古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神功皇后(その1 仲哀天皇の最期①)

2017年11月26日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 天皇は仲哀9年2月に香椎宮で崩御したが、神功皇后は、天皇が神の教えに従わずに崩御したことに心を痛め、祟った神を知って財宝の国を求めようと思い、群臣(まえつきみ)と百僚(つかさつかさ)に命じて罪を祓い、過ちを改めて小山田邑に斎宮を設け、翌月には自ら神主となって斎宮に入った。中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)とし、武内宿禰に琴を弾かせた。審神者とは神託を聞いてその意味を伝える役割を担う人のことである。皇后は琴の両側に幣帛をたくさん積んで「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょうか。願わくはその神の名を教えてほしい」と問いかけたところ、七日七夜にわたって神々の名が次のように告げられた。
 まず、伊勢国の渡会郡の五十鈴宮に居る撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。次に、尾田吾田節の淡郡(あわのこおり)に居る神。さらに、天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)。そして最後に、日向国の橘小門(たちばなのおど)の水底に居る海藻のように若々しく生命に満ちている神で名前は表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男神(そこつつのお)。皇后はこれらの神々の名を告げられた。

 ひとり目の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は伊勢の五十鈴宮の神となっているので、伊勢神宮に祀られる天照大神のことであるとする通説に異論はない。
 ふたり目の尾田吾田節淡郡の神が誰を指すのかは諸説あるようだ。ひとつは「淡郡」を阿波国阿波郡、「吾田」を赤田、さらに「節」をフチ=フツと考えて、徳島県阿波市にある赤田(あかんた)神社に祀られる経津主神とする考え。赤田神社は建布都神社の論社である。論社とは、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことである。鎌倉時代末期に卜部兼方が記した日本書紀の注釈書である「釈日本紀」は阿波郡の建布都神にあてている。経津主神は国譲りにおいて高天原から派遣された神である。
 別の説として「田節」を志摩国の答志(たふし)、「淡郡」を粟島と考えて、志摩国答志郡(現在の三重県志摩市磯部町)にある粟島坐伊射波神社(伊雑宮(いざわのみや))をあてる説がある。伊雑宮は志摩国一之宮で「天照大神の遙宮(とおのみや)」とも呼ばれ、祭神は天照坐皇大御神御魂 (あまてらしますすめおおみかみのみたま)、すなわち天照大神である。しかし、ひとり目の神が天照大神であるので、ふたり目の神が同一とは考えにくい。そうすると経津主神と考えるのが妥当ということか。
 三人目の神、天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神は長い名がついているが、要するに事代主神のことである。事代主神は大国主神の子で出雲の神とされているが、私は鴨氏あるいは葛城氏につながる葛城の神であったと考えている。詳しくは「事代主神」をご覧いただきたい。
 そして四人目の神として表筒男・中筒男・底筒男が挙げられているが、住吉大神そのものである。書紀の神代巻において、伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰ってきて日向の小戸橘の檍原(あわきはら)で穢れた身体を洗ったときに生まれた九柱の神のうち、表筒男神・中筒男神・底筒男神の三柱の神を総称して住吉大神であるとしている。

 熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神が、天照大神、経津主神、事代主神、住吉大神の神々であることが神功皇后を通じた神託によって明らかにされた。


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