古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

仲哀天皇(その3 神の啓示)

2017年11月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 仲哀8年9月、天皇は橿日宮において熊襲討伐の会議を行った。そのとき皇后に神が憑いてこう言った。「熊襲は荒れて痩せたところで、取るに足らない国だ。それよりも目に眩い金銀や彩色の宝がある新羅の国を手に入れてはどうか。私をよく祀れば刀を血で濡らさずに自然と服従するだろう」と。しかし天皇はその託宣を信じなかった。「高い山に上って見渡したが、あたりは海が見えるだけで国など見えない。我を欺くのはどこの神か。歴代の天皇は皆、あらゆる神々を祀ってきた。祀っていない神はいないはずだ」。神はまた皇后に託して「水に映る影のように自分が見下ろしている国を『国はない』と言ってわが言葉を謗るのか。汝が信じないのであれば汝はその国を得ることはできない。ただし、皇后は今、子を孕んでいる。その子が得ることになるだろう」と言った。それでも天皇は信じることができずに熊襲討伐を強行したが勝つことができずに帰還した。
 翌年、天皇は病にかかって亡くなった。年齢は52歳であった。つまり、神の言葉を信じなかったことが原因と考えられた。別の言い伝えによると、天皇は熊襲を討った時に賊の矢が命中して崩御したのだと言う。
 皇后と大臣の武内宿禰は天皇の死を隠して天下に知らせなかった。皇后は大臣と中臣烏賊津使主(いかつのおみ)、大三輪大友主君(おおともぬしのきみ)、物部胆咋連(いくいのむらじ)、大伴武以連(たけもつのむらじ)に詔して言った。「天下の民は未だ天皇が崩御したことを知らない。もし百姓が知ったら怠けるかもしれない」。そして4人の大夫(まえつきみ)に命じて宮中を守らせた。
 密かに天皇の遺骸を収めて武内宿禰に任せて、海路から穴門へ移させた。そして豊浦宮で火を焚かずに殯を行った。武内宿禰は穴門から戻って皇后に報告した。この年は新羅との戦があったので天皇の葬儀は行われなかった。

 以上が書紀に記された仲哀天皇の最期の場面である。書紀の仲哀紀はここで終わっているが、仲哀天皇の最期の場面は次の神功皇后紀に続いて記される。また、この場面は古事記においても記される。神功皇后紀にて続きの話を確認した上で古事記との比較をしながらこの場面を考えてみたい。



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