前回、神夏磯媛は中臣氏の遠祖である天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔ではないか、という全くの想像話を書いた。時代は少し下って仲哀天皇の9年、仲哀天皇は熊襲を討とうと筑紫へ向かったが、ここで神功皇后に神が憑依して新羅を討てと告げた。しかし天皇はそのお告げに反して熊襲を討とうとしたが失敗に終わり、その直後に崩御した。その後、神功皇后は山門県(やまとのあがた)で土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺した。そのとき媛の兄である夏羽(なつは)が決起したが、妹が殺されたことを聞いて逃亡したという。若八幡神社の由緒によると、このときの夏羽は神夏磯媛の後裔であるとされている。ということは妹である田油津媛もまた神夏磯媛の後裔ということになるが、景行天皇の軍門に下った神夏磯媛の後裔が2代あとの仲哀天皇のときには土蜘蛛と呼ばれて討伐対象となっているのは少し解せない。一度は天皇家に従った神夏磯媛であるが、後裔が反抗して再び天皇家に敵対する勢力となっていたのであろうか。
さらに、神武東征のときに菟狭津媛とともに神武一行を歓待した菟狭津彦を考えてみる。菟狭津彦・菟狭津媛は神武一行を歓迎するために菟狭川の上流に一柱騰宮を設けた。そして景行天皇のときになってこの菟狭川の上流は鼻垂という賊の拠点となっていた。もともと菟狭津彦はこの菟狭川流域を拠点とする首長であり、九州での倭国との戦闘で狗奴国を支えた勢力であると考えるが、神武王朝側の勢力であったため、敵対する崇神王朝3代目の景行天皇からみると鼻垂と呼ばれる賊として討伐対象とされたのであろう。菟狭津媛の後裔である神夏磯媛が菟狭津彦の後裔である鼻垂を敵勢力に売ったことは理解が困難であるが、前回書いたとおり、藤原不比等の遠祖による九州平定の手柄話と考えればあり得るか。いずれにしても想像の域をでる話ではない。
さて、景行天皇一行は豊国のあとはそのまま南下して日向国へ向かっている。西都原古墳群との関連はすでに書いた通りである。
日向の次は熊県(現在の熊本県球磨郡)に向かっているが、ここはまさしく熊襲の本拠地である。人吉盆地では熊襲の土器と言われる免田式土器が多数見つかっている。この免田式土器はその形状から中国の煮炊き用の器具である銅ふくを模倣したものと考えられ、その起源は大陸に求められるという。また、免田式土器が最初に出土した同じあさぎり町にある才園(さいぞん)古墳からは中国江南地方で鋳造されたとされる金メッキが施された鏡も発見されている。この熊県は大陸とつながる独自の文化を形成した一族である熊襲の拠点である。景行天皇は熊襲の本拠地を攻撃したのだ。
その後、球磨川を下って八代海に面する葦北(現在の熊本県葦北郡)へ出て小島で泊まって食事をとった。山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖先の小左(おひだり)を呼び寄せて冷たい水を奉らせようとしたが、水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。球磨川の河口近くに水島の地名が見られる。現在は干拓が進んだためにほとんど陸続きになっているが、古代には海に浮かぶ島であったと思われる。
一行は再び船に乗って火国に着き、八代県豊村(現在の熊本県宇城市)に上陸した。熊県のあとは九州の西側を北上しており、行程をプロットした地図をみるとよくわかるが、九州南端の大隅半島および薩摩半島には向かっていないのだ。日向の高屋宮に6年滞在して襲の国を完全に平定したという記述に加えて、熊襲の本拠地である熊県を攻めていることから熊襲を討ったことは想定されるが、実は九州南端を避けているのだ。ここは熊襲と同種族とされる隼人族の本拠地である。熊襲を討ったものの、いわば親戚関係にある隼人を討たないのはどういうことであろうか。実はここに書紀の矛盾が表れている。
隼人の本拠地である南九州のこの地は、書紀において天皇家の祖先とされる瓊々杵尊が天孫降臨を果たした場所である。また、薩摩半島には瓊々杵尊が天孫降臨のあとに向かった笠沙岬があるが、ここは大陸からやってきた天孫族が実際に流れ着いた場所である。景行天皇にとって熊襲が敵なら隼人も敵であり、本来ならこの九州南端の地も制圧対象となるはずである。とくに隼人は天孫族そのものであり、大和で敵対した神武王朝の祖とも言える一族だ。崇神王朝にとってはどうしても討たなければならない相手であるはずだ。しかし、実態としては対立していた両王朝であったが、書紀においてはその編纂方針により、並立ではなく縦に並べて万世一系としているため、天孫降臨のあった隼人の地は崇神王朝にとっても故郷の地ということになる。自らの祖先の地を攻撃したと書けるはずがないのだ。
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さらに、神武東征のときに菟狭津媛とともに神武一行を歓待した菟狭津彦を考えてみる。菟狭津彦・菟狭津媛は神武一行を歓迎するために菟狭川の上流に一柱騰宮を設けた。そして景行天皇のときになってこの菟狭川の上流は鼻垂という賊の拠点となっていた。もともと菟狭津彦はこの菟狭川流域を拠点とする首長であり、九州での倭国との戦闘で狗奴国を支えた勢力であると考えるが、神武王朝側の勢力であったため、敵対する崇神王朝3代目の景行天皇からみると鼻垂と呼ばれる賊として討伐対象とされたのであろう。菟狭津媛の後裔である神夏磯媛が菟狭津彦の後裔である鼻垂を敵勢力に売ったことは理解が困難であるが、前回書いたとおり、藤原不比等の遠祖による九州平定の手柄話と考えればあり得るか。いずれにしても想像の域をでる話ではない。
さて、景行天皇一行は豊国のあとはそのまま南下して日向国へ向かっている。西都原古墳群との関連はすでに書いた通りである。
日向の次は熊県(現在の熊本県球磨郡)に向かっているが、ここはまさしく熊襲の本拠地である。人吉盆地では熊襲の土器と言われる免田式土器が多数見つかっている。この免田式土器はその形状から中国の煮炊き用の器具である銅ふくを模倣したものと考えられ、その起源は大陸に求められるという。また、免田式土器が最初に出土した同じあさぎり町にある才園(さいぞん)古墳からは中国江南地方で鋳造されたとされる金メッキが施された鏡も発見されている。この熊県は大陸とつながる独自の文化を形成した一族である熊襲の拠点である。景行天皇は熊襲の本拠地を攻撃したのだ。
その後、球磨川を下って八代海に面する葦北(現在の熊本県葦北郡)へ出て小島で泊まって食事をとった。山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖先の小左(おひだり)を呼び寄せて冷たい水を奉らせようとしたが、水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。球磨川の河口近くに水島の地名が見られる。現在は干拓が進んだためにほとんど陸続きになっているが、古代には海に浮かぶ島であったと思われる。
一行は再び船に乗って火国に着き、八代県豊村(現在の熊本県宇城市)に上陸した。熊県のあとは九州の西側を北上しており、行程をプロットした地図をみるとよくわかるが、九州南端の大隅半島および薩摩半島には向かっていないのだ。日向の高屋宮に6年滞在して襲の国を完全に平定したという記述に加えて、熊襲の本拠地である熊県を攻めていることから熊襲を討ったことは想定されるが、実は九州南端を避けているのだ。ここは熊襲と同種族とされる隼人族の本拠地である。熊襲を討ったものの、いわば親戚関係にある隼人を討たないのはどういうことであろうか。実はここに書紀の矛盾が表れている。
隼人の本拠地である南九州のこの地は、書紀において天皇家の祖先とされる瓊々杵尊が天孫降臨を果たした場所である。また、薩摩半島には瓊々杵尊が天孫降臨のあとに向かった笠沙岬があるが、ここは大陸からやってきた天孫族が実際に流れ着いた場所である。景行天皇にとって熊襲が敵なら隼人も敵であり、本来ならこの九州南端の地も制圧対象となるはずである。とくに隼人は天孫族そのものであり、大和で敵対した神武王朝の祖とも言える一族だ。崇神王朝にとってはどうしても討たなければならない相手であるはずだ。しかし、実態としては対立していた両王朝であったが、書紀においてはその編纂方針により、並立ではなく縦に並べて万世一系としているため、天孫降臨のあった隼人の地は崇神王朝にとっても故郷の地ということになる。自らの祖先の地を攻撃したと書けるはずがないのだ。
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