古代日本国成立の物語

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信濃・越後への古代史旅③

2022年09月03日 | 実地踏査・古代史旅
信濃・越後への古代史旅の最終日は、前日夕方からの土砂降りの雨が上がってウソのような快晴の1日となりました。ホテルを7時前に出発してこの日最初の目的地、柳沢遺跡を目指しました。

柳沢遺跡は銅鐸と銅戈が同じところから出土した弥生時代の遺跡で、銅鐸と銅戈の同時出土は全国初です。銅鐸は外縁付鈕式が4点、外縁付鈕式あるいは扁平鈕式古段階が1点の計5点。大きさはいずれも21~22㎝前後で、銅鐸5個は全国6番目の出土数。銅戈は九州型は1点 、近畿型が7点で、九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初。銅鐸・銅戈を合わせた青銅器の出土数としては東日本最大。このように柳沢遺跡はたいへん珍しい弥生遺跡なのです。



場所は長野盆地の北端をさらに北上した新潟県との県境にちかいところ、千曲川と支流である夜間瀬川が合流するところです。千曲川は前日からの雨のために茶色の水が激しい流れを作っていました。また、東側にはちょうど朝陽が昇り切ったばかりの高社山がそびえています。




左の一段高い所が夜間瀬川の堤防で、遺跡はこの堤防に沿って見つかりました。堤防の上にも登ってみました。






すぐ近くから礫床木棺墓も出ました。棺の底に小石を敷き詰める墓制は長野県北部に多いらしく、弥生時代中期では県内最大級の1号墓 (長さ2.8m 、幅2.2m)とそれを囲むように長さ1.5m前後の墓が 17基も見つかっています。この最大の礫床を写真で見ると前日に見た森将軍塚古墳の巨大石室を思い出さずにはおれませんでした。(写真の転載ができないので山田武彦氏が運営するサイトへのリンクを貼らせていただきました)

銅鐸と銅戈はいずれも祭器であり、平時であれば豊穣や勝利を祈るものであったと思いますが、この場所にまとまった数の祭器が埋められた理由はふたつ考えられます。ひとつは千曲川の氾濫です。千曲川の氾濫はこの付近のムラを壊滅させることになるため、通常の祈りではどうすることもできないほどの豪雨や台風によってその危険性が最大限に高まった時、豪雨を鎮め、暴れる川をなだめる最終手段として、氾濫の恐れが最も高いこの合流地点にムラの首長たちが祭器を持って集まり、皆で祈りながら川辺に埋めたのではないでしょうか。

もう一つの可能性は、神奈備山と考えて間違いないであろう背後にそびえる高社山です。自然崇拝、精霊崇拝に基づく祭祀形態が弥生中期から後期になるとムラを治める首長や首長の祖先を祀る首長霊祭祀、祖霊祭祀に移行していき、それまで使っていた古い祭器が不要になります。それぞれのムラで大事に取り扱ってきた重要な祭器を破壊や廃棄するわけにはいかず、きちんと埋納するために選ばれ場所が高社山のふもとであるこの場所でした。ほぼ同じ頃に各地で銅鐸が埋納されたことがわかっています。

柳沢遺跡のあとは日本海を目指して北上します。途中、越後国一之宮の居多神社(こたじんじゃ)を訪ねました。祭神は大国主命、奴奈川姫(沼河比売)、建御名方命の三柱ですが、Wikipediaでは事代主命が加わって四柱となっています。奴奈川姫は大国主の姫神、建御名方命と事代主命は二人の御子神です。居多神社は「気多神」を祀る神社と考えられており、この気多神は出雲の人々に信奉された神とされ、『古事記』での大国主命による高志国(越国)の奴奈川姫命への妻問い説話と同様に、気多神の分布は出雲勢力の北陸地方への進出を物語ると考えられています。  





越中国一之宮は気多神社で祭神は大己貴命 と奴奈加波比売命 。能登国一之宮は気多大社で祭神は大己貴命。いずれも大国主命と同一神とされる大己貴命が祀られます。居多神社も同様で、出雲とのつながりを示すように社標には「出雲大社宮司千家尊祀敬書」の文字が刻まれています。また、社殿は大社造りを思い出すような切妻造りの妻入りの方式でした。




社殿は新しく建て替えられたばかりのようでしたが、広い境内にポツンと建っている印象。資金が足りないので寄付を募っていることを示す案内板がありました。一之宮といえど神社経営は大変なんだなと思いました。

この後は一路、ヒスイ海岸を目指します。ヒスイ探しの時間をできるだけ確保したいと思って朝の出発を早めたのですが、それが奏功して駐車場は残り1台分という幸運に恵まれました。波に濡れながら探し求めること1時間、ここでのヒスイ探しは2回目なので難しいことはわかっていたのですが、、、



採取した石を鑑定してもらうべく、午後からフォッサマグナミュージアムに行くことにしていたので、それまでの時間に訪ねたのが天津・奴奈川神社。同じ境内に天津神社と奴奈川神社の本殿が並んでいて、拝殿を共有するという珍しい神社です。しかも、天津神社の祭神は天津彦々火瓊々杵尊 、天児屋根命、太玉命 の三柱で伊勢神宮外宮相殿と同じ祭神で、奴奈川神社の祭神は奴奈川姫命で後年に八千矛命が合祀されました。つまり、天孫系(天津神)と出雲系(国津神)が同じところに並んで祀られていることになり、その意味からも珍しい神社だと思います。






神社由緒によると、天津神社は第12代景行天皇のときの創建、奴奈川神社は鎌倉時代以降に別のところから当地に遷座されたとのことなので、もともとは天津神を祀る神社だったということになります。



石の鑑定まであまり時間がなかったのですが、糸魚川ご当地グルメのブラック焼きそばを食べようと、糸魚川駅に近いところにあるレストラン「ブォーノ」でランチを取りました。見た目はイタリアン、味は焼きそば、と言う感じでなかなかの美味でした。



いよいよフォッサマグナミュージアムへ向かいます。鑑定希望者が多い場合は抽選と聞いていたのですが、この日は3連休ということもあって多くの子供たちが集まっていたためミュージアム側が気を利かせて鑑定は全員を対象にしてくれて、鑑定時間だけの抽選となりました。時間を待つ間はミュージアムを見学して有意義に過ごすことができました。




いよいよ鑑定です。ひとり5個づつ、3人で15個の石をみてもらいました。結果は写真の通りで、ヒスイはゼロでした。少しだけ期待したのですが、残念な結果に。



まあ、こんなもんだろうとも思っていたのですぐに諦めをつけて、残り少ない時間で近くの長者ヶ原考古館を見学しました。徒歩で10分ほどのところにある長者ヶ原遺跡にも行けたのですが、私は一度来ていることがあったのと、暑さと疲れのためにあまり歩きたくないという気持ちが働き、皆の意見が一致して遺跡見学はパスすることにしました。(以前に来た時に撮った遺跡の写真を載せておきます。)











糸魚川と言えばヒスイとフォッサマグナ。ヒスイの次はフォッサマグナの露頭を見ることができるフォッサマグナパークに向かいました。ヒスイを手にできなかった悔しさを癒そうと二人の先輩は途中でヒスイを販売しているお店に寄ってお土産に買っていました。

姫川沿いの国道を10分ほど走ると到着、駐車場に車を停めて徒歩10分。わざわざ来てよかったと思える場所でした。





大糸線の鉄橋を渡る列車を見ることもできました。しかも1日に3回しかないという上りと下りが行きかう列車をみることができのは幸運でした。




さて、以上で今回のツアーの予定は全て終了です。あとは糸魚川駅でレンタカーを返却して、それぞれの自宅に帰るだけ。時刻は午後4時。新幹線まで1時間半ほどあったので、糸魚川駅前で反省会と思ってお店を探すのですが、居酒屋は数えるほどしかなく、どこも開いていません。あちこち歩きまわってようやく見つけたのが「松ちゃん」という居酒屋。お酒を飲みながらヒスイの話で盛り上がっていると、お店の御主人が会話に入ってきました。なんとこの御主人、ヒスイ採りの名人でした。いろいろとお話を伺い、ご自身で採取されたヒスイをたくさん見せていただくうちに、なんとしてももう一度来よう、ということになりました。



とにかく無事に終われて何より。次回のヒスイ採りは来春の予定です。お楽しみに。



(おわり)








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