【銅鐸終焉時の状況】
ムラからクニへ、そしてクニどうしの連合や統合が進み、農耕祭祀や武威発揚祭祀を廃して首長霊祭祀や祖霊祭祀を行うようになって銅鐸は終焉を迎えた。銅鐸がその役割を終えた弥生時代後期の状況について確認しておきたい。弥生時代後期といえば1世紀中ごろから3世紀中ごろまでの約200年間であるが、クニが統合され、祭祀が変化するプロセスをこの200年に見ることができる。
福永伸哉氏によると、弥生中期に盛行した方形周溝墓は一つの周溝墓に複数の埋葬施設をもつ家族墓であったものが、畿内において後期後半から終末期に入ると埋葬施設を一基しか持たないものが多くなり、有力者の個人墓へと変質した状況が見られるという。墓制の変化という点からは同様に、先にも触れた通り、弥生後期に入ると各地に墳丘墓が築造されるようになり、首長霊祭祀が行われた様子がわかっている。
広島県の三次盆地に最も古い例がみられる四隅突出型墳丘墓は、弥生後期後半から出雲・伯耆を中心にした山陰地方に、そして後期後葉からは美作・備後の北部地域に広まった。島根県出雲市にある西谷墳墓群の3号墓は、方形部が40m×30m、高さ4.5m、突出部の長さが6~7mもある最大規模の四隅突出型墳丘墓である。墳丘上にある第1主体部の周囲に4つの柱穴が検出され、葬祭用の施設があったと考えられている。その第1主体の木棺内は水銀朱が敷きつめられ、碧玉製管玉や鉄剣など多数の副葬品が出ている。後述する吉備の特殊器台・特殊壺など他の地域から搬入された土器が検出され、亡き首長を弔う葬送儀礼が行われたようだ。四隅突出型墳丘墓は丹後を空白域として東は福井、富山まで見られる。
その四隅突出型墳丘墓の空白域である近畿北部の丹後地方では、弥生時代終末期に豪華な副葬品をもつ大型の墳丘墓が出現している。京都府京丹後市の赤坂今井墳丘墓は、39m×36m、高さ3.5mの方形墳丘墓である。墳頂中央部で巨大な墓壙が発見され、ガラス製の管玉や勾玉で作られた三連の豪華な頭飾りのほか、鉄剣や鉄刀などが副葬されていた。また、左坂墳墓群、三坂神社墳墓群、大風呂南墳墓群など、丘陵の斜面に沿って階段状に切り出された方形台状墓は丹後地方において弥生時代後期後葉あるいは終末期まで見られる墓制である。素環頭鉄刀やガラス釧などの貴重品が副葬されるとともに墓壙内破砕土器供献が見られ、ここでも葬送儀礼が行われたことがわかっている。
また、吉備地方では弥生時代後期後葉、全長80mと想定される全国でも珍しい双方中円型の楯築墳丘墓が築かれる。木棺内に厚く敷き詰められた水銀朱や鉄剣などの副葬品もさることながら、墓壙内に落ち込んだと思われる厚さ数十センチにおよぶ円礫堆に混じって見つかった吉備特有の特殊器台と特殊壺、数百の破片に砕かれた弧帯文石が注目される。これらは墓上で葬送の祭祀が行われたことを示している。特殊土器と特殊壺は亡き首長の霊とともに行う供飲供食あるいは飲食物供献の祭祀と考えられ、弧帯文石については他に類例がないので確かなことがわかっていないが、呪術具として穢れを祓う形代のような使い方をしたのではないかと解されている。このように吉備では首長霊祭祀が行われたことがわかっている。
弥生時代後期後半の中国地方や近畿地方においてこのような状況が確認される一方、北部九州、とりわけ玄界灘沿岸部では少し事情が違っているようだ。弥生中期初頭の吉武高木遺跡を皮切りに首長霊祭祀あるいは祖霊祭祀の兆しが確認された北部九州ではその後も、中期後半の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡、立岩堀田遺跡、後期初頭の桜馬場遺跡、そして後期前半の井原鑓溝遺跡などで首長霊祭祀が想定される状況が続く。これらの遺跡においては特に大量の銅鏡(前漢鏡)が副葬されていることが特徴である。しかし、弥生後期後半に入るとこの状況に変化が見られる。後期後半としては40面の銅鏡(大型内行花文鏡5面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡32面、他1面)が出た糸島市の平原遺跡があるものの、その他の地域においては豊富な副葬品を伴ういわゆる厚葬墓が見られなくなる。これは先に見た出雲、丹後、吉備などの地域と対照的である。また、この時期にこれらの地域で盛んに築かれた大規模な墳丘墓も北部九州ではほとんど見られない。これらのことからも、弥生中期から後期前半にかけて銅鏡の副葬が定着していた北部九州の勢力が後期後半あるいは終末期に東進して中国、四国、近畿を制圧したということは考えにくい。
福永伸哉氏は「邪馬台国から大和政権へ」の中で「弥生中期後葉には北部九州を中心に多量の前漢鏡の流入が始まり、その後も後漢鏡が継続して列島にもたらされ(た)」、「内行花文鏡や方格規矩鏡などおなじみの漢鏡ではなく、弥生終末期に現れるのは画文帯神獣鏡と呼ばれるあらたなデザインの銅鏡だった」、「画文帯神獣鏡は史上初めて畿内地域に分布の中心をもって現れた大陸文物である」と述べている。
ところで、「見る銅鐸」の最終形である近畿式銅鐸は近畿式といいながら大和ではほとんど出ていない。「聞く銅鐸」を終わらせた大和では「見る銅鐸」による祭祀を選択せず、画文帯神獣鏡による新たな祭祀を取り入れた。その後、各地で「見る銅鐸」が埋納されて銅鐸祭祀が終焉を迎えるのと引き換えに、畿内を中心に銅鏡を用いた祭祀が行われるようになる。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
ムラからクニへ、そしてクニどうしの連合や統合が進み、農耕祭祀や武威発揚祭祀を廃して首長霊祭祀や祖霊祭祀を行うようになって銅鐸は終焉を迎えた。銅鐸がその役割を終えた弥生時代後期の状況について確認しておきたい。弥生時代後期といえば1世紀中ごろから3世紀中ごろまでの約200年間であるが、クニが統合され、祭祀が変化するプロセスをこの200年に見ることができる。
福永伸哉氏によると、弥生中期に盛行した方形周溝墓は一つの周溝墓に複数の埋葬施設をもつ家族墓であったものが、畿内において後期後半から終末期に入ると埋葬施設を一基しか持たないものが多くなり、有力者の個人墓へと変質した状況が見られるという。墓制の変化という点からは同様に、先にも触れた通り、弥生後期に入ると各地に墳丘墓が築造されるようになり、首長霊祭祀が行われた様子がわかっている。
広島県の三次盆地に最も古い例がみられる四隅突出型墳丘墓は、弥生後期後半から出雲・伯耆を中心にした山陰地方に、そして後期後葉からは美作・備後の北部地域に広まった。島根県出雲市にある西谷墳墓群の3号墓は、方形部が40m×30m、高さ4.5m、突出部の長さが6~7mもある最大規模の四隅突出型墳丘墓である。墳丘上にある第1主体部の周囲に4つの柱穴が検出され、葬祭用の施設があったと考えられている。その第1主体の木棺内は水銀朱が敷きつめられ、碧玉製管玉や鉄剣など多数の副葬品が出ている。後述する吉備の特殊器台・特殊壺など他の地域から搬入された土器が検出され、亡き首長を弔う葬送儀礼が行われたようだ。四隅突出型墳丘墓は丹後を空白域として東は福井、富山まで見られる。
その四隅突出型墳丘墓の空白域である近畿北部の丹後地方では、弥生時代終末期に豪華な副葬品をもつ大型の墳丘墓が出現している。京都府京丹後市の赤坂今井墳丘墓は、39m×36m、高さ3.5mの方形墳丘墓である。墳頂中央部で巨大な墓壙が発見され、ガラス製の管玉や勾玉で作られた三連の豪華な頭飾りのほか、鉄剣や鉄刀などが副葬されていた。また、左坂墳墓群、三坂神社墳墓群、大風呂南墳墓群など、丘陵の斜面に沿って階段状に切り出された方形台状墓は丹後地方において弥生時代後期後葉あるいは終末期まで見られる墓制である。素環頭鉄刀やガラス釧などの貴重品が副葬されるとともに墓壙内破砕土器供献が見られ、ここでも葬送儀礼が行われたことがわかっている。
また、吉備地方では弥生時代後期後葉、全長80mと想定される全国でも珍しい双方中円型の楯築墳丘墓が築かれる。木棺内に厚く敷き詰められた水銀朱や鉄剣などの副葬品もさることながら、墓壙内に落ち込んだと思われる厚さ数十センチにおよぶ円礫堆に混じって見つかった吉備特有の特殊器台と特殊壺、数百の破片に砕かれた弧帯文石が注目される。これらは墓上で葬送の祭祀が行われたことを示している。特殊土器と特殊壺は亡き首長の霊とともに行う供飲供食あるいは飲食物供献の祭祀と考えられ、弧帯文石については他に類例がないので確かなことがわかっていないが、呪術具として穢れを祓う形代のような使い方をしたのではないかと解されている。このように吉備では首長霊祭祀が行われたことがわかっている。
弥生時代後期後半の中国地方や近畿地方においてこのような状況が確認される一方、北部九州、とりわけ玄界灘沿岸部では少し事情が違っているようだ。弥生中期初頭の吉武高木遺跡を皮切りに首長霊祭祀あるいは祖霊祭祀の兆しが確認された北部九州ではその後も、中期後半の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡、立岩堀田遺跡、後期初頭の桜馬場遺跡、そして後期前半の井原鑓溝遺跡などで首長霊祭祀が想定される状況が続く。これらの遺跡においては特に大量の銅鏡(前漢鏡)が副葬されていることが特徴である。しかし、弥生後期後半に入るとこの状況に変化が見られる。後期後半としては40面の銅鏡(大型内行花文鏡5面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡32面、他1面)が出た糸島市の平原遺跡があるものの、その他の地域においては豊富な副葬品を伴ういわゆる厚葬墓が見られなくなる。これは先に見た出雲、丹後、吉備などの地域と対照的である。また、この時期にこれらの地域で盛んに築かれた大規模な墳丘墓も北部九州ではほとんど見られない。これらのことからも、弥生中期から後期前半にかけて銅鏡の副葬が定着していた北部九州の勢力が後期後半あるいは終末期に東進して中国、四国、近畿を制圧したということは考えにくい。
福永伸哉氏は「邪馬台国から大和政権へ」の中で「弥生中期後葉には北部九州を中心に多量の前漢鏡の流入が始まり、その後も後漢鏡が継続して列島にもたらされ(た)」、「内行花文鏡や方格規矩鏡などおなじみの漢鏡ではなく、弥生終末期に現れるのは画文帯神獣鏡と呼ばれるあらたなデザインの銅鏡だった」、「画文帯神獣鏡は史上初めて畿内地域に分布の中心をもって現れた大陸文物である」と述べている。
ところで、「見る銅鐸」の最終形である近畿式銅鐸は近畿式といいながら大和ではほとんど出ていない。「聞く銅鐸」を終わらせた大和では「見る銅鐸」による祭祀を選択せず、画文帯神獣鏡による新たな祭祀を取り入れた。その後、各地で「見る銅鐸」が埋納されて銅鐸祭祀が終焉を迎えるのと引き換えに、畿内を中心に銅鏡を用いた祭祀が行われるようになる。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。