古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆連立方程式と仮説

2016年09月16日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここまで主に魏志倭人伝の記述内容と考古学の視点から弥生時代の日本列島西半分の状況を見てきた。簡単に振り返ってみる。

 弥生時代中期、日本列島は魏と朝貢関係にある朝鮮半島系の国々と、むしろ呉とのつながりが想定される大陸江南系の国々が各地に盤踞していた。2世紀後半、これらの国々が互いに争う内乱が勃発した。前者の国々は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立することで同盟関係を構築して連合国家である倭国を形成し、中国魏との朝貢関係を背景に大和から山陰、北九州に及ぶ大きな勢力を誇った。一方で後者の国々は狗奴国を盟主とする同盟関係を構築し、製鉄や稲作など当時の先端技術をもって勢力拡大をはかった。弥生時代後期、この状況下において、狗奴国連合と邪馬台国連合は九州を舞台に一戦を交えることになった。この九州での戦いは兵器生産能力に勝る狗奴国がほぼ勝利を収めることとなり、この結果は卑弥呼を死に至らしめた。

 この話はいわば中国史書による文献史学と考古学の二元連立方程式を私なりに解いた結果である。つまり両者の整合をとりながらできるだけ合理的な説明を考えた結果である。

 さて、弥生時代後期のこの状況を日本側の史書である日本書紀と照らし合わせるとどうなるか。二元連立方程式に日本書紀など日本の文献という変数を加えた三元連立方程式を解かねばならない。古代日本における大和政権はどのようにして誕生したのか、さらに考えを進めていくことにするが、この段階においてなお物語の結末は見えていない。したがって変数が増えたことでこれまで出した解が変わる可能性があり、そのことはご容赦願いたい。このあと、日本書紀を順に見ていくのであるが、その前提として現時点で考えている仮説を記しておきたい。

 倭国大乱の中、狗奴国は男王卑弥弓呼が自ら指揮を執って南九州を出発、海路にて瀬戸内海を東進し、各地の国々と同盟を結びながら倭国の本丸に攻め入った。同盟関係になった国は「宇佐」「安芸」「吉備」「紀伊」などである。そして瀬戸内海の東端にある淡路島を抜けて大阪湾から畿内へ進出、紀伊の力を借りながら大和へ侵入した。奈良盆地の中央部には邪馬台国が建国される以前から栄えていた国があった。丹後から進出してきた一族の国である。狗奴国東征軍はこの国を制圧したのち、奈良盆地の南部に拠点をおき、女王卑弥呼がいる奈良盆地東南部の邪馬台国と対峙することとなった。九州の狗奴国本体は北九州倭国に勝利し、その勢いで東征軍は大和において卑弥呼を死に追いやった。卑弥呼の死後、男王が立ったが倭国の国々は承服せず国中が混乱に陥る。そして卑弥呼の宗女である台与を王として反撃に出るも形勢逆転には至らず、大和には九州から来た狗奴国と邪馬台国が睨み合う時代がしばらく続いた。
 九州から大和に遷った狗奴国の王である卑弥弓呼こそが日本書紀にある神日本磐余彦尊、つまり神武天皇であった。神武は倭人伝に登場していたのだ。さらに卑弥呼の死後に立った邪馬台国の男王は崇神天皇であった。邪馬台国は崇神天皇が出雲から進出して築いた国であり、崇神もまた倭人伝に登場していた。さらに、神武天皇が先に制圧した大和の国は丹後から来た饒速日命の国であった。神武は饒速日命を制圧した後に大和(=日本)の王を名乗った。一方で崇神も倭国の王であった。

 「天皇」という称号や「神武」「崇神」という天皇の諡号はこの時代には使われていなかったが、ここからは話をわかりやすくするためにこれらの用語を用いたい。また、ここから先は日本書紀をベースに物語を展開するが、記述を簡略化するために「書紀」と記すことにする。



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