古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

丹生川上神社上社

2021年01月24日 | 神社・仏閣
2021年1月4日、自粛を続けた年末年始の最終日、あまりにも穏やかな一日だったのでのんびりした一日を過ごそうと、車で奥吉野にあるホテル杉の湯の日帰り入浴に出かけました。自宅のある富田林を出て水越峠を越え(水越トンネルを抜け)、葛城最大の室宮山古墳を右手に見ながら吉野を目指します。

途中、吉野川の大滝ダムに立ち寄りました。吉野川は奈良県一帯に上水を供給する奈良県民にとって貴重な水資源です。そしてこの大滝ダムは住民の激しい反対運動が続き、長期化ダム事業の代表例として「東の八ツ場、西の大滝」という言葉も生まれたそうです。

大滝ダムから杉の湯まではすぐそこです。そして丹生川上神社上社は杉の湯の向かい側の山の中腹にあるので、先に参拝することにしました。この神社はダム建設によって湖底に沈むために1998年、現在の地に遷座させられました。祭神が高龗神(たかおかみのかみ)といい、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれた神様で、京都の貴船神社の祭神でもあります。相殿神として大山祇神と大雷神が祀られています。









丹生川上神社にはこの上社のほか、中社、下社があって、明治以来の論争が興味深い。以下、Wikipediaからの転載です。

明治初年までは高龗神社という小規模な祠で、その由緒も不詳であるが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により宮の平遺跡が発見され、本殿跡の真下から平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡と見られる、立石を伴う環状配石遺構が出土したため、途中奈良・古墳時代にかけての断絶が認められるものの、当神社の祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきた。

明治6年(1873年)に郷社に列したが、当時の官幣大社丹生川上神社(現在の下社)少宮司江藤正澄が、下社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所収)に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して当神社を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を下社所轄の神社とするとともに、下社を「口の宮」、当神社を「奥の宮」と称した。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に「口の宮」を「丹生川上下社」、当神社を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となった。

だが、大正(1915)4年 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、「蟻通神社(現丹生川上神社・中社)=丹生川上社説」を唱え、これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。その際、上社の祭神は罔象女神から郷社時代と同じ高龗神に再び戻された。


遷座の際に見つかった平安時代の祭祀場跡が移転、復元されています。











近いうちに中社、下社も訪ねてみたいと思います。


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