伊都国歴史博物館を出て徒歩で10分と少しで井原鑓溝遺跡に到着。
ここは遺跡らしきものはまったくなく、ただただ田畑が広がるだけ。
わずかにこの案内板だけが頼りである。
江戸時代の天明年間(1781~88)、銅鏡を多数副葬した甕棺が発見された。このときの出土品は現存しないが『柳園古器略考』(青柳種信著)に記録されている。これは主に文政5年(1822)に三雲村で発見された三雲南小路遺跡1号棺の調査報告書だが、種信は40年前に隣村で発見された井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行い、農民が保管していた27個の鏡片、2個の巴形銅器の拓本を残している。
「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」
拓本から復元される鏡(方格規矩四神鏡)は18面、全て中国製である。その多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着するまでの期間を加えたものとなり、概ね1世紀後半~2世紀初頭の間と推定できる。また、出土した豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。
現在、その王墓の場所は不明だが、三雲南小路遺跡の南約100mのあたりに大字井原字ヤリミゾという地名があり一面に水田が広がっているが、その下あたりに遺跡が眠っていると考えられており、それがこの場所である。そして現在も調査が続けられている。
伊都国歴史博物館にあった井原鑓溝遺跡の説明。
このあと再び徒歩で三雲南小路遺跡へ向かいました。
ここは遺跡らしきものはまったくなく、ただただ田畑が広がるだけ。
わずかにこの案内板だけが頼りである。
江戸時代の天明年間(1781~88)、銅鏡を多数副葬した甕棺が発見された。このときの出土品は現存しないが『柳園古器略考』(青柳種信著)に記録されている。これは主に文政5年(1822)に三雲村で発見された三雲南小路遺跡1号棺の調査報告書だが、種信は40年前に隣村で発見された井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行い、農民が保管していた27個の鏡片、2個の巴形銅器の拓本を残している。
「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」
拓本から復元される鏡(方格規矩四神鏡)は18面、全て中国製である。その多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着するまでの期間を加えたものとなり、概ね1世紀後半~2世紀初頭の間と推定できる。また、出土した豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。
現在、その王墓の場所は不明だが、三雲南小路遺跡の南約100mのあたりに大字井原字ヤリミゾという地名があり一面に水田が広がっているが、その下あたりに遺跡が眠っていると考えられており、それがこの場所である。そして現在も調査が続けられている。
伊都国歴史博物館にあった井原鑓溝遺跡の説明。
このあと再び徒歩で三雲南小路遺跡へ向かいました。