2017年8月18日、紀伊半島半周ツアーの最後の訪問地は日前神宮(ひのくまじんぐう)と國懸神宮(くにかかすじんぐう)。2つの神社が1つの境内にあり、いずれも紀伊国一之宮である。
神社に到着したのが16時50分。参拝は17時までとされ、まもなく閉めるのでもう入らないで、という感じ。
ちなみに上の正面からの写真は参拝後に撮ったために柵が閉められています。
入口からの参道が突き当たったところ。向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。
10分で参拝しなければならないので境内を駆け足。
まずは日前神宮。拝殿と本殿。
主祭神は日前大神で日像鏡(ひがたのかがみ)をご神体とする。相殿神として思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀る。
次に國懸神宮の拝殿と本殿。
主祭神は國懸大神で日矛鏡(ひぼこのかがみ)をご神体とする。相殿神として玉祖命(たまのやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うづめのみこと)を祀る。
以下に神社公式サイトから由緒の一部を転載(一部修正)します。
神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
1つ目の文章はたしかに日本書紀神代巻第七段の一書に、天岩屋に閉じこもった天照大神を引き出すために思兼神が「天照大神の形を映すものを造って招き出そう」と考え「以石凝姥爲冶工採天香山之金以作日矛(中略)是卽紀伊國所坐日前神也」と記されているのですが、第2・第3の文にあるようなことは書紀に記述がない。第2の文章は古語拾遺に「於是從思兼神議令石凝姥神鑄日像之鏡初度所鑄少不合意(是紀伊國日前神也)」とあるので、ここからの引用かと思う。そして第3の文章はどうやら先代旧事本紀や紀伊続風土記、紀伊国造系図によるものと思われる。
古来、この地を治めていた紀氏一族は日前神宮・國懸神宮の祭祀も担っていた。その紀氏が自らの伝承と記紀を結び付けて一族の由緒、両神宮の由緒として語り継いできたのであろう。順序としては、紀氏の伝承を書紀が一書として取り入れ、古語拾遺や先代旧事本紀がそれに編集を加えた。紀氏はこれらをもとに自らの伝承を盛ることにした。それが紀伊続風土記や紀伊国造系図に反映され、そして現在の由緒ができあがった。あくまで私の想像です。
Wikipediaによると両神宮は以下のように丁重な扱いを受けています。それにも関わらず、その由緒が記紀の記述をベースに構成されていないことに大きな違和感を抱いてしまいます。
ご神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされている。八咫鏡は伊勢神宮で天照大神のご神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ、準皇祖神の扱いをうけていたという。日神(天照大神)に対する日前神という名称からも特別な神であると考えられ、また、伊勢が大和への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたともいわれている。また、日前神宮のご祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。
もう少し踏み込んで調べてみたい。
神社に到着したのが16時50分。参拝は17時までとされ、まもなく閉めるのでもう入らないで、という感じ。
ちなみに上の正面からの写真は参拝後に撮ったために柵が閉められています。
入口からの参道が突き当たったところ。向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。
10分で参拝しなければならないので境内を駆け足。
まずは日前神宮。拝殿と本殿。
主祭神は日前大神で日像鏡(ひがたのかがみ)をご神体とする。相殿神として思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀る。
次に國懸神宮の拝殿と本殿。
主祭神は國懸大神で日矛鏡(ひぼこのかがみ)をご神体とする。相殿神として玉祖命(たまのやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うづめのみこと)を祀る。
以下に神社公式サイトから由緒の一部を転載(一部修正)します。
神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
1つ目の文章はたしかに日本書紀神代巻第七段の一書に、天岩屋に閉じこもった天照大神を引き出すために思兼神が「天照大神の形を映すものを造って招き出そう」と考え「以石凝姥爲冶工採天香山之金以作日矛(中略)是卽紀伊國所坐日前神也」と記されているのですが、第2・第3の文にあるようなことは書紀に記述がない。第2の文章は古語拾遺に「於是從思兼神議令石凝姥神鑄日像之鏡初度所鑄少不合意(是紀伊國日前神也)」とあるので、ここからの引用かと思う。そして第3の文章はどうやら先代旧事本紀や紀伊続風土記、紀伊国造系図によるものと思われる。
古来、この地を治めていた紀氏一族は日前神宮・國懸神宮の祭祀も担っていた。その紀氏が自らの伝承と記紀を結び付けて一族の由緒、両神宮の由緒として語り継いできたのであろう。順序としては、紀氏の伝承を書紀が一書として取り入れ、古語拾遺や先代旧事本紀がそれに編集を加えた。紀氏はこれらをもとに自らの伝承を盛ることにした。それが紀伊続風土記や紀伊国造系図に反映され、そして現在の由緒ができあがった。あくまで私の想像です。
Wikipediaによると両神宮は以下のように丁重な扱いを受けています。それにも関わらず、その由緒が記紀の記述をベースに構成されていないことに大きな違和感を抱いてしまいます。
ご神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされている。八咫鏡は伊勢神宮で天照大神のご神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ、準皇祖神の扱いをうけていたという。日神(天照大神)に対する日前神という名称からも特別な神であると考えられ、また、伊勢が大和への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたともいわれている。また、日前神宮のご祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。
もう少し踏み込んで調べてみたい。
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