ここのところずっと謎の青銅器「銅鐸」の勉強をしてきました。大和政権成立のプロセスを自分なりに解き明かしたいと考える私にとって「銅鐸」というのは避けて通れない課題という認識があったものの、登る山が大きすぎてどこから手を付けていいのかわからず、ついつい後回しにしてきましたが、いよいよ真剣に考えてみようという気持ちになったのです。基本的な知識を含めてここまで学んできたこと、それをもとに私なりに考えたことを整理しておきたいと思います。
当初、ふたつの仮説をもって学習を開始しました。その学習の過程でたくさんの遺跡が登場するのですが、これまでに行った遺跡が結構あり、その遺跡を思い出しながら想像力を膨らませて思考をめぐらせながら、徐々にひとつに絞られていきました。今回より11回のシリーズでアップしていきます。
国宝 伝・香川県出土(高さ42.7cm、弥生時代中期)
【銅鐸とは何か】
銅鐸とは、鐸身と呼ばれる本体に吊り手(=鈕)と振り子(=舌)を備えた青銅製の道具で、舌を振って鐸身の内壁に当てることで音を鳴らした。そもそも「鐸」とは、柄を手に持って振り鳴らす道具で、古代中国において教令を伝えるときに用いられた。後漢時代の書である「釈名」には、文事には木鐸、武事には金鐸が用いられた、と書いてあるらしい。手に持って音を鳴らす道具が「鐸」である。これに対して、吊り下げて外から叩いて音を鳴らすのが「鐘」、同様に吊り下げて内部の舌を揺らして内壁に当てて音を鳴らすのが「鈴」である。
私たちは、銅鐸は音を鳴らすもので、それは内部の舌を揺らして鐸身の内壁に当てる方法による、という知識を持って銅鐸を見ているが、その知識を持たずに銅鐸を見ると、その形状が釣鐘のように見えるので外側を叩いて音を出したと考えるのではないだろうか。つまり「鐘」の一種であると認識するはずだ。
銅鐸の鐸身下部の末端付近の内面には、断面が台形や蒲鉾形の突帯がめぐっている。内面に取りつけた舌を揺らすことでこの突帯部分に当たって音が共鳴する。このことがわかったのは、①古い銅鐸には青銅製や石製の舌を伴って出土したものがある、②内面上部に舌を下げるための「環」を取り付けた有環銅鐸が見つかっている、③内面の突帯が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸が見つかっている、などの理由による。しかし、これに従うと私たちが銅鐸と呼んでいるものは明らかに「鈴」であるが、それを銅鐸と呼ぶようになったのはなぜだろうか。
日本の歴史上、銅鐸の名称が初めて使われたのは8世紀末に編纂された続日本紀においてである。和銅6年(713年)に「大和国宇陀郡波坂郷の人、大初位の上村君東人が長岡野地に銅鐸を得て獻ず(大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之)」と記されている。このときの発見者である上村君東人、あるいは受け取った者、または続日本紀の執筆者がこの青銅製の道具が「鐸」に似ていたから銅鐸と呼んだのだろう。つまり、中国の鐸は8世紀初頭の日本において周知の道具であったと言える。
その後、12世紀に編纂された「扶桑略記」や14世紀の「石山寺縁起」などに登場するが、銅鐸ではなく「宝鐸」と記されている。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
当初、ふたつの仮説をもって学習を開始しました。その学習の過程でたくさんの遺跡が登場するのですが、これまでに行った遺跡が結構あり、その遺跡を思い出しながら想像力を膨らませて思考をめぐらせながら、徐々にひとつに絞られていきました。今回より11回のシリーズでアップしていきます。
国宝 伝・香川県出土(高さ42.7cm、弥生時代中期)
【銅鐸とは何か】
銅鐸とは、鐸身と呼ばれる本体に吊り手(=鈕)と振り子(=舌)を備えた青銅製の道具で、舌を振って鐸身の内壁に当てることで音を鳴らした。そもそも「鐸」とは、柄を手に持って振り鳴らす道具で、古代中国において教令を伝えるときに用いられた。後漢時代の書である「釈名」には、文事には木鐸、武事には金鐸が用いられた、と書いてあるらしい。手に持って音を鳴らす道具が「鐸」である。これに対して、吊り下げて外から叩いて音を鳴らすのが「鐘」、同様に吊り下げて内部の舌を揺らして内壁に当てて音を鳴らすのが「鈴」である。
私たちは、銅鐸は音を鳴らすもので、それは内部の舌を揺らして鐸身の内壁に当てる方法による、という知識を持って銅鐸を見ているが、その知識を持たずに銅鐸を見ると、その形状が釣鐘のように見えるので外側を叩いて音を出したと考えるのではないだろうか。つまり「鐘」の一種であると認識するはずだ。
銅鐸の鐸身下部の末端付近の内面には、断面が台形や蒲鉾形の突帯がめぐっている。内面に取りつけた舌を揺らすことでこの突帯部分に当たって音が共鳴する。このことがわかったのは、①古い銅鐸には青銅製や石製の舌を伴って出土したものがある、②内面上部に舌を下げるための「環」を取り付けた有環銅鐸が見つかっている、③内面の突帯が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸が見つかっている、などの理由による。しかし、これに従うと私たちが銅鐸と呼んでいるものは明らかに「鈴」であるが、それを銅鐸と呼ぶようになったのはなぜだろうか。
日本の歴史上、銅鐸の名称が初めて使われたのは8世紀末に編纂された続日本紀においてである。和銅6年(713年)に「大和国宇陀郡波坂郷の人、大初位の上村君東人が長岡野地に銅鐸を得て獻ず(大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之)」と記されている。このときの発見者である上村君東人、あるいは受け取った者、または続日本紀の執筆者がこの青銅製の道具が「鐸」に似ていたから銅鐸と呼んだのだろう。つまり、中国の鐸は8世紀初頭の日本において周知の道具であったと言える。
その後、12世紀に編纂された「扶桑略記」や14世紀の「石山寺縁起」などに登場するが、銅鐸ではなく「宝鐸」と記されている。
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