古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

周溝墓が古墳に発展したのか(前編)

2023年05月23日 | 前方後円墳
この4月に讃岐と阿波を巡って以来、前方後円墳の成り立ちについて改めて思考を巡らせているのですが、そんな中、ゴールデンウイーク明けに母方の田舎に墓参りに行った際に、以前より考えていたことが確信めいたものになったので、そのことを書いてみたいと思います。またこの背景には、数年前に奈良県の瀬田遺跡で円形周溝墓が見つかったときに、円形周溝墓が前方後円墳の原型であるとの説が紹介されていましたが、円形周溝墓であれ方形周溝墓であれ、それらが前方後円墳あるいは前方後方墳の原型であるとの説(通説と言ってもいいのかな)に疑問を抱き続けている、というのがあります。


弥生時代、近畿地方を中心に各地で方形周溝墓という埋葬施設を溝で囲んだ墓が造られました。これらの調査時の写真や図を見るたびに思い出すのが、母方の田舎で見てきた土葬墓でした。今回の墓参りでも見てきました。関西圏にあるこの田舎ではつい最近まで、少なくとも私が子供の頃まで土葬が行われていました。今でも墓地のもっとも奥まった一画には土葬墓が並んでいて、いまだに花が添えられる墓がいくつもあるのです。その墓がまるで小さな長方形の周溝墓、あるいはほんとに小さな墳丘墓のように見えるのです。棺桶ひとつ分よりも小さなスペースに10〜20センチ程度の高さに土を盛り、その周囲を幅10センチ程度の浅く掘った溝で囲ってあります。

母方の墓は土葬墓ではないのでここから先は想像になりますが、この程度の盛土なら少し雨が降ると土が流れてしまうので、盛土はだんだん平らになっていくし、周囲の溝もすぐに埋まってしまいます。だからお参りのたびに溝を掘って土を盛るのだと思います。でも、それを何十年も繰り返すうちにそのスペースがだんだん狭く小さくなっていくのでしょう。せいぜい50センチ×30センチ程度の盛土がいくつもあるのはそういうことだと思うのです。埋葬時、浅い溝を掘る以外に明確に境界を示すものがあるわけではないので、何十年、何百年と経るうちに境界が不明瞭になって墓が輻輳して、ときには棺桶を埋めようと掘ってみると骨が出てきたなんてもこともあっただろうと思います。さらには誰も参らなくなって無縁仏になり、時間とともに小枝や枯葉に埋もれてしまう墓もたくさんあるはずです。溝も盛土もなく、周囲に瓦を差し込んで領域を明確にした墓も見受けられます。

そういえばひとつだけ、木製の屋形のようなものが置かれている土葬墓がありました。ビニールシートで覆って朽ち果てないようにしていましたが、どうみてもここ数年くらいの新しいものです。さすがに今は土葬はNGでしょうから、後裔の遺族の方が最近になって設置したのでしょう。もしかすると、どの土葬墓も最初はこういうものが置かれていて墓の場所や領域が明確だったのかもわかりません。子供の頃に見た記憶がよみがえってこないのが残念です。

また、どれもこれも写真でお見せすることができれば一目瞭然なのですが、古代の墓とは違ってさすがに現代の墓、しかも今でも祀られている墓の写真を撮ることは憚られました。これとて少し抵抗がありますが、Googleストリートビューから切り取った画像がこれです。これはほんの一部で、この右側の林の中や墓石が並ぶ向こう側に数十基かそれ以上の土葬墓が見られます。



(後編へつづく)


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