2023年4月22日、讃岐・阿波への古代史旅の2日目です。
ホテルでの朝食を済ませて7時半にスタート。この日の最初はホテルから車で20分ほど走った渋野丸山古墳です。徳島平野の南部、勝浦川左岸の尾根を利用した全長105mは徳島県下最大、四国でも前日の富田茶臼山古墳に次ぐ第2位の規模となる前方後円墳。築造時期は5世紀前半頃となっています。
徳島県では古墳時代前期は、このあと行くことになっている吉野川北岸の鳴門・板野地域や、前日に行った宮谷古墳のある吉野川南岸の気延山地域で古墳が築造されていましたが、前期後半からは徳島平野南部の勝浦川下流域にも古墳が築造されるようになりました。
また、中期前半(5世紀前半)になって大規模古墳であるこの渋野丸山古墳が築造され、これを最後に前方後円墳の築造が停止するという状況は、東讃岐の富田茶臼山古墳築造後の状況と同じです。これら大規模前方後円墳の築造はヤマト王権の権力をバックにした豪族首長によるものか、それともヤマト王権から派遣された中央の有力者によるものなのか。讃岐では前者を想定したものの、地元の豪族首長によるのなら、その後継者も前方後円墳を築くのではないだろうか。
前方部の斜面から墳丘に登ってみました。後円部頂上で何気なしに足元を見たときに目に入ったのがこれ。少し湾曲したような感じがするので、たぶん埴輪片だと思う。違うかな。
次は徳島平野を北上し、吉野川を渡って阿讃山脈のふもと、高速道路建設の際に発見された大代古墳。前日の「レキシルとくしま」で石棺を見学しておいたので、それが出た場所を確認したく、同時に墳丘からの徳島平野の眺望も見ておきたくてやってきました。高速道路によって破壊されるところだったのが、貴重な遺跡ということでトンネル工法によって守られた古墳です。
このトンネルの上に、4世紀末頃の築造とされる全長54mの柄鏡形の前方後円墳があるのです。駐車場からトンネルの上に通じる階段があるので登っていくと、、、
がーん😨
なんと階段の途中で鍵の閉まった扉に遮られてしまいました。おまけに、この古墳を見学するには許可が必要だと書いています。知らなかった。事前調査が足りていなかった。残念だったけど、あきらめて次へ向かいました。
ここからは西に向かいます。まずは宝幢寺古墳。宝幢寺という真言宗のお寺の裏にある古墳です。
境内には萩原1号墓の石室が移築されています。
墓地を通り抜けたところに突然に現れます。尾根を切り出したような感じの柄鏡式の前方後円墳で、全長が47m。築造時期は古墳時代前期後半と考えられています。後円部の頂上部には宝幢寺の江戸時代の住職の3基の墓が建てられています。一番下の後円部から前方部を見た写真で柄鏡形というのがよくわかります。
お寺の縁起が古墳との関係で語られるのは珍しいと思います。
このあたりは阿讃山脈から南に突き出す小さな尾根が連続していて、その尾根ごとに古墳が築かれています。次はすぐ西側の尾根上にある天河別神社古墳群です。
社殿の裏側に1号墳、左手に2号墳、隣の尾根の先端に3号墳、その尾根が分かれる付け根の部分に4号墳が並んでいて、この4基が国の史跡になっています。そして3号墳と4号墳の間に7号墳、さらに尾根の根元の方に5号墳以下、数基の古墳があるようです。3号墳のみが前方後円墳で残りは円墳です(4号墳は前方後円墳の可能性も指摘されています)。古墳時代前期前半に4号・5号・1号・2号墳の順で築造され、3号墳が古墳時代前期後半に築造されました。
1号墳は、3世紀末の築造で径25mの円墳。社殿によって一部が削られています。資料によると、墳頂部の竪穴式石室の外縁に二重の石囲い施設があり、萩原1号・2号墓の構造を引き継いでいるらしい。
2号墳は、4世紀前半の築造で径26mの円墳。墳丘上に小さな祠が建っています。
3号墳は、4世紀中頃の築造で全長約41mの前方後円墳。埋葬施設は未調査。尾根の先端部にある前方部を削るようにお墓が建っていました。
4号墳は、3世紀後半の築造で径20~25mの円墳、もしくは前方後円墳の可能性もあるそうです。埋葬施設の礫敷きが確認されています。4号墳のすぐ近くに円錐状に積まれた礫の山が気になったのだけど関係ないかな。
7号墳は4号墳と3号墳の間にあるはずなので、たぶんこの盛り上がりかな。なぜか表示がありませんでした。
5号墳やその他の古墳は竹藪を割って尾根をさらに奥に進まないとだめなようだったのであきらめました。
この古墳群では、3世紀末築造の1号墳が萩原1号墓・2号墓の構造(石囲い)を引き継いでいることが興味深いと思いました。萩原1・2号墓はこのあとに行くのですが、弥生時代終末期の3世紀初頭の築造とされています。そして、もしも3世紀後半築造の4号墳が前方後円墳であるなら、この古墳群の重要性がさらに高まります。萩原墳墓群の隣の尾根にあって、石囲いの埋葬施設、前方後円形という萩原1・2号墓の最大の特徴を3世紀の時点で引き継いだ古墳群になるからです。
古いのから新しいのまで、いたるところに説明板や案内板がありました。
次はいよいよ私にとってのこの旅のメインイベントと考えていた萩原墳墓群です。
(つづく)
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
ホテルでの朝食を済ませて7時半にスタート。この日の最初はホテルから車で20分ほど走った渋野丸山古墳です。徳島平野の南部、勝浦川左岸の尾根を利用した全長105mは徳島県下最大、四国でも前日の富田茶臼山古墳に次ぐ第2位の規模となる前方後円墳。築造時期は5世紀前半頃となっています。
徳島県では古墳時代前期は、このあと行くことになっている吉野川北岸の鳴門・板野地域や、前日に行った宮谷古墳のある吉野川南岸の気延山地域で古墳が築造されていましたが、前期後半からは徳島平野南部の勝浦川下流域にも古墳が築造されるようになりました。
また、中期前半(5世紀前半)になって大規模古墳であるこの渋野丸山古墳が築造され、これを最後に前方後円墳の築造が停止するという状況は、東讃岐の富田茶臼山古墳築造後の状況と同じです。これら大規模前方後円墳の築造はヤマト王権の権力をバックにした豪族首長によるものか、それともヤマト王権から派遣された中央の有力者によるものなのか。讃岐では前者を想定したものの、地元の豪族首長によるのなら、その後継者も前方後円墳を築くのではないだろうか。
前方部の斜面から墳丘に登ってみました。後円部頂上で何気なしに足元を見たときに目に入ったのがこれ。少し湾曲したような感じがするので、たぶん埴輪片だと思う。違うかな。
次は徳島平野を北上し、吉野川を渡って阿讃山脈のふもと、高速道路建設の際に発見された大代古墳。前日の「レキシルとくしま」で石棺を見学しておいたので、それが出た場所を確認したく、同時に墳丘からの徳島平野の眺望も見ておきたくてやってきました。高速道路によって破壊されるところだったのが、貴重な遺跡ということでトンネル工法によって守られた古墳です。
このトンネルの上に、4世紀末頃の築造とされる全長54mの柄鏡形の前方後円墳があるのです。駐車場からトンネルの上に通じる階段があるので登っていくと、、、
がーん😨
なんと階段の途中で鍵の閉まった扉に遮られてしまいました。おまけに、この古墳を見学するには許可が必要だと書いています。知らなかった。事前調査が足りていなかった。残念だったけど、あきらめて次へ向かいました。
ここからは西に向かいます。まずは宝幢寺古墳。宝幢寺という真言宗のお寺の裏にある古墳です。
境内には萩原1号墓の石室が移築されています。
墓地を通り抜けたところに突然に現れます。尾根を切り出したような感じの柄鏡式の前方後円墳で、全長が47m。築造時期は古墳時代前期後半と考えられています。後円部の頂上部には宝幢寺の江戸時代の住職の3基の墓が建てられています。一番下の後円部から前方部を見た写真で柄鏡形というのがよくわかります。
お寺の縁起が古墳との関係で語られるのは珍しいと思います。
このあたりは阿讃山脈から南に突き出す小さな尾根が連続していて、その尾根ごとに古墳が築かれています。次はすぐ西側の尾根上にある天河別神社古墳群です。
社殿の裏側に1号墳、左手に2号墳、隣の尾根の先端に3号墳、その尾根が分かれる付け根の部分に4号墳が並んでいて、この4基が国の史跡になっています。そして3号墳と4号墳の間に7号墳、さらに尾根の根元の方に5号墳以下、数基の古墳があるようです。3号墳のみが前方後円墳で残りは円墳です(4号墳は前方後円墳の可能性も指摘されています)。古墳時代前期前半に4号・5号・1号・2号墳の順で築造され、3号墳が古墳時代前期後半に築造されました。
1号墳は、3世紀末の築造で径25mの円墳。社殿によって一部が削られています。資料によると、墳頂部の竪穴式石室の外縁に二重の石囲い施設があり、萩原1号・2号墓の構造を引き継いでいるらしい。
2号墳は、4世紀前半の築造で径26mの円墳。墳丘上に小さな祠が建っています。
3号墳は、4世紀中頃の築造で全長約41mの前方後円墳。埋葬施設は未調査。尾根の先端部にある前方部を削るようにお墓が建っていました。
4号墳は、3世紀後半の築造で径20~25mの円墳、もしくは前方後円墳の可能性もあるそうです。埋葬施設の礫敷きが確認されています。4号墳のすぐ近くに円錐状に積まれた礫の山が気になったのだけど関係ないかな。
7号墳は4号墳と3号墳の間にあるはずなので、たぶんこの盛り上がりかな。なぜか表示がありませんでした。
5号墳やその他の古墳は竹藪を割って尾根をさらに奥に進まないとだめなようだったのであきらめました。
この古墳群では、3世紀末築造の1号墳が萩原1号墓・2号墓の構造(石囲い)を引き継いでいることが興味深いと思いました。萩原1・2号墓はこのあとに行くのですが、弥生時代終末期の3世紀初頭の築造とされています。そして、もしも3世紀後半築造の4号墳が前方後円墳であるなら、この古墳群の重要性がさらに高まります。萩原墳墓群の隣の尾根にあって、石囲いの埋葬施設、前方後円形という萩原1・2号墓の最大の特徴を3世紀の時点で引き継いだ古墳群になるからです。
古いのから新しいのまで、いたるところに説明板や案内板がありました。
次はいよいよ私にとってのこの旅のメインイベントと考えていた萩原墳墓群です。
(つづく)
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