2017年3月、伊都国歴史博物館→井原鑓溝遺跡→三雲南小路遺跡と巡って、途中、狐塚古墳、銭瓶塚古墳、ワレ塚古墳を見ながらいよいよ最後の目的地である平原遺跡へ。
平原遺跡は福岡県糸島市にある弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。1965(昭和40)年、土地の持主(井手さん)がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、多数の銅鏡の破片が出土したことから平原1号墓が発見され、原田大六氏による調査の結果、最終的に5基の墳丘墓が発見された。1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年に国宝指定された。これらは伊都国歴史博物館に実物が展示されている。
1号墓は方形周溝墓で割竹形木棺の埋納が検出されている。1号墓の墓壙周辺に12本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの10本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から1メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この4本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約15メートルに「大柱跡」とされる穴があり、その延長線上に日向峠がある。
平原王墓の謎。
1号墓の後方から。
稜線のいちばん低いところが日向峠であるが、よく見ると軸線から少しずれている。
発掘に携わった原田大六は1号墓の被葬者を大日孁貴、すなわち天照大神としているが、果たして真実はいかに。
この遺跡は周囲に高い建物がなく東の山々まで望むことができる。これは古代の人々が見たのと同じ景色である。
平原遺跡は福岡県糸島市にある弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。1965(昭和40)年、土地の持主(井手さん)がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、多数の銅鏡の破片が出土したことから平原1号墓が発見され、原田大六氏による調査の結果、最終的に5基の墳丘墓が発見された。1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年に国宝指定された。これらは伊都国歴史博物館に実物が展示されている。
1号墓は方形周溝墓で割竹形木棺の埋納が検出されている。1号墓の墓壙周辺に12本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの10本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から1メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この4本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約15メートルに「大柱跡」とされる穴があり、その延長線上に日向峠がある。
平原王墓の謎。
1号墓の後方から。
稜線のいちばん低いところが日向峠であるが、よく見ると軸線から少しずれている。
発掘に携わった原田大六は1号墓の被葬者を大日孁貴、すなわち天照大神としているが、果たして真実はいかに。
この遺跡は周囲に高い建物がなく東の山々まで望むことができる。これは古代の人々が見たのと同じ景色である。