古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

景行天皇(その9 尾張の勢力)

2017年09月23日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 熊襲討伐の功で天皇の篤い寵愛を受けた日本武尊であったが、次に東国が騒がしくなったときに再び征討担当に任命されることとなった。自分は九州から戻ったばかりで疲れているので次は大碓皇子を派遣してはどうかと奏上したところ、大碓皇子は逃げて隠れてしまった。天皇は大碓皇子を美濃に封じることにして、結局は日本武尊を派遣することにした。

 またしても美濃が出てきた。どうやら景行天皇の時代は美濃や尾張に縁があるようだ。すでに見たように景行天皇は美濃へ行幸して八坂入媛を娶り、その後も美濃国造の娘である兄遠子・弟遠子の姉妹を望んで大碓皇子を派遣したが、こっそり大碓皇子に奪われてしまった。その大碓皇子は東国遠征の件で美濃に封じられた。日本武尊は熊襲討伐において弓の名手である美濃の弟彦公を召集し、弟彦公は尾張の田子稲置と乳近稲置を連れてきた。また、このあと出てくるが、日本武尊は東国遠征に先立って伊勢に立ち寄ったが、その際に倭姫命から授かった草薙剣が尾張の熱田神宮に納められている。さらに東征の途中に尾張に立ち寄って宮簀媛(みやずひめ)を娶った。

 このように景行天皇の時に美濃や尾張と盛んに交流が行われたことがわかる。景行天皇は纒向の日代に宮を置いた。先代の垂仁天皇の宮は纒向珠城宮であった。前者の跡地は奈良県桜井市穴師、後者は桜井市巻野内とされ、いずれも纒向遺跡の東端にあたる。纒向遺跡では大和以外の地域から運び込まれた多くの外来系土器が出土しているが、3世紀末にその比率が高まることと、外来系土器の半数近くが東海地方のものであることがわかっている。この時代の纒向と美濃・尾張との交流、交易が盛んであったことの裏付けと言えよう。このあたりの話、もう少し考えてみたい。

 愛知県名古屋市の北東端にある守山区上志段味(しだみ)に志段味古墳群がある。庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたり、市内最高峰の東谷山(とうごくさん)の山頂から山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘の上に大小の古墳が分布する。4世紀前半から7世紀にかけて、一部の空白期間を挟んで古墳時代を通してさまざまな古墳が築かれた。確認されている古墳は全部で66基、そのうち33基が現存する。現在は名古屋市が「歴史の里 しだみ古墳群」として整備中であり、発掘調査や古墳の復元が進められている。この中のふたつの古墳に注目したい。ひとつは全長115mの前方後円墳である白鳥塚古墳。愛知県で最初に築造された大型前方後円墳とされ、その形は崇神天皇陵と治定されている奈良県の行燈山(あんどんやま)古墳に似ているという。この行燈山古墳はもともと景行天皇陵に治定されていた。古墳の後円部頂上や斜面の葺石の上には多量の石英がまかれて墳丘が飾られ、石英で白く輝いていたことから白鳥塚の名がついたと言われている。もうひとつは東谷山の山頂にある尾張戸(おわりべ)神社古墳。墳径27.5mの円墳で斜面の葺石上には白鳥塚古墳と同様に石英がまかれていた。古墳上には尾張戸神社があり、祭神として天火明命、天香語山命、建稲種命(たけいなだねのみこと)が祀られている。天火明命は尾張氏の始祖、天香語山命はその子、建稲種命は天火明命の十二世孫にあたり、初代尾張国造である小止与命(おとよのみこと)の子で宮簀媛の兄である。いずれの古墳も築造は4世紀前半とされている。これらに加えて愛知県にはもうひとつ興味深い古墳がある。愛西市(旧海部郡佐織町)にある墳径25mの円墳である奥津社古墳だ。これも4世紀前半の築造とされ、尾張国造の領域内では最古とされている。墳頂に奥津社という神社があり、宗像三女神が祀られている。この神社には椿井大塚山古墳出土のものと同范とされる三面の三角縁神獣鏡が所蔵されている。これらの古墳に注目する理由はいずれも築造時期が4世紀前半とされていることである。加えて、大和の大王の古墳と同様式の古墳であること、葺石に石英をふんだんに使う贅沢な古墳であること、大和とのつながりを想起させる三角縁神獣鏡が出たと考えられること、などだ。

 このことから3世紀後半から4世紀前半にかけての時期、尾張の地にはかなりの有力者がいて大和王権との交流が行なわれていたと考えられる。では、その有力者とは果たして景行紀に記される八坂入彦や美濃国造の神骨なのだろうか。尾張戸神社の祭神にあるようにこの有力者はやはり尾張氏であろう。「尾張氏と丹波」にも書いたように私は、尾張氏は大和の葛城に近いとされる高尾張邑を本拠とし、神武東征で功績のあった高倉下(たかくらじ)以来、神武王朝に仕えた氏族であると考えるが、その尾張氏の一部が高尾張を出て丹後へ移り、さらに愛知に移って勢力基盤を築き、結果として丹波国造や尾張国造となっていった。大和において同じく神武に仕えた丹後の大海氏(海部氏と同族か)とのつながりが強く、その関係で尾張氏は丹後へ移ったと考えられる。これまで何度も見てきた勘注系図あるいは先代旧事本紀にはその尾張氏の系譜が記されるが、ここでは先代旧事本紀(以下、本紀とする)をもとに尾張氏の隆盛の様子を見てみたい。


 尾張氏の始祖は先述の通り天火明命で、その子が天香語山命である。本紀によると天香語山命は高倉下と同一とされる。そして天火明命の四世孫に記紀で尾張連の祖とされる瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の名が見られるが、奥津社古墳あるいは墳頂にある奥津社との関連を想起させる。奥津社古墳の所在地の住所は2005年に町村合併して愛西市になる前は海部郡佐織町であった。隣接してあま市があり、この一帯は海部氏が丹後から移り住んだところと考えられる。天火明命の二世孫である天村雲命には天忍人命(あめのおしひとのみこと)、天忍男命(あめのおしおのみこと)、忍日女命(おしひめのみこと)の3人の子があって直系が天忍人命であるが、傍系の天忍男命の子が瀛津世襲命である。おそらくこの傍系筋が大和から丹後を経て海部氏とともにやってきたのだろう。奥津社古墳の被葬者は瀛津世襲命で奥津社の祭神も当初は瀛津世襲命ではなかっただろうか。瀛津世襲命の妹である世襲足姫命(よそたらしめのみこと)は第5代孝昭天皇の后になっている。

 さらに七世孫の建諸隅命(たけもろすみのみこと)は崇神天皇の時に出雲へ派遣されて神宝を献上させる役割を担った。この建諸隅命の妹が大海姫命(おおあまひめのみこと)となっており、崇神天皇の妃となった尾張大海媛と同一人物と考えられる。尾張大海媛は神武が崇神側との融和を目論んで差し出したと考えるが、直系の建諸隅命までもが崇神天皇に仕えていることを考えると、尾張氏はこの段階で神武側から離れて崇神側に着かざるを得ない状況にあったのだろうか。

 そして九世孫の弟彦命(おとひこのみこと)は日本武尊が熊襲討伐に同行させた弟彦公であるが、書紀によると日本武尊は弟彦公を美濃から呼び寄せたとなっていることから、この頃には尾張氏は完全に大和から尾張および美濃に本貫地を移していたと考えられる。その後、十一世孫の乎止与命(小止与命)が尾張国造に任命されることとなる。さらにその子が尾張戸神社に祀られる建稲種命で、その妹が日本武尊の妃となった宮簀媛である。本紀によれば建稲種命の子である尾綱根命(おづなねのみこと)のときに尾治(おわり)連の姓を与えられたとあり、それ以降に尾治氏を名乗るようになった。先に瀛津世襲命が尾張連の祖であることが記紀に記されていると書いたが、実は同じことが本紀にも記される。尾張と尾治が同じだとすると、記紀および本紀の記述は尾綱根命が尾治連の姓を与えられたことと矛盾してしまう。本紀の尾張氏の系譜については今一つ腑に落ちない部分がほかにもあるが大きな流れとして捉えることは可能であろうからここでは拘らないでおこう。ともかく、こういう経過を経て尾張氏は美濃・尾張に勢力基盤を設けて大和纒向との関係を築いていった。


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