古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)③

2023年05月01日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月21日、ツアー初日の夕方の部です。

津田古墳群の次は津田湾にそそぐ津田川を遡った内陸部、高松平野につながる長尾平野の東端にある富田茶臼山古墳。5世紀前半に築造された四国最大の前方後円墳で全長が139m。後円部に近づくと三段築成だというのがよくわかります。




ふもとからの急な階段を登って墳頂に立つと、きれいに整備された墳丘が見渡せます。








5世紀前半にこの富田茶臼山古墳が出現すると先に見た津田古墳群では古墳の築造が停止したといいます。たしかに、1世紀にわたって築造が続いた津田古墳群は4世紀末の岩崎山1号墳が最後の古墳です。このことをどう考えればいいのか。

津田川河口にある津田港は中・近世の商業港として知られているように、津田古墳群の築造を続けた勢力は津田湾を拠点として播磨灘海域の水運を握るとともに海上交易で富を得た海人族だと考えられます。5世紀に入ってさらに勢力を拡大したその後裔が内陸部に進出し、長尾平野一帯を勢力域に加えて統治した。その海人族リーダーがこの古墳の被葬者と考えれば、津田湾臨海部での古墳築造が停止したことの説明ができます。以降、この集団の古墳は内陸部で築造されることになるということです。



そうすると、この集団が臨海部から内陸部に進出する以前、この地は別の集団が押さえていて、海人族は彼らを制して支配下に置いたということなのでしょうか。

午前中に行った森広遺跡群は弥生時代後期に森広の有力者が統治した拠点集落で、その後裔が雨滝山奥古墳群を造営したと考えました。森広遺跡群から富田茶臼山古墳のあるところまでは3キロほどで、さらに雨滝山奥古墳群からも同じく3キロほどです。富田茶臼山古墳を築造した勢力はこの森広集落や雨滝山を拠点とした集団を従えて長尾平野を治めた、と考えることができそうです。

この妄想は、森広遺跡群+雨滝山奥古墳群をひとつの勢力、津田古墳群+富田茶臼山古墳をもう一方の勢力、とする2つの勢力集団を想定した妄想になりますが、全部が同じ勢力であったと考えることもできます。あるいは3つとも違う、さらには津田古墳群と富田茶臼山古墳を別勢力とすれば4つの違う勢力が長尾平野を舞台に覇権を争った、との妄想も湧いてきます。

しかし、雨滝山奥古墳群最大、全長37mの前方後円墳である奥3号墳が4世紀前半の築造で、同じく37mの前方後円墳であるうのべ山古墳はそれよりも半世紀も前の3世紀後半の築造であることから、やはりこれらは別々の勢力だと考えます。

富田茶臼山古墳が四国最大の前方後円墳であることと、津田古墳群はヤマト王権とのつながりが想定されることから、これらのヤマトを背景とした勢力が古くから栄えていた森広勢力を従えたと考えるのが妥当、ということにしておきます。


さて、ここでいったん讃岐に別れを告げて阿波に向かうことにします。時間の関係もあって高速を使って阿讃山脈を越え、翌日からの鳴門板野古墳群の見学に備えた情報収集のために徳島県立埋蔵文化財総合センター(通称レキシルとくしま)を目指します。



ここで見ておきたかったのは、萩原1号墓の出土品、矢野銅鐸、大代古墳の石棺、西山谷2号墳の移設された石室などです。








矢野銅鐸が木製容器に収められていたというのは初めて知った。銅鐸といえば人目につかない山の斜面などにひっそりと埋められた、とよく言われる。専門家でさえ、すべての銅鐸がそのような場所に埋められたかのごとく主張する人がいるけど、それは全くの間違いです。現にこの矢野銅鐸や、すぐ近くから出た名東銅鐸は集落あるいは墓地に埋められている。浜辺や川岸に埋められたものもたくさんある。島根の加茂岩倉や神戸の桜ケ丘、滋賀の大岩山などのイメージが強いんだろうなあ。

この日は平日ということもあって、展示室をほぼ独占して見学することができ、翌日に備えていい勉強になりました。

さて、次はその矢野銅鐸が出た場所を確認に行きます。GoogleMapによると銅鐸出土地は個人の私有地にあって説明板も何もなく、ただこのあたりというのを見るだけ、とわかっていたものの、一度この眼で見ておきたく、岡田さん、佐々木さんにお付き合いいただきました。ところが、です。



帰宅後にこの本を読んでいると、矢野銅鐸出土地を示す地図が掲載されていました。事前にGoogleMapに表示されていた場所が左の黄色の丸、本に掲載されていた場所が赤い丸で、少しずれていることがわかりました。ただ、本来の場所も道路の下なので、どうすることもできませんでした。



この本でもうひとつわかったことがありました。レキシルとくしまで見た銅鐸埋納状況の展示(下に再掲)。これ、なんと実際の出土地を剥ぎ取ったものなんです。貝塚などの剥ぎ取り標本というのはよく見ますが、こんな立体的な剥ぎ取り標本は初めて見ました。さらにこの本によれば、この銅鐸が埋納されたのが弥生時代終末期の可能性が高い、ということです。



そしていよいよこの日の最後、宮谷古墳。銅鐸出土地からはすぐのところです。宮谷古墳は徳島県最古級、3世紀後半の前方後円墳で全長が37.5m。気延山南東端の標高約50mの尾根上に築かれています。阿波で初めて造られた畿内型の前方後円墳で、纒向型前方後円墳に近い平面形をしているとされ、三角縁神獣鏡が出ています。



3世紀後半と言えば卑弥呼の時代。大和の纒向では最初の定型化した前方後円墳とされる箸墓古墳が築かれました。そして、その定型化前方後円墳のひとつ前の形として登場した後円部と前方部の長さが2:1となる前方後円形の墳丘墓が纒向型前方後円墳です。それが3世紀後半の阿波の地に出現しているということは、この時期すでに阿波と大和は強くつながっていた、と考えることができそうです。

さらにもうひとつの妄想。矢野銅鐸が埋納されたのが弥生時代終末期とすると、その後すぐの3世紀後半に宮谷古墳が築造されたことになります。宮谷古墳に葬られたリーダーが率いた矢野集落の集団は、銅鐸を祭器とする農耕祭祀をやめて銅鐸を埋納し、リーダーやその祖先を崇拝する首長霊祭祀を採用した。その新しい祭祀で使われた祭器が三角縁神獣鏡です。

弥生時代後期、各地で銅鐸が埋納されたあとに古墳時代に突入します。つまり、各地で古墳を舞台とした新しい祭祀が始まるわけです。午前中に行った弥生時代後期の森広遺跡群でも銅鐸が出土し、それに続いて奥3号墳で三角縁神獣鏡が出ています。



上が後円部から前方部、下が前方部から後円部を撮影。




三角縁神獣鏡が出た後円部の斜面を真正面から。







標高50mとは思えない眺望。そういえばこの日、ここまで見てきた前期の古墳はほぼ全てが山や丘陵の上に築造されていました。さらに、前期の前方後円墳であるこの宮谷古墳、うのべ山古墳(津田古墳群)、奥3号墳(雨滝山奥古墳群)はともに全長は37m(宮谷古墳は37.5mですが)と、どれも小ぶりな古墳でした。

東讃岐と阿波の古墳時代前期前半の古墳は、①全長40m未満の小さな古墳が圧倒的に多い、➁前方部と後円部の比率がほぼ同じ(後円部:前方部=1:1)、③埋葬施設が東西方向に設けられる、④前方部が尾根の上側に位置する、⑤積石塚である(阿波地方と合わせて阿讃積石塚分布圏 と呼ばれる)、など、在地色の強い古墳が多いとされています。これらは全て資料で確認することができますが、やはり実際に現地に立ってみると、より実感できるし納得がいく。

最後に阿波史跡公園に行ってみると、ちょうど17時を過ぎたところで、職員さんが復元住居の扉を順に閉めているところでした。あえて中を見るまでもないので写真だけ撮って終わりにしました。



以上、初日の予定が終了です。車で徳島市内へ戻ってホテルにチェックイン。すぐに食事に繰り出しました。




なかなか充実した1日でした。岡田さん、運転お疲れさまでした。

(2日目につづく)







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