、すなわち現在の福岡県・大分県・熊本県の県境付近、書紀にある玉杵名邑から阿蘇国にかけての一帯、と考えるのが合理的だ。

 天皇は弱冠16歳の小碓尊を九州へ派遣した。小碓尊は弓の名手を連れて行きたいと要望し、美濃国の弟彦公(おとひこのきみ)を呼んだ。弟彦公は石占横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子稲置(たごのいなき)と乳近稲置(ちぢかのいなき)を率いてやってきた。小碓尊はどうして弓の名手を望んだのだろうか。九州の狗奴国と北九州倭国の国境付近にある多数の遺跡からは大量の鉄鏃が出土している。狗奴国、すなわち熊襲の軍勢は弓矢に長けた集団だったのだ。それに対抗する必要から弓の名手を要望したのだろう。

 小碓尊による熊襲征討の話は古事記にも記されるが、美濃や尾張から助っ人を呼び寄せた話はなく、伊勢で天照大神を祀る叔母の倭姫命を訪ね、衣服と剣を譲り受けて九州へ向かっている。豊鍬入姫命のあとを受けて天照大神を奉斎しながら各地を遍歴した倭姫命は伊勢で遍歴を終わらせ、その地で天照大神を永遠に祀り続けることを決めた。このことから彼女は伊勢で天照大神を祀った最初の皇女で伊勢の斎宮の起源とされているが、祀られる天照大神は天孫族である神武王朝の祖神である。私は、崇神天皇の時にその神を宮中から追い出し、垂仁天皇の時に畿内から離れた伊勢に封じ込めたことをもって神武王朝と崇神王朝の対立に決着がついた、すなわち神武王朝が崇神王朝に服したことを表していると考えている。九州で勢力を保持する熊襲が神武の出身部族あるいは親戚部族であったことを考えると、小碓尊が倭姫命の力を借りて熊襲を討つという古事記の話は、このことを背景に生まれたのであろう。

 そしていよいよ熊襲討伐。小碓尊は女装して熊襲の宴会に紛れこみ、隠していた剣で殺害するわけだが、記紀ともによく似た手口が記される。ただ、書紀では川上梟帥はひとりであるが、古事記では二人の熊曽建が登場する。いずれが正しいかは定かではないが、この殺害の場面で小碓尊が熊襲から日本武尊(倭建命)の名をもらったことを記紀ともに記す。敵のボスを殺害するまさにその瞬間、お前のような強い者を見たことがないので名前を授ける、と言われてそれを素直に受けるというのは常識的には考えられないが、神武王朝に対する敬意の表れであろうか。ともかくも熊襲の首領を討った日本武尊は同行させた弟彦達に残党を残らず斬らせた。

 こうして熊襲討伐を終わらせて海路、つまり瀬戸内海を通って大和へ戻った。途中、吉備と難波の柏済(かしわのわたり)でその地の首領を討った。いずれも瀬戸内海航路を安全に通行できるようにしたことを言おうとしたのだろうが、よく考えてみると景行天皇はこれより先、九州平定にあたって瀬戸内海を通って穴戸へ着いている。日本武尊自身も熊襲へ赴く際にはここを通っているはずだ。とすると、熊襲を討ったことによって吉備や難波が反乱を起こしたということになる。吉備はもともと隼人系海洋族であり神武一族と同盟関係にあった。難波の勢力も淀川水運を握る三島の勢力と思われ、彼らは瀬戸内海の大三島とつながる一族である。大三島、吉備、難波、三島は神武東征を支援した勢力であり、熊襲と神武の関係はそのまま彼らとの関係にあてはまるのだ。だから熊襲が討たれたことで反旗を翻したのだ。古事記では山の神、河の神、穴戸の神を討ったと記される。

 さて、古事記ではさらにこのあと、出雲に向かって出雲建を討つ話が記載されるが、内容は書紀の崇神紀にある出雲の神宝を献上させる際の話とよく似ている。それにしてもこの古事記の記述は少し唐突な気がする。熊襲討伐という大仕事の後、ついでに出雲を討ったような印象だ。しかも難波まで戻って来た後に出雲に向かうという不自然な設定になっている。古事記は全国統一を全て日本武尊の成果にする意図があったのだろう。

 熊襲を討伐した日本武尊は次に東国平定の旅に出ることになる。


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