白鬚神社を出たのが18時過ぎ。太陽は西の山に沈みかけています。次はどうしても行きたかったところのひとつ目、鴨稲荷山古墳です。
高島平野の中央部、鴨川右岸にある古墳で、見ての通り現在は墳丘は完全に失われています。本来は南に前方部を向ける墳丘長約50メートルほどの前方後円墳であったと推定されています。
明治35年(1902年)の県道改修工事で刳抜式の家形石棺が発見されました。発見当時には、長さ9メートル・幅約1.8メートル・高さ約1.8メートルの石室内にあったとされ、棺内からは冠・沓など多くの豪華な副葬品が見つかりました。現在これらの副葬品は東京国立博物館に保存されていますが、石棺はそのままの位置に建屋で覆って保存されています。
築造時期は6世紀前半と考えられ、当地で生まれたとされる第26代継体天皇を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳です。
日本書紀によると、第15代応神天皇の四世孫である彦主人王(ひこうしのおおきみ)は近江国高島郡の「三尾之別業」にいて、三尾氏一族の振媛(ふるひめ)との間に男大迹王(をほどのおおきみ)を設けたとあります。のちの第26代継体天皇です。継体天皇の在位は6世紀前半と考えられており、三尾氏とつながりがあったことは同氏から2人の妃が嫁いだことからもわかります。このことから古墳の被葬者が三尾氏の首長であると考えられています。
東京国立博物館でここの副葬品を確認しなければ、と思うものの、これまで何度か見学したのに記憶にないということは、展示室ではなく収蔵庫に保存されているということかも知れない。
すぐ近くに神社がありました。志呂志神社と言います。滋賀県神社庁サイトによると祭神は瓊瓊杵尊で、延喜式内の神社にしてその昔、川中島の白州に鎮座し所知食(しらすめ)天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白州の神社とも申せし由、とあります。今一つよくわかりません。
さて、すでに太陽は西の山に沈んでしまいました。徐々に暗くなってきます。もうひとつ行っておきたい場所がある。先を急がねば。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
高島平野の中央部、鴨川右岸にある古墳で、見ての通り現在は墳丘は完全に失われています。本来は南に前方部を向ける墳丘長約50メートルほどの前方後円墳であったと推定されています。
明治35年(1902年)の県道改修工事で刳抜式の家形石棺が発見されました。発見当時には、長さ9メートル・幅約1.8メートル・高さ約1.8メートルの石室内にあったとされ、棺内からは冠・沓など多くの豪華な副葬品が見つかりました。現在これらの副葬品は東京国立博物館に保存されていますが、石棺はそのままの位置に建屋で覆って保存されています。
築造時期は6世紀前半と考えられ、当地で生まれたとされる第26代継体天皇を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳です。
日本書紀によると、第15代応神天皇の四世孫である彦主人王(ひこうしのおおきみ)は近江国高島郡の「三尾之別業」にいて、三尾氏一族の振媛(ふるひめ)との間に男大迹王(をほどのおおきみ)を設けたとあります。のちの第26代継体天皇です。継体天皇の在位は6世紀前半と考えられており、三尾氏とつながりがあったことは同氏から2人の妃が嫁いだことからもわかります。このことから古墳の被葬者が三尾氏の首長であると考えられています。
東京国立博物館でここの副葬品を確認しなければ、と思うものの、これまで何度か見学したのに記憶にないということは、展示室ではなく収蔵庫に保存されているということかも知れない。
すぐ近くに神社がありました。志呂志神社と言います。滋賀県神社庁サイトによると祭神は瓊瓊杵尊で、延喜式内の神社にしてその昔、川中島の白州に鎮座し所知食(しらすめ)天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白州の神社とも申せし由、とあります。今一つよくわかりません。
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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |