【銅鐸出土時の状況】
銅鐸は道路工事などの開発に伴って偶然に発見される場合がほとんどであったが、最近になって発掘調査によって見つかるケースも増えてきて、銅鐸が埋められた様子が次第に明らかになってきた。その埋め方については、銅鐸よりもひと回り大きな穴を掘り、そこに鰭を上下にして横向きに置くという方法による場合が多いとされているが、鰭を水平に置く場合も相当数あるようだ。また、わずかではあるが倒立状態で埋められたケースもある。しかし、鰭を上下にして埋納する方法はもっとも古い型式の菱環紐式からもっとも新しい突線紐式までほぼ一貫して見られる。
また、銅鐸が単独で埋められた場合と、複数の銅鐸が同時に埋められた場合があり、後者の場合は紐を向かい合わせにしたり、入れ子と言って大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れた状態で埋められたケースが見られる。いずれの場合も何らかの意思を持って丁寧に埋められているので、一般的には「埋納」という表現がなされている。徳島県の矢野遺跡の場合、銅鐸の周囲を黒色の砂質土によって包にこみ、さらにその外側を褐色の砂質土で取り巻くという非常に丁寧な方法で埋められていた。また、周辺からは銅鐸埋納坑を取り巻くようにして7ヵ所の柱穴が検出されたが、棟持柱を有する建物の存在が想定され、最も丁寧に埋納された例である。
銅鐸の出土場所としては、島根県の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡のように集落をはずれた丘陵の斜面や麓などの場合が多いとされるが、和歌山県の太田・黒田遺跡、前述の徳島県矢野遺跡、その矢野遺跡と鮎喰川を挟んだ反対側にある名東遺跡などでは集落の中から見つかっている。また、兵庫県加西市の加茂遺跡では集落のすぐ近くから、兵庫県南あわじ市や徳島県阿南市、大阪府堺市では砂浜や海岸付近からの出土であり、和歌山市を流れる紀ノ川の最下流の中州から見つかった紀ノ川銅鐸や同じく紀ノ川下流の河原から出た有本銅鐸のようなケースもある。辺鄙な山奥の斜面から出土することが多いという印象が強いが、実態は必ずしも一律ではない。しかし、いずれの場合も銅鐸が埋められたという事実は確かなようだ。
銅鐸は完形のものとして出土する場合のほか、破壊された破片の状態で見つかることもある。兵庫県豊岡市の久田谷遺跡で見つかった銅鐸は大きさを整えるように砕かれた5~10センチの117個もの破片がまとめて埋められていた。鐸身の3分の1ほどの破片しかなく完形への復元は困難であるが、突線紐5式の鐸身部分であるとされる。このほか、飾耳部分だけが見つかったようなケースも含めて、これまでに20数例の破壊銅鐸の存在がわかっている。
破壊された意味については諸説ある。銅鐸が祭器としての機能を果たしえなかった、つまり豊穣という成果を獲得できなかった場合に破壊されたとする考えや、九州から攻め入って来た他の集団に制圧された結果として祭器の破壊を強要されたとする考え、あるいは祭器としての役割を終えたものを破壊して他の器物に再利用したとする考えなどである。静岡県沼津市から出た飾耳の破片は穴をあけてペンダントとして利用された痕跡があるという。
破壊銅鐸に関して疑問が残ることがある。鐸身の3分の1の破片が埋められていた久田谷銅鐸の残り3分の2はどこに行ったのか。さらに20数例の破壊銅鐸のうち、飾耳だけの場合が数例あるが、この場合も残りの鈕や鐸身の部分はどうなったのだろうか。破壊して埋納する場合は銅鐸全体の破片を埋めるのが自然であると思うが、これまで出土した破壊銅鐸はあくまで銅鐸の一部の破片が出ているに過ぎない。また、破壊銅鐸は新しい形式の突線鈕式が大半で、祭器としての役割を終える最終段階で破壊されている。
これらの事実から銅鐸が破壊された理由は、個人がその破片を装身具として所持するケースや、銅鐸がもともと保持していた呪力にあやかろうとしてお守りのように保有するというケース、あるいは破片を原料にして他の青銅器物に再利用したケースなどが想定されるのではないだろうか。寺澤薫氏は再利用説を説き、春成秀爾氏も、銅鐸祭祀の終焉時には地上に残されていた銅鐸が積極的に破壊されて他の器物に改鋳されていった可能性があることを指摘している。
また、銅鐸が出土する場合はその多くは1個単位での出土であるが、多数の銅鐸が同時に出土した例もある。加茂岩倉遺跡では39個、神戸市桜ヶ丘では14個、滋賀県野洲市大岩山からは14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点から見つかった。また、静岡県浜松市の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸が見つかっている。
福永伸哉氏によると、複数個がまとまって出土した37カ所、159個の銅鐸についてその組合せを見ると、菱環鈕式と外縁付鈕式、外縁付鈕式が複数個、外縁付鈕式と扁平鈕式、扁平鈕式が複数個、扁平鈕式と突線鈕1式、突線鈕1式・2式・3式、突線鈕3式が複数個、突線鈕3式と4式、同じく3式と5式、という組合せに限定され、古い形式の菱環鈕式や外縁付鈕式と、新しい形式の突線鈕式が一緒に出たケースはないという。さらに、古い銅鐸は古いものどうし、新しい銅鐸は新しいものどうしで埋められているという事実は、扁平鈕式以前の古い形式の銅鐸が埋められた時期と、新しい突線鈕式以降の銅鐸が埋められた時期が大きく隔たっていることを示唆している、として、それまでの有力説であった古墳時代を控えた弥生時代終末期に一斉に埋められたとする説に疑問を呈した。そして、古い銅鐸の埋納が集中的に行われたのが弥生時代中期末から後期初頭とし、新しい銅鐸、いわゆる「見る銅鐸」はその巨大化が頂点に達した弥生後期後半に突如として姿を消したとする。合理的な考えだと思う。
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銅鐸は道路工事などの開発に伴って偶然に発見される場合がほとんどであったが、最近になって発掘調査によって見つかるケースも増えてきて、銅鐸が埋められた様子が次第に明らかになってきた。その埋め方については、銅鐸よりもひと回り大きな穴を掘り、そこに鰭を上下にして横向きに置くという方法による場合が多いとされているが、鰭を水平に置く場合も相当数あるようだ。また、わずかではあるが倒立状態で埋められたケースもある。しかし、鰭を上下にして埋納する方法はもっとも古い型式の菱環紐式からもっとも新しい突線紐式までほぼ一貫して見られる。
また、銅鐸が単独で埋められた場合と、複数の銅鐸が同時に埋められた場合があり、後者の場合は紐を向かい合わせにしたり、入れ子と言って大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れた状態で埋められたケースが見られる。いずれの場合も何らかの意思を持って丁寧に埋められているので、一般的には「埋納」という表現がなされている。徳島県の矢野遺跡の場合、銅鐸の周囲を黒色の砂質土によって包にこみ、さらにその外側を褐色の砂質土で取り巻くという非常に丁寧な方法で埋められていた。また、周辺からは銅鐸埋納坑を取り巻くようにして7ヵ所の柱穴が検出されたが、棟持柱を有する建物の存在が想定され、最も丁寧に埋納された例である。
銅鐸の出土場所としては、島根県の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡のように集落をはずれた丘陵の斜面や麓などの場合が多いとされるが、和歌山県の太田・黒田遺跡、前述の徳島県矢野遺跡、その矢野遺跡と鮎喰川を挟んだ反対側にある名東遺跡などでは集落の中から見つかっている。また、兵庫県加西市の加茂遺跡では集落のすぐ近くから、兵庫県南あわじ市や徳島県阿南市、大阪府堺市では砂浜や海岸付近からの出土であり、和歌山市を流れる紀ノ川の最下流の中州から見つかった紀ノ川銅鐸や同じく紀ノ川下流の河原から出た有本銅鐸のようなケースもある。辺鄙な山奥の斜面から出土することが多いという印象が強いが、実態は必ずしも一律ではない。しかし、いずれの場合も銅鐸が埋められたという事実は確かなようだ。
銅鐸は完形のものとして出土する場合のほか、破壊された破片の状態で見つかることもある。兵庫県豊岡市の久田谷遺跡で見つかった銅鐸は大きさを整えるように砕かれた5~10センチの117個もの破片がまとめて埋められていた。鐸身の3分の1ほどの破片しかなく完形への復元は困難であるが、突線紐5式の鐸身部分であるとされる。このほか、飾耳部分だけが見つかったようなケースも含めて、これまでに20数例の破壊銅鐸の存在がわかっている。
破壊された意味については諸説ある。銅鐸が祭器としての機能を果たしえなかった、つまり豊穣という成果を獲得できなかった場合に破壊されたとする考えや、九州から攻め入って来た他の集団に制圧された結果として祭器の破壊を強要されたとする考え、あるいは祭器としての役割を終えたものを破壊して他の器物に再利用したとする考えなどである。静岡県沼津市から出た飾耳の破片は穴をあけてペンダントとして利用された痕跡があるという。
破壊銅鐸に関して疑問が残ることがある。鐸身の3分の1の破片が埋められていた久田谷銅鐸の残り3分の2はどこに行ったのか。さらに20数例の破壊銅鐸のうち、飾耳だけの場合が数例あるが、この場合も残りの鈕や鐸身の部分はどうなったのだろうか。破壊して埋納する場合は銅鐸全体の破片を埋めるのが自然であると思うが、これまで出土した破壊銅鐸はあくまで銅鐸の一部の破片が出ているに過ぎない。また、破壊銅鐸は新しい形式の突線鈕式が大半で、祭器としての役割を終える最終段階で破壊されている。
これらの事実から銅鐸が破壊された理由は、個人がその破片を装身具として所持するケースや、銅鐸がもともと保持していた呪力にあやかろうとしてお守りのように保有するというケース、あるいは破片を原料にして他の青銅器物に再利用したケースなどが想定されるのではないだろうか。寺澤薫氏は再利用説を説き、春成秀爾氏も、銅鐸祭祀の終焉時には地上に残されていた銅鐸が積極的に破壊されて他の器物に改鋳されていった可能性があることを指摘している。
また、銅鐸が出土する場合はその多くは1個単位での出土であるが、多数の銅鐸が同時に出土した例もある。加茂岩倉遺跡では39個、神戸市桜ヶ丘では14個、滋賀県野洲市大岩山からは14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点から見つかった。また、静岡県浜松市の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸が見つかっている。
福永伸哉氏によると、複数個がまとまって出土した37カ所、159個の銅鐸についてその組合せを見ると、菱環鈕式と外縁付鈕式、外縁付鈕式が複数個、外縁付鈕式と扁平鈕式、扁平鈕式が複数個、扁平鈕式と突線鈕1式、突線鈕1式・2式・3式、突線鈕3式が複数個、突線鈕3式と4式、同じく3式と5式、という組合せに限定され、古い形式の菱環鈕式や外縁付鈕式と、新しい形式の突線鈕式が一緒に出たケースはないという。さらに、古い銅鐸は古いものどうし、新しい銅鐸は新しいものどうしで埋められているという事実は、扁平鈕式以前の古い形式の銅鐸が埋められた時期と、新しい突線鈕式以降の銅鐸が埋められた時期が大きく隔たっていることを示唆している、として、それまでの有力説であった古墳時代を控えた弥生時代終末期に一斉に埋められたとする説に疑問を呈した。そして、古い銅鐸の埋納が集中的に行われたのが弥生時代中期末から後期初頭とし、新しい銅鐸、いわゆる「見る銅鐸」はその巨大化が頂点に達した弥生後期後半に突如として姿を消したとする。合理的な考えだと思う。
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