古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆中国江南とつながる南九州

2016年08月23日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 北部九州や山陰を中心とする倭国が中国華北とつながっていたことは先に書いた。それに対して南部九州は中国江南と深くつながっていたと言ってもいいだろう。南部九州と江南の関係についてもう少し見ていく。

■免田式土器
 熊本県を中心に九州中南部の各地で出土する「免田式土器」という弥生式土器がある。大正7年(1918年)、熊本県の人吉盆地中央部、球磨郡免田町で畑を水田にする地下げ工事中に多くの重孤文土器が出土した。その地名から免田式土器と呼ばれているが、人吉盆地は球磨の中枢、のちの熊襲の地であることから「熊襲の土器」とも呼ばれた。この土器は全国150ヶ所で発掘されているが、熊本県はそのうち95ヶ所を占める。特に球磨・人吉では30ヶ所を数え、免田式土器の本場であることが推定される。
 形状は、胴部はそろばん玉の形、やや開き気味に上にのびた長頸をもち、胴部の上半に重弧文や鋸歯紋などが描かれている。弥生時代後期から古墳時代初期のものとされ、その優美なシルエットは気品に溢れ、最も秀逸な弥生式土器と呼ばれた。その洗練された技術は中国の銅ふく(煮炊き用の鍋のような器具)を模倣したものとして、その起源は大陸にあるともいわれる。免田式土器は沖縄などでも出土していることから、東シナ海を通じた中国江南地方とのつながりを想起させる。

■才園古墳
 免田式土器が発見されたのと同じ免田町内で1938年、公民館の建設中に6世紀初めの「才園(さいぞん)古墳」が発見された。この古墳の横穴式石室から刀剣、馬具、鋏、玉類とともに舶載の流金鏡が出土した。43文字の銘文が刻まれた神獣鏡であった。「流金」とは金メッキが施されたもので、流金鏡の出土例は日本では福岡と岐阜を加えて僅か3例しかなく、精緻な画文帯神獣鏡はこの鏡のみであった。そしてこの鏡が3世紀頃の中国の江南地方で鋳造されたものであるとされた。免田式土器が発掘された同じ地域に流金鏡を伝えた民は江南からの渡来民であった可能性が高いと言えよう。

■呉の太伯
 熊襲の曽於の地と考えられる鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)に、もと官幣大社で大隅国一之宮の鹿児島神宮がある。主祭神は海幸山幸の弟の方であり神武天皇の祖父にあたる山幸彦の天津日高彦穂々出見尊(あまつひたかひこほほでみのみこと)であるが、相殿神として「句呉」の祖である太伯を祀る。句呉はのちに国名を呉と改めるが、現在の中国蘇州周辺を支配した春秋時代の国の1つであり、鹿児島神宮はこの句呉を建国した太伯を祀る国内で唯一の神社である。
 また、宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて死後に葬られたという伝承がある。その場所は宮崎県北部の東臼杵群諸塚村と西臼杵郡高千穂町の境界。古くから神山として信仰の対象となっていた山で、山頂に塚がたくさんあることから「諸塚山」と呼ばれ、さらに太伯の伝承から「太伯山(だいはくさん)」とも呼ばれている。
 句呉は紀元前12世紀の建国から紀元前473年まで続き、夫差王のときに越の勾践により滅ぼされ、さらに北方の漢民族に追われて人民は海に逃れたとされる。彼らは南九州に漂着して生き残り、その後、南九州の地で縄文の民と融合して弥生人となっていった。その民族としての記憶が鹿児島に祖国の建国の王を祀り、宮崎にその生死の伝承を残させた、と言えよう。
   
■九州中南部にあった狗奴国
 さらに想像を逞しくしてみよう。句呉の人である句人を狗人と考えて日本書紀の海幸山幸のくだりの一書(第二)をみると、兄の海幸彦は俳人(わざひと)として弟の山幸彦に仕えることになったとあり、この俳人は別伝によると狗人(いぬひと)であるとされている。それで海幸彦である火闌降命(ほすそりのみこと)の後裔である隼人たちは今に至るまで天皇の宮垣のそばを離れないで吠える犬の役で警護の任にあたっているという。このことから、江南の呉(句呉)から渡来した集団(句人=狗人)の後裔が隼人であると考えることができるのではないか。さらに「狗」の字から類推することで、この渡来集団による国(狗人の国)が魏志倭人伝にある狗奴国であり、狗奴国は隼人の祖先の国であったと考えることはできないだろうか。
 そして、筑紫(九州)の国にあって大和政権に服従しない熊襲と呼ばれていた民が後に制圧されて隼人と呼ばれるようになったと考えると、中国江南の呉(句呉)に由来する狗奴国は熊襲の国であったとも言えよう。つまり、熊襲・隼人が居住していたと言われる球磨や曽於を中心とする九州中南部の地がまさに狗奴国であったと考えることができる。逆に言うと、九州中南部にあった狗奴国は中国江南の流れを汲む国であった。

 狗奴国が熊襲の国であることについては内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らの先人が既に説いている。また、森浩一は考古学の視点から、免田式土器は熊襲文化圏によって生み出されたものではないかと考察している。



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