【見る銅鐸の埋納】
「聞く銅鐸」による農耕祭祀を行っていたムラの統合が進んでクニへと発展していく過程で、あるいはムラやクニの祭祀形態が農耕祭祀から首長霊祭祀や祖霊祭祀へと変化していく過程で銅鐸の集中や埋納が行われた。ただし、農耕祭器としての「聞く銅鐸」を廃止して首長霊祭祀や祖霊祭祀に移行したクニがあった一方で、弥生時代後期に入ってからも銅鐸の大型化をさらに進めて突線鈕2式以降のいわゆる「見る銅鐸」に発展させたクニがあった。この「見る銅鐸」には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2系統がある。近畿式銅鐸は、鈕の頂に双頭渦文をつけ、鐸身の区画帯を斜格子文で飾ることなどを特徴とし、近畿地方を中心に畿内の周辺部と紀伊西部、近江、伊勢、尾張、三河、遠江などに分布する。三遠式銅鐸は、鈕の頂に飾耳がなく、鐸身の横帯には綾杉文を採用することなどを特徴とし、近畿式銅鐸にやや遅れて成立し、三河、遠江を中心に限られた範囲に分布する。
滋賀県の守山弥生遺跡研究会のサイトによると、大半の「聞く銅鐸」が埋納される段階で10系統以上あった銅鐸の種類が5つの系統に整理され、その5つの系統の銅鐸がそれまでの形式や装飾を引き継いで「見る銅鐸」として大型化、装飾化が進んだ、とされる。弥生時代後期初頭の「見る銅鐸」の5つの系統とは、山陰および中国地方の製作とされる「迷路派流水文」、近畿東部の「大福型」、瀬戸内東部の「横帯分割型」、東海地方の「東海派」、奈良の「石上型」である。これがさらに近畿式と三遠式に統合されていくのであるが、近畿式は大福型をベースに迷路派流水文と横帯分割型の影響を受けて統合され、三遠式は東海派をベースに横帯分割型の様式が取り込まれた。そして弥生時代後期後葉、最終的には近畿式に統合されることとなる。この銅鐸様式が統合される変遷は、それぞれの銅鐸を保有していた地域勢力が連携あるいは統合されていく変遷をなぞっていると考えられている。
一方、この頃の北部九州では銅剣や銅矛などの武器形青銅器や中国製の青銅鏡(前漢鏡)を副葬した甕棺墓が弥生時代中期に最盛期を迎えたが、後期に入ると「聞く銅鐸」と同様に廃れていく。武器形青銅器は本来、実用的な武器として利用され、その所有者が亡くなると威信財として甕棺墓に副葬されていたが、朝鮮半島から鉄器が流入するようになると、その実用性を失い、さらには甕棺墓の終焉とともに副葬品としての役割も終えた。
実用的な武器あるいは威信財としての用途を失った武器型青銅器はその後、武威を発揚するための祭器として用途を転換した。そして、その武威性をより発揚するために大型化が図られたと考えられる。銅剣は細形、中細型、平形と大型化し、弥生時代中期には瀬戸内海沿岸部では平形銅剣、出雲を中心にした山陰では中細形銅剣が分布していたが、それらは弥生後期に入ると出雲の荒神谷遺跡にみられるように一斉に埋納された。また、もうひとつの武器型青銅器である銅矛を見ると、細形、中細形、中広形と大型化が図られ、最終的には広形銅矛として最大化することとなるが、こちらも弥生中期には中国地方で見つかっていたものが、後期に入ると北部九州から豊予海峡を越えて四国南西部という範囲に限られていくこととなる。
弥生時代後期になって「聞く銅鐸」を埋納して農耕祭祀を廃止したクニ、あるいは武器型青銅器による武威発揚の祭祀を廃止したクニは、新たな統治手段としての首長霊祭祀や祖霊祭祀を司る司祭権を行使するための祭器や祭祀舞台を生み出していった。その結果、それまで「聞く銅鐸」や銅剣、銅矛などの武器形青銅器が見られた瀬戸内海沿岸や山陰から北陸にかけての日本海沿岸は大型青銅祭器の空白域となった。そして、吉備においては特殊器台、特殊壺という儀礼用の大型土器が製作されるとともに双方中円型の楯築墳丘墓が築かれ、山陰では四隅突出型墳丘墓、近畿北部では丘陵上の台状墓という墓制がその舞台となった。これらの新しい祭器や墓制に基づく祭祀に移行したクニにおいても、吉備、出雲、丹後といった地域単位での共通性がみられることから、「見る銅鐸」による農耕祭祀を継続したクニと同様に、祭器や祭祀を同じくする連合勢力として統合が進んでいったと考えられる。弥生時代後期の西日本の勢力図を祭器や祭祀形態の共通性で見るなら、銅矛祭祀の北部九州及び四国南西部、特殊器台・特殊壺の吉備、四隅突出型墳丘墓の山陰、台状墓の近畿北部、そして近畿式銅鐸の近畿、三遠式銅鐸の東海ということになろう。
3世紀末に書かれたとされる魏志倭人伝には「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国」とあり、これは漢書地理志の「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す」を受けた記述になっている。つまり、漢の時代に朝見する国が100か国以上あったのが、魏の時代には30か国になったということだ。弥生時代中期から終末期にかけてのクニの統合を読み取ることができる。
弥生時代後期、クニの統合にしたがって様式の統合が進み、近畿式として極大化した「見る銅鐸」であるが、「聞く銅鐸」と同様に、古墳時代を目前にした弥生時代後期後葉に次々と埋納され、終焉を迎える。それは北部九州や四国南西部で武威発揚祭器として用いられていた広形銅矛も同様で、いずれも古墳時代に受け継がれることはなかった。
この状況について吉田広氏は、「広形銅矛と突線鈕式銅鐸は、少なくとも古墳時代に降ることが特定できた青銅祭器埋納が存在しないこと、古墳という葬送儀礼の新たな祭場に弥生青銅祭器が存在しないことから、古墳成立という時代転換を前にあるいは中で最後の埋納を終え、新たな祭器を作り出すことも、再び取り出すこともなくなり終焉を迎えていった」とする。
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「聞く銅鐸」による農耕祭祀を行っていたムラの統合が進んでクニへと発展していく過程で、あるいはムラやクニの祭祀形態が農耕祭祀から首長霊祭祀や祖霊祭祀へと変化していく過程で銅鐸の集中や埋納が行われた。ただし、農耕祭器としての「聞く銅鐸」を廃止して首長霊祭祀や祖霊祭祀に移行したクニがあった一方で、弥生時代後期に入ってからも銅鐸の大型化をさらに進めて突線鈕2式以降のいわゆる「見る銅鐸」に発展させたクニがあった。この「見る銅鐸」には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2系統がある。近畿式銅鐸は、鈕の頂に双頭渦文をつけ、鐸身の区画帯を斜格子文で飾ることなどを特徴とし、近畿地方を中心に畿内の周辺部と紀伊西部、近江、伊勢、尾張、三河、遠江などに分布する。三遠式銅鐸は、鈕の頂に飾耳がなく、鐸身の横帯には綾杉文を採用することなどを特徴とし、近畿式銅鐸にやや遅れて成立し、三河、遠江を中心に限られた範囲に分布する。
滋賀県の守山弥生遺跡研究会のサイトによると、大半の「聞く銅鐸」が埋納される段階で10系統以上あった銅鐸の種類が5つの系統に整理され、その5つの系統の銅鐸がそれまでの形式や装飾を引き継いで「見る銅鐸」として大型化、装飾化が進んだ、とされる。弥生時代後期初頭の「見る銅鐸」の5つの系統とは、山陰および中国地方の製作とされる「迷路派流水文」、近畿東部の「大福型」、瀬戸内東部の「横帯分割型」、東海地方の「東海派」、奈良の「石上型」である。これがさらに近畿式と三遠式に統合されていくのであるが、近畿式は大福型をベースに迷路派流水文と横帯分割型の影響を受けて統合され、三遠式は東海派をベースに横帯分割型の様式が取り込まれた。そして弥生時代後期後葉、最終的には近畿式に統合されることとなる。この銅鐸様式が統合される変遷は、それぞれの銅鐸を保有していた地域勢力が連携あるいは統合されていく変遷をなぞっていると考えられている。
一方、この頃の北部九州では銅剣や銅矛などの武器形青銅器や中国製の青銅鏡(前漢鏡)を副葬した甕棺墓が弥生時代中期に最盛期を迎えたが、後期に入ると「聞く銅鐸」と同様に廃れていく。武器形青銅器は本来、実用的な武器として利用され、その所有者が亡くなると威信財として甕棺墓に副葬されていたが、朝鮮半島から鉄器が流入するようになると、その実用性を失い、さらには甕棺墓の終焉とともに副葬品としての役割も終えた。
実用的な武器あるいは威信財としての用途を失った武器型青銅器はその後、武威を発揚するための祭器として用途を転換した。そして、その武威性をより発揚するために大型化が図られたと考えられる。銅剣は細形、中細型、平形と大型化し、弥生時代中期には瀬戸内海沿岸部では平形銅剣、出雲を中心にした山陰では中細形銅剣が分布していたが、それらは弥生後期に入ると出雲の荒神谷遺跡にみられるように一斉に埋納された。また、もうひとつの武器型青銅器である銅矛を見ると、細形、中細形、中広形と大型化が図られ、最終的には広形銅矛として最大化することとなるが、こちらも弥生中期には中国地方で見つかっていたものが、後期に入ると北部九州から豊予海峡を越えて四国南西部という範囲に限られていくこととなる。
弥生時代後期になって「聞く銅鐸」を埋納して農耕祭祀を廃止したクニ、あるいは武器型青銅器による武威発揚の祭祀を廃止したクニは、新たな統治手段としての首長霊祭祀や祖霊祭祀を司る司祭権を行使するための祭器や祭祀舞台を生み出していった。その結果、それまで「聞く銅鐸」や銅剣、銅矛などの武器形青銅器が見られた瀬戸内海沿岸や山陰から北陸にかけての日本海沿岸は大型青銅祭器の空白域となった。そして、吉備においては特殊器台、特殊壺という儀礼用の大型土器が製作されるとともに双方中円型の楯築墳丘墓が築かれ、山陰では四隅突出型墳丘墓、近畿北部では丘陵上の台状墓という墓制がその舞台となった。これらの新しい祭器や墓制に基づく祭祀に移行したクニにおいても、吉備、出雲、丹後といった地域単位での共通性がみられることから、「見る銅鐸」による農耕祭祀を継続したクニと同様に、祭器や祭祀を同じくする連合勢力として統合が進んでいったと考えられる。弥生時代後期の西日本の勢力図を祭器や祭祀形態の共通性で見るなら、銅矛祭祀の北部九州及び四国南西部、特殊器台・特殊壺の吉備、四隅突出型墳丘墓の山陰、台状墓の近畿北部、そして近畿式銅鐸の近畿、三遠式銅鐸の東海ということになろう。
3世紀末に書かれたとされる魏志倭人伝には「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国」とあり、これは漢書地理志の「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す」を受けた記述になっている。つまり、漢の時代に朝見する国が100か国以上あったのが、魏の時代には30か国になったということだ。弥生時代中期から終末期にかけてのクニの統合を読み取ることができる。
弥生時代後期、クニの統合にしたがって様式の統合が進み、近畿式として極大化した「見る銅鐸」であるが、「聞く銅鐸」と同様に、古墳時代を目前にした弥生時代後期後葉に次々と埋納され、終焉を迎える。それは北部九州や四国南西部で武威発揚祭器として用いられていた広形銅矛も同様で、いずれも古墳時代に受け継がれることはなかった。
この状況について吉田広氏は、「広形銅矛と突線鈕式銅鐸は、少なくとも古墳時代に降ることが特定できた青銅祭器埋納が存在しないこと、古墳という葬送儀礼の新たな祭場に弥生青銅祭器が存在しないことから、古墳成立という時代転換を前にあるいは中で最後の埋納を終え、新たな祭器を作り出すことも、再び取り出すこともなくなり終焉を迎えていった」とする。
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