■「内」について
「武内宿禰」は一般的には「たけのうちのすくね」と読まれている。記紀には武内宿禰に腹違いの弟(または兄)がいることが記される。書紀では「弟甘美内宿禰」と記されることから弟であることがわかる。応神9年に讒言によって義兄である武内宿禰を排除しようとした人物で、書紀での登場はこの一回のみである。また、古事記では建内宿禰誕生の話の直前に、父の比古布都押之信命が尾張連らの祖である意富那毘の妹の葛城高千那毘売を娶って生まれた子が「味師内宿禰」であり、山代内臣の祖であると記される。ここでは兄とも弟とも記していないが、記述順に従うならば兄ということになる。
武内宿禰(建内宿禰)と甘美内宿禰(味師内宿禰)は腹違いとは言え兄弟であるならば姓は同一と考えられ、それは「内」ということになる。また、記紀がともに記す雁が卵を産む話で、仁徳天皇は武内宿禰に向かって「たまきはる内の朝臣」と呼びかけている。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞であるが、この「内の朝臣」はそのまま「内宿禰」という意味で受け取れよう。そして「武(建)」「甘美(味師)」は美称で前者は「勇敢な、猛々しい」という意味で、後者は「良い、立派な」という意味なので、武内宿禰(建内宿禰)は「勇敢な内氏の宿禰」として「たけし・うちのすくね」と読み、甘美内宿禰(味師内宿禰)は「立派な内氏の宿禰」として「うまし・うちのすくね」と読む、とする考えが広く認められる。このことから、「内」あるいは「内宿禰」に対する様々な考察が試みられている。
本居宣長による「古事記伝」では「内」を大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)と解している。宇智郡は北へ行けば大和の葛城、南へ行けば紀ノ川流域、つまり大和国葛城と紀伊国の境界にあたる場所である。先に「武内宿禰の誕生と終焉」のところで武内宿禰と紀伊のつながりを確認したが、この地は葛城氏と紀氏の始祖である武内宿禰の本拠地としてはいかにもありそうだ。この大和国宇智郡を根拠とした豪族に有至臣(内臣)がいる。日本書紀の欽明天皇紀に登場し、朝鮮半島との外交や軍事に従事した豪族であるが、この有至臣(内臣)と関係があるとも言われる。
また、九州南部(鹿児島・宮崎)に「内」という姓が現在でも多く残っていること、同様に「内」のつく地名も多数あることなどから南九州に「内」の勢力の本拠地があったとし、その勢力が西日本一帯に進出したとする考えもある。
さらに、日本書紀編纂を実質的に主導した藤原不比等の父である中臣鎌足(藤原鎌足)が死の直前に就任した内大臣(内臣)の「内」を指すという考えも提唱されている。理想の参謀役である忠臣に自らの父親を投影させたということだ。この場合は「内宿禰=内大臣(内臣)」と解するのだろう。
これと同様に、蘇我氏が権勢を示すために蘇我馬子をモデルとしてその人物像を成立させたとする説もある。この場合は記紀の成立よりも早い段階、具体的には6世紀末から7世紀初め、聖徳太子と蘇我馬子による天皇記・国記編纂のタイミングであろうか。
ユニークな説として、12世紀に朝鮮半島で成立した「三国史記」に登場する于道朱君という倭人をあてる説がある。倭王の命を受けて新羅を攻め、第1等官位である舒弗邯(じょふつかん)の于老を処刑した話が記載されるが、この于道朱君は「うちすくん」と読めること、暦年研究から彼が活躍した年代が神功皇后の活動年代と同時代と見られることなどから、于道朱君とは「内宿禰」であり、武内宿禰と同人であると見る。
私にとって最も魅力的な考えは、内一族が南九州から進出してきたという説である。この説を唱えているのは九州古代史研究会を主宰しておられる内倉武久氏である。氏は7世紀末まで日本を統一していた九州倭(い)政権が大和政権に滅ぼされたと説き、その九州倭政権の中枢にいたのが南九州を地盤とする内一族(氏はこれを熊襲族とする)であると考え、その内一族(熊襲族)の嫡男であった内宿禰が畿内進出を果たしたとする。また、古くから鹿児島や宮崎南部に残る弥五郎どん祭りの主役である巨大な人形は武内宿禰を表しているとも言われ、この地に武内宿禰伝承が残っている証であるとする。九州倭政権が7世紀末まで日本を支配していたという説には与しないが、南九州を本拠地とする熊襲族が畿内へ進出した、それが内一族であったという考えは大いに参考にしたい。
私は南九州を本拠地とする狗奴国が熊襲あるいは隼人であるとして、その王である神武が東征して畿内に政権を確立したと考えている。そしてその後の政権の中枢にいたのが武内宿禰であり、日本書紀ではその母である影媛は紀直の遠祖である菟道彦の娘、古事記では宇豆比古の妹となっている。記紀の記述に相違はあるが、武内宿禰の母方は菟道彦(宇豆比古)一族で、この菟道彦は神武東征の際に速吸之門(豊予海峡)で水先案内人として合流した珍彦(うずひこ)、別名を椎根津彦と同一人物の可能性が高い。このことから、武内宿禰の母方の一族は九州を本拠地とし、その一部が神武に従って九州からやってきたと考える。「内」と「菟道(うじ)」「宇豆(うず)」「珍(うず)」がつながっているのかもしれない。この考えに内倉説の一部を拝借して加えると、武内宿禰の母方は熊襲出身であり、神武天皇と同族であるということになる。
さて一方の甘美内宿禰についてはどのように考えるか。日本書紀においては讒言で兄を陥れ、最終的には探湯による勝負で兄に負け、殺されそうになったところを天皇の計らいで紀直らの祖に授けられることになった。紀直は紀伊国造(紀国造)につながる氏族で紀伊国名草郡(現在の和歌山市あたり)を本拠地とする。その紀直は武内宿禰の母である影媛の父(古事記では兄)の後裔にあたり、甘美内宿禰は武内宿禰と姻戚関係にある紀直に授けられたのだ。命は助かったものの、その後の処遇は推して知るべし。自業自得ということであろうか。なお、紀直は武内宿禰の子である紀角宿禰から始まる紀氏とは別の氏族である。古事記における甘美内宿禰(味師内宿禰)は「山代内臣の祖」と記されるのみで事績の記載はない。
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「武内宿禰」は一般的には「たけのうちのすくね」と読まれている。記紀には武内宿禰に腹違いの弟(または兄)がいることが記される。書紀では「弟甘美内宿禰」と記されることから弟であることがわかる。応神9年に讒言によって義兄である武内宿禰を排除しようとした人物で、書紀での登場はこの一回のみである。また、古事記では建内宿禰誕生の話の直前に、父の比古布都押之信命が尾張連らの祖である意富那毘の妹の葛城高千那毘売を娶って生まれた子が「味師内宿禰」であり、山代内臣の祖であると記される。ここでは兄とも弟とも記していないが、記述順に従うならば兄ということになる。
武内宿禰(建内宿禰)と甘美内宿禰(味師内宿禰)は腹違いとは言え兄弟であるならば姓は同一と考えられ、それは「内」ということになる。また、記紀がともに記す雁が卵を産む話で、仁徳天皇は武内宿禰に向かって「たまきはる内の朝臣」と呼びかけている。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞であるが、この「内の朝臣」はそのまま「内宿禰」という意味で受け取れよう。そして「武(建)」「甘美(味師)」は美称で前者は「勇敢な、猛々しい」という意味で、後者は「良い、立派な」という意味なので、武内宿禰(建内宿禰)は「勇敢な内氏の宿禰」として「たけし・うちのすくね」と読み、甘美内宿禰(味師内宿禰)は「立派な内氏の宿禰」として「うまし・うちのすくね」と読む、とする考えが広く認められる。このことから、「内」あるいは「内宿禰」に対する様々な考察が試みられている。
本居宣長による「古事記伝」では「内」を大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)と解している。宇智郡は北へ行けば大和の葛城、南へ行けば紀ノ川流域、つまり大和国葛城と紀伊国の境界にあたる場所である。先に「武内宿禰の誕生と終焉」のところで武内宿禰と紀伊のつながりを確認したが、この地は葛城氏と紀氏の始祖である武内宿禰の本拠地としてはいかにもありそうだ。この大和国宇智郡を根拠とした豪族に有至臣(内臣)がいる。日本書紀の欽明天皇紀に登場し、朝鮮半島との外交や軍事に従事した豪族であるが、この有至臣(内臣)と関係があるとも言われる。
また、九州南部(鹿児島・宮崎)に「内」という姓が現在でも多く残っていること、同様に「内」のつく地名も多数あることなどから南九州に「内」の勢力の本拠地があったとし、その勢力が西日本一帯に進出したとする考えもある。
さらに、日本書紀編纂を実質的に主導した藤原不比等の父である中臣鎌足(藤原鎌足)が死の直前に就任した内大臣(内臣)の「内」を指すという考えも提唱されている。理想の参謀役である忠臣に自らの父親を投影させたということだ。この場合は「内宿禰=内大臣(内臣)」と解するのだろう。
これと同様に、蘇我氏が権勢を示すために蘇我馬子をモデルとしてその人物像を成立させたとする説もある。この場合は記紀の成立よりも早い段階、具体的には6世紀末から7世紀初め、聖徳太子と蘇我馬子による天皇記・国記編纂のタイミングであろうか。
ユニークな説として、12世紀に朝鮮半島で成立した「三国史記」に登場する于道朱君という倭人をあてる説がある。倭王の命を受けて新羅を攻め、第1等官位である舒弗邯(じょふつかん)の于老を処刑した話が記載されるが、この于道朱君は「うちすくん」と読めること、暦年研究から彼が活躍した年代が神功皇后の活動年代と同時代と見られることなどから、于道朱君とは「内宿禰」であり、武内宿禰と同人であると見る。
私にとって最も魅力的な考えは、内一族が南九州から進出してきたという説である。この説を唱えているのは九州古代史研究会を主宰しておられる内倉武久氏である。氏は7世紀末まで日本を統一していた九州倭(い)政権が大和政権に滅ぼされたと説き、その九州倭政権の中枢にいたのが南九州を地盤とする内一族(氏はこれを熊襲族とする)であると考え、その内一族(熊襲族)の嫡男であった内宿禰が畿内進出を果たしたとする。また、古くから鹿児島や宮崎南部に残る弥五郎どん祭りの主役である巨大な人形は武内宿禰を表しているとも言われ、この地に武内宿禰伝承が残っている証であるとする。九州倭政権が7世紀末まで日本を支配していたという説には与しないが、南九州を本拠地とする熊襲族が畿内へ進出した、それが内一族であったという考えは大いに参考にしたい。
私は南九州を本拠地とする狗奴国が熊襲あるいは隼人であるとして、その王である神武が東征して畿内に政権を確立したと考えている。そしてその後の政権の中枢にいたのが武内宿禰であり、日本書紀ではその母である影媛は紀直の遠祖である菟道彦の娘、古事記では宇豆比古の妹となっている。記紀の記述に相違はあるが、武内宿禰の母方は菟道彦(宇豆比古)一族で、この菟道彦は神武東征の際に速吸之門(豊予海峡)で水先案内人として合流した珍彦(うずひこ)、別名を椎根津彦と同一人物の可能性が高い。このことから、武内宿禰の母方の一族は九州を本拠地とし、その一部が神武に従って九州からやってきたと考える。「内」と「菟道(うじ)」「宇豆(うず)」「珍(うず)」がつながっているのかもしれない。この考えに内倉説の一部を拝借して加えると、武内宿禰の母方は熊襲出身であり、神武天皇と同族であるということになる。
さて一方の甘美内宿禰についてはどのように考えるか。日本書紀においては讒言で兄を陥れ、最終的には探湯による勝負で兄に負け、殺されそうになったところを天皇の計らいで紀直らの祖に授けられることになった。紀直は紀伊国造(紀国造)につながる氏族で紀伊国名草郡(現在の和歌山市あたり)を本拠地とする。その紀直は武内宿禰の母である影媛の父(古事記では兄)の後裔にあたり、甘美内宿禰は武内宿禰と姻戚関係にある紀直に授けられたのだ。命は助かったものの、その後の処遇は推して知るべし。自業自得ということであろうか。なお、紀直は武内宿禰の子である紀角宿禰から始まる紀氏とは別の氏族である。古事記における甘美内宿禰(味師内宿禰)は「山代内臣の祖」と記されるのみで事績の記載はない。
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