前方後円墳について考え始めてから半月が経過しました。あれこれと調べたり本を読んだりしているところですが、現時点では「壺形古墳説」に興味があります。このあたりで思考の途中経過を書いてみます。
弥生時代後期後半の3世紀以降、国内各地において前方後円形の墳墓が造営されるようになります。築造時期が4世紀に下らないことがほぼ確実なものとして、
千葉県市原市の神門5号墳(3世紀前半または中葉)
神奈川県海老名市の秋葉山3号墳(3世紀後半)
静岡県沼津市の高尾山古墳(3世紀前半から半ば)
京都府木津川市の椿井大塚山古墳(3世紀末)
奈良県桜井市にある纒向石塚古墳(3世紀前半または中頃)・纒向矢塚古墳(3世紀中頃より以前)・纒向勝山古墳(3世紀前半から後半)・箸墓古墳(3世紀中頃から後期)
兵庫県姫路市の山戸4号墳(3世紀前半)
岡山県岡山市の矢藤治山古墳(3世紀半ば)・浦間茶臼山古墳(3世紀末)
徳島県鳴門市の萩原2号墓(3世紀前葉)
愛媛県西条市の大久保1号墳(3世紀前半)
福岡県福岡市の那珂八幡古墳(3世紀中葉)
大分県宇佐市の赤塚古墳(3世紀末)
などがあります。カッコ内の築造時期はネットで調べうる範囲で、調査報告書や教育委員会など公的機関の情報をもとにした時期を入れています。
各墳墓の築造時期を早い方で見ると3世紀前半において、千葉県、静岡県、奈良県、兵庫県、徳島県、愛媛県の各地に前方後円形墳墓が築造され、さらに3世紀中頃になるとここに岡山県や福岡県が加わります。つまり、誕生からわずか半世紀ほどの間に関東から北部九州にわたる広い範囲で前方後円形墳墓あるいは前方後円墳が築かれたということになります。
一方、中国史書から窺える弥生時代後期の日本の状況は以下の通りです。2世紀後半、後漢書によると桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)に起こった倭国大乱を収めるために女王卑弥呼が共立されました。190年頃と考えて差し支えないと思います。さらに魏志倭人伝には、正始8年(247年)に倭国が狗奴国と戦闘状態に入ったことを報告したあと、卑弥呼が死去したことが記されます。250年頃のことでしょうか。倭人伝によると、卑弥呼は鬼道を用いてよく衆を惑わした(事鬼道能惑衆)とあります。倭国大乱に参戦した各クニは戦争を終息させるために鬼道を用いる卑弥呼を共通の王として担いで連合国家を形成した、ということだと思います。
このふたつの事実は、前方後円墳は卑弥呼の治政のときに誕生して各地に広まった、ということを物語っていて、卑弥呼と前方後円墳に何らかの関係性を認めることに一定の合理性があるように思うのです。つまり、卑弥呼が女王になったことがきっかけで前方後円墳が誕生したのではないかということです。
倭国大乱を収めるために共立された卑弥呼は王として相応しい人物であった。卑弥呼が王であれば互いに争うことなく、まとまることができる。共立に参画した各クニの首長は皆がそう考えたはずです。卑弥呼を王とした認めた理由はいったい何だったのでしょうか。
さて、ここから先に思考を進めるうえで押さえておくべきこと、すなわち卑弥呼と前方後円墳の関係性を考えるにあたっての前提がひとつあります。それは、3世紀前半の時点で少なくとも愛媛県や徳島県、兵庫県姫路市など瀬戸内海沿岸に前方後円形墳墓が登場していることから、倭国の範囲は九州エリアにとどまらず、少なくとも西日本一帯を視野に入れて考える必要があるということです。
話を卑弥呼に戻すと、卑弥呼が王として認められた理由は魏志倭人伝の卑弥呼の素性が書かれた次の文(青字部分)から探すほかはないと思われます。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
卑弥呼の人物像として「事鬼道能惑衆」「年已長大」「無夫婿」「有男弟」「以婢千人自侍」などが書かれていますが、注目すべきはやはり「事鬼道能惑衆」ですね。卑弥呼は「鬼道」によって倭国を統治したと考えられます。つまり卑弥呼を共立した各クニの首長は卑弥呼の「鬼道」による統治を望んだのです。「鬼道」こそが倭国をまとめる最善の方法であるとの考えで一致したのです。
卑弥呼の鬼道とはどういうものだったのでしょうか。よく言われるように道教のことを指すのでしょうか。今は思考が行ったり来たりしているところなので、今回はこのあたりにしておきます。
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弥生時代後期後半の3世紀以降、国内各地において前方後円形の墳墓が造営されるようになります。築造時期が4世紀に下らないことがほぼ確実なものとして、
千葉県市原市の神門5号墳(3世紀前半または中葉)
神奈川県海老名市の秋葉山3号墳(3世紀後半)
静岡県沼津市の高尾山古墳(3世紀前半から半ば)
京都府木津川市の椿井大塚山古墳(3世紀末)
奈良県桜井市にある纒向石塚古墳(3世紀前半または中頃)・纒向矢塚古墳(3世紀中頃より以前)・纒向勝山古墳(3世紀前半から後半)・箸墓古墳(3世紀中頃から後期)
兵庫県姫路市の山戸4号墳(3世紀前半)
岡山県岡山市の矢藤治山古墳(3世紀半ば)・浦間茶臼山古墳(3世紀末)
徳島県鳴門市の萩原2号墓(3世紀前葉)
愛媛県西条市の大久保1号墳(3世紀前半)
福岡県福岡市の那珂八幡古墳(3世紀中葉)
大分県宇佐市の赤塚古墳(3世紀末)
などがあります。カッコ内の築造時期はネットで調べうる範囲で、調査報告書や教育委員会など公的機関の情報をもとにした時期を入れています。
各墳墓の築造時期を早い方で見ると3世紀前半において、千葉県、静岡県、奈良県、兵庫県、徳島県、愛媛県の各地に前方後円形墳墓が築造され、さらに3世紀中頃になるとここに岡山県や福岡県が加わります。つまり、誕生からわずか半世紀ほどの間に関東から北部九州にわたる広い範囲で前方後円形墳墓あるいは前方後円墳が築かれたということになります。
一方、中国史書から窺える弥生時代後期の日本の状況は以下の通りです。2世紀後半、後漢書によると桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)に起こった倭国大乱を収めるために女王卑弥呼が共立されました。190年頃と考えて差し支えないと思います。さらに魏志倭人伝には、正始8年(247年)に倭国が狗奴国と戦闘状態に入ったことを報告したあと、卑弥呼が死去したことが記されます。250年頃のことでしょうか。倭人伝によると、卑弥呼は鬼道を用いてよく衆を惑わした(事鬼道能惑衆)とあります。倭国大乱に参戦した各クニは戦争を終息させるために鬼道を用いる卑弥呼を共通の王として担いで連合国家を形成した、ということだと思います。
このふたつの事実は、前方後円墳は卑弥呼の治政のときに誕生して各地に広まった、ということを物語っていて、卑弥呼と前方後円墳に何らかの関係性を認めることに一定の合理性があるように思うのです。つまり、卑弥呼が女王になったことがきっかけで前方後円墳が誕生したのではないかということです。
倭国大乱を収めるために共立された卑弥呼は王として相応しい人物であった。卑弥呼が王であれば互いに争うことなく、まとまることができる。共立に参画した各クニの首長は皆がそう考えたはずです。卑弥呼を王とした認めた理由はいったい何だったのでしょうか。
さて、ここから先に思考を進めるうえで押さえておくべきこと、すなわち卑弥呼と前方後円墳の関係性を考えるにあたっての前提がひとつあります。それは、3世紀前半の時点で少なくとも愛媛県や徳島県、兵庫県姫路市など瀬戸内海沿岸に前方後円形墳墓が登場していることから、倭国の範囲は九州エリアにとどまらず、少なくとも西日本一帯を視野に入れて考える必要があるということです。
話を卑弥呼に戻すと、卑弥呼が王として認められた理由は魏志倭人伝の卑弥呼の素性が書かれた次の文(青字部分)から探すほかはないと思われます。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
卑弥呼の人物像として「事鬼道能惑衆」「年已長大」「無夫婿」「有男弟」「以婢千人自侍」などが書かれていますが、注目すべきはやはり「事鬼道能惑衆」ですね。卑弥呼は「鬼道」によって倭国を統治したと考えられます。つまり卑弥呼を共立した各クニの首長は卑弥呼の「鬼道」による統治を望んだのです。「鬼道」こそが倭国をまとめる最善の方法であるとの考えで一致したのです。
卑弥呼の鬼道とはどういうものだったのでしょうか。よく言われるように道教のことを指すのでしょうか。今は思考が行ったり来たりしているところなので、今回はこのあたりにしておきます。
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