古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑥

2023年05月07日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月22日、2日目夕方の部のレポートです。

阿波での踏査を終えたあと、新しくできた新猪ノ鼻トンネルを通って阿讃山脈を縦断する快適なドライブで再び讃岐へ入り、讃岐平野の西にある有岡古墳群を目指します。まずは情報収集のため善通寺市役所のとなりにあるZENキューブ(善通寺市総合会館)内にある善通寺市立郷土館に行きました。

郷土館は2階の一画にある小さな施設ですが、迫力ある展示と丁寧な解説で郷土の歴史を学ぶことができる素晴らしい資料館です。





勉強中の縄文時代や展示資料の豊富な弥生時代も興味があったのですが、古墳時代の充実した展示は特筆ものでした。













3人が入室すると職員のおばさんが迎えてくれました。お願いしていないにもかかわらず一所懸命に展示の説明をしてくれます。でも、それがなかなか要領を得ない。私と佐々木さんがスルーする中で岡田さんはきちんと受け答えしていました。すると途中で職員さんから館長さんを紹介され、話が余計にややこしくなります。館長さん、讃岐弁で早口にしゃべるのでなかなか理解が追いつかないのです。

それでもわかったこと。
・王墓山古墳から出土した銀象嵌のある鉄剣は橿原考古学研究所に分析してもらった
・銀象嵌を施すと圧がかかって刀が反るので両面から微妙な力加減でたたきながら調整している
・善通寺の道路がすべて30度傾いているのは南海道が善通寺に突き当たるように設けられたことに由来する
・これによって昔からの善通寺市民の方向感覚は30度ずれている
・弘法大師(空海)は讃岐の豪族、佐伯氏の子で、父の名「善通(よしみち)」に因んで善通寺と名付けた

時間が十分にあればもう少し有効な会話ができたかもしれず、結局どっちつかずの少しもったいない時間になってしまいました。でも、お二人の熱意は十分に伝わりました。ありがとうございました。最後に職員さんが、1階に磨臼山古墳から出た割竹形石棺が展示されているので是非見て行ってください、と教えてくれました。



ZENキューブを後にしてまず王墓山古墳へ向かいました。王墓山古墳は全長46mの前方後円墳で6世紀前半の築造とされています。見事に整備された美しい古墳です。





両袖式の横穴式石室の中に「石屋形」があります。石屋形は九州ではよく見られるものの瀬戸内・四国地方では類例が少なく、 九州地方との交流が認められるとされます。石屋形とは石室内に設置された板石の組み合わせによる遺体安置施設(屍床)のことです。



また、石室内で見つかった金銅製冠帽と銀象嵌入鉄刀はヤマト王権が配下に入った豪族に下賜したものとされ、被葬者はヤマト王権と強いつながりを持った有力豪族と想定されます。



なお、古墳の周辺には陪塚と見られる小円墳7基があったらしいのですが現在では失われています。





佐々木さん、少しお腹が、、、

後円部を囲むように弥生時代終わり頃の箱式石棺や竪穴石室が10数基も見つかっています。この古墳の被葬者につながる一族の墓なのでしょうか。




次はすぐ近くにある宮が尾古墳。6世紀後半あるいは7世紀初頭に築かれた径20mの円墳で、石室内で、人物、船、騎馬人物、船団や殯の様子などを表したとされる四国では珍しい線刻壁画が確認されています。





古墳の向こうにそびえる山が我拝師山。郷土館で銅鐸が出た山として紹介されていました。古墳のすぐ横には横穴式石室と線刻壁画が復元されていました。





また、この古墳の調査中、すぐ隣りで破壊された石室が偶然に見つかりました。





この石室の左手下部にも線刻画が見つかったそうですが、復元された石室で見つけることができませんでした。





ここも史跡公園として整備されており、我拝師山を背にして2基の古墳を眺める光景は一見の価値ありです。

次はこの日のフィナーレとなる野田院古墳。Googleナビが示した宮が尾古墳からの最短経路に従って大麻山を登ることになったのですが、これが大失敗。車一台がやっと通れる細い道、両脇の木々がパタパタと車体にあたる。ちょっと遠回りしても通常ルートで登ればよかったと後悔。岡田さんには申し訳ないことをしましたが、なんとか大麻山頂上近くの野田院古墳に到着。

野田院古墳は3世紀後半に築造された全長44.5mの前方後円墳。後円部が径21m、高さ約2mの積石塚になっています。後円部だけが積石塚という不思議な前方後円墳です。






3世紀後半に西讃岐にも前方後円墳。東讃岐には津田古墳群のうのべ山古墳、阿波には宮谷古墳、吉野川中流域の東原遺跡に前方後円形積石墓と、讃岐と阿波には3世紀後半時点で前方後円墳あるいは前方後円形墳墓が存在したことがわかりました。感覚的には、これら前方後円墳が大和、もしくはそれに類する大きな権力の影響を受けたもの、という印象がなく、それぞれが自らの意志で築造したように感じました。

そして全国には、3世紀後半よりも早い3世紀前半あるいは中頃のものと考えられる前方後円墳(あるいは前方後円形墳墓)がたくさんあります。このことは前方後円墳の由来や意味を考えるにあたって極めて重要な事実であると思うのです。讃岐・阿波の3世紀後半の前方後円墳と同様、これら全てが大和の影響であるとは考え難い。このことは別の機会に考えてみることにします。

展望台に上ると伊予から吉備まで見渡すことができます。







古墳に近づくと後円部の積石の精巧な状況がよくわかります。もちろん現代の技術で復元されたものですが、どうやら築造当時すでにこの状態だったようです。





さて、以上でこの日の踏査は終了です。今から思うと磨臼山古墳にも行っておけばよかったかなと少しだけ後悔。それにしても岡田さん、朝からの長距離運転、最後の大麻山林道の走破、お疲れさまでした。おかげでもこの日も予定の行程を完了させることができました。

晩ご飯は岡田さんが予約してくれていた高松市内にある「弁慶」というお店。




ボリューム満点、味も良し。いいお店でした。


(3日目につづく)







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