書紀では饒速日命が降臨した場所が具体的に記述されず、東の美し国に飛び降りたとあるだけである。本紀では先述の通り河内国の河上の哮峯に天降ったとなっている。一方、勘注系図では降臨した場所やその後の移動が詳しく記されているので順に見てみよう。ただし、勘注系図において火明命となっているのは本来は饒速日命であるので読み替える。
饒速日命は高天原で大己貴神の娘の天道日女命(あめのみちひめ)を娶って天香語山命が生まれた。その後、天に昇って御祖のもとに行ったのち、丹後国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に降りた。さらにその後、天祖より2つの神宝とともに受けた命により高天原から丹波国の凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)に降りた。それから由良之水門(ゆらのみなと)に遷った時に子の香語山命に神宝の1つを分け与え、さらに天磐船に乗って虚空に登り、凡河内国に降りた。そのあと大和国鳥見白辻山に遷って、登美屋彦の妹の登美屋姫を娶って可美真手命が生まれる。その後、再び天に昇って丹波国に遷って凡海息津嶋に留まる。そして高天原で娶った佐手依姫命とともに養老三年に籠宮に天降った。
移動経路を整理すると「高天原→丹後国の伊去奈子嶽→高天原→丹波国の凡海息津嶋→由良之水門→凡河内国→大和国鳥見白辻山→丹波国の凡海息津嶋→籠宮」となる。高天原の地は瓊々杵尊の出発地と同様に日本列島以外の地を指すと考える。そして書紀は饒速日命が天神であることを明かしているので、その出発地は瓊々杵尊同様に中国江南の地であったと考える。江南を出て東シナ海を渡って南九州の薩摩半島に漂着したのが瓊々杵尊で、対馬海流に乗って日本海に入り、丹後の地に漂着したのが饒速日命である。古事記における饒速日命の登場シーンで「天津神の御子である瓊々杵尊が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た」と記しているのは、その出発地が同じであったことの表れであろう。そして饒速日命が漂着(降臨)したところが丹後の凡海息津嶋(京都府舞鶴市の若狭湾内にある冠島)であった。最初に伊去奈子嶽(京丹後市、兵庫県との県境近くの磯砂山か)に降臨したように記述しているのは、まさに瓊々杵尊が薩摩半島に漂着したことを日向の高千穂の峯に降臨したと記述するする記紀と同じ設定である。
その次の由良之水門であるが、現在の由良川河口あたりと考えるのが妥当であろう。ここには湊十二社という神社があり由緒は不明であるが、江戸時代には北前船の基地にもなっており、古くから航海の安全を祈願する神社で、今でも船の模型が数多く奉納されている。また、由良川を上れば福知山や綾部へとつながっており、この地は海運のみならず由良川を利用した内陸部への輸送路の基地にもなっていたと考えられる。由良川は福知山から綾部につながるが、福知山から分岐する土師川、さらには竹田川を上ると兵庫県丹波市氷上町の石生(いそう)に至るが、ここは本州で最も低い分水嶺にあたり標高は95mしかない。石生を越えれば加古川となって瀬戸内海へ出ることができる。饒速日命はこのルートを経由して難波の河内湖から河内国に入ったと考えられる。
本紀には河内国の河上の哮峯に降りたとある。この「哮峯」は2通りの読み方がされており、1つは「たけるがみね」、もう1つは「いかるがみね」である。比定地としては「天の磐船」と呼ばれる巨石がご神体となっている大阪府交野市私市にある磐船神社、あるいは731年成立の「住吉大社神代記」にも記される生駒山北嶺の饒速日山など、いずれも神武が長髄彦と初戦を交えた孔舍衞坂からほど近いところであり、このあたりは長髄彦の勢力地ともされている。さらには次の降臨地である大和国鳥見白辻山は現在の奈良県生駒市白庭台あたりとされ、まさに長髄彦の本貫地と考えられるところである。私はここに少なからず違和感を覚える。長髄彦は神武がこの地で一敗地にまみれ、兄の五瀬命を失うほど苦汁を飲んだ相手であるにも関わらず、饒速日命はいきなり長髄彦の勢力範囲に乗り込み、戦闘の形跡すらない中で長髄彦を従えることに成功したことになる。相当な財物を提供して和議に持ち込んだのであろうか。それとも、饒速日命の河内への降臨地は本当に磐船神社あるいは饒速日山のあたりだったのだろうか。
書紀にある通り饒速日命は物部氏の祖で、その物部氏の本貫は現在の大阪府八尾市渋川町あたりである。現在の大阪府では河内を北・中・南の3地区に分けて呼ぶことがあるが、交野は北河内、八尾は中河内に属していて別の地区として扱われる。物部氏が中河内の八尾市を本貫としているのは祖先がその地に留まって勢力を蓄え、繁栄を築いてきたからであろう。そう考えると祖先である饒速日命は難波から河内湖に入って南下し、現在の八尾あたりで上陸して拠点をおいた、とするのが妥当ではないだろうか。
私は「哮峯」を「いかるがみね」と読みたい。饒速日命が上陸した八尾のあたりで峯に該当する山を探せば、八尾市渋川あたりからほぼ真東に高安山が見える。高安山は大阪府と奈良県との境に位置する標高488mの山で生駒山地の南端で最も高い山である。7世紀後半、白村江で唐・新羅軍に敗れたあと、大和国防衛の拠点として高安城が築かれている。そして八尾から大和川を少し遡って大和に入ったところが現在の奈良県生駒郡斑鳩町である。この斑鳩からはほぼ真西に信貴山が見える。信貴山は高安山のすぐ東にある標高437mの山である。その名は聖徳太子が物部守屋を攻めたときにこの山で毘沙門天が現れ、太子が「信ずべし貴ぶべし」といったことに由来すると伝わる。古来より霊験ある山と崇められてきたことによる逸話と言えよう。この斑鳩の地名は「哮峯」に由来すると考えるのは想像が過ぎるだろうか。
大和川をさらに遡って奈良盆地の中心部に入ると弥生時代の環濠集落である唐古・鍵遺跡がある。唐古・鍵遺跡については後で詳しく触れるが、奈良盆地の代表的な弥生時代の遺跡で弥生中期に最盛期を迎えた。大型建物や楼閣、木製品や石器の工房、銅鐸などの青銅器鋳造設備に加え、吉備や紀伊、伊勢、尾張など各地の土器が出土するなど、非常に先進性を備えた集落であった。また、弥生時代前期末のものと考えられる木棺墓からは渡来系弥生人の人骨が検出されている。饒速日命は河内に本拠を置きながらも、四方を青い山に囲まれた大和の地を「美し国」として統治する野望を抱き、ここを拠点に大陸から持ち込んだ高度な技術を背景に勢力を整え、時間をかけて長髄彦をはじめとする周囲の土着民を取り込んでいったと考えたい。
とはいえ勘注系図では凡河内国の次は大和国鳥見白辻山へ遷ったことになっている。この鳥見白辻山こそ長髄彦の本拠地であり、現在の生駒山の東麓、奈良盆地の北西部一帯であると言われるが、饒速日命がここに移り住んだわけではないだろう。長髄彦を取り込んだことで自身の勢力範囲をそこまで広げたということだ。これにより奈良盆地の北半分を勢力下におくことになり、しかも大和川の水運も押さえたことで大変大きな影響力を持つこととなった。
実はこの時期、奈良盆地の南半分を押さえていたのが鴨一族である。秋津遺跡、中西遺跡、鴨都波遺跡など先に確認した通り、弥生前期より葛城地域に繁栄を築いていた。神武軍はこの鴨一族の勢力を後ろ盾として饒速日命と対峙することになった。
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饒速日命は高天原で大己貴神の娘の天道日女命(あめのみちひめ)を娶って天香語山命が生まれた。その後、天に昇って御祖のもとに行ったのち、丹後国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に降りた。さらにその後、天祖より2つの神宝とともに受けた命により高天原から丹波国の凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)に降りた。それから由良之水門(ゆらのみなと)に遷った時に子の香語山命に神宝の1つを分け与え、さらに天磐船に乗って虚空に登り、凡河内国に降りた。そのあと大和国鳥見白辻山に遷って、登美屋彦の妹の登美屋姫を娶って可美真手命が生まれる。その後、再び天に昇って丹波国に遷って凡海息津嶋に留まる。そして高天原で娶った佐手依姫命とともに養老三年に籠宮に天降った。
移動経路を整理すると「高天原→丹後国の伊去奈子嶽→高天原→丹波国の凡海息津嶋→由良之水門→凡河内国→大和国鳥見白辻山→丹波国の凡海息津嶋→籠宮」となる。高天原の地は瓊々杵尊の出発地と同様に日本列島以外の地を指すと考える。そして書紀は饒速日命が天神であることを明かしているので、その出発地は瓊々杵尊同様に中国江南の地であったと考える。江南を出て東シナ海を渡って南九州の薩摩半島に漂着したのが瓊々杵尊で、対馬海流に乗って日本海に入り、丹後の地に漂着したのが饒速日命である。古事記における饒速日命の登場シーンで「天津神の御子である瓊々杵尊が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た」と記しているのは、その出発地が同じであったことの表れであろう。そして饒速日命が漂着(降臨)したところが丹後の凡海息津嶋(京都府舞鶴市の若狭湾内にある冠島)であった。最初に伊去奈子嶽(京丹後市、兵庫県との県境近くの磯砂山か)に降臨したように記述しているのは、まさに瓊々杵尊が薩摩半島に漂着したことを日向の高千穂の峯に降臨したと記述するする記紀と同じ設定である。
その次の由良之水門であるが、現在の由良川河口あたりと考えるのが妥当であろう。ここには湊十二社という神社があり由緒は不明であるが、江戸時代には北前船の基地にもなっており、古くから航海の安全を祈願する神社で、今でも船の模型が数多く奉納されている。また、由良川を上れば福知山や綾部へとつながっており、この地は海運のみならず由良川を利用した内陸部への輸送路の基地にもなっていたと考えられる。由良川は福知山から綾部につながるが、福知山から分岐する土師川、さらには竹田川を上ると兵庫県丹波市氷上町の石生(いそう)に至るが、ここは本州で最も低い分水嶺にあたり標高は95mしかない。石生を越えれば加古川となって瀬戸内海へ出ることができる。饒速日命はこのルートを経由して難波の河内湖から河内国に入ったと考えられる。
本紀には河内国の河上の哮峯に降りたとある。この「哮峯」は2通りの読み方がされており、1つは「たけるがみね」、もう1つは「いかるがみね」である。比定地としては「天の磐船」と呼ばれる巨石がご神体となっている大阪府交野市私市にある磐船神社、あるいは731年成立の「住吉大社神代記」にも記される生駒山北嶺の饒速日山など、いずれも神武が長髄彦と初戦を交えた孔舍衞坂からほど近いところであり、このあたりは長髄彦の勢力地ともされている。さらには次の降臨地である大和国鳥見白辻山は現在の奈良県生駒市白庭台あたりとされ、まさに長髄彦の本貫地と考えられるところである。私はここに少なからず違和感を覚える。長髄彦は神武がこの地で一敗地にまみれ、兄の五瀬命を失うほど苦汁を飲んだ相手であるにも関わらず、饒速日命はいきなり長髄彦の勢力範囲に乗り込み、戦闘の形跡すらない中で長髄彦を従えることに成功したことになる。相当な財物を提供して和議に持ち込んだのであろうか。それとも、饒速日命の河内への降臨地は本当に磐船神社あるいは饒速日山のあたりだったのだろうか。
書紀にある通り饒速日命は物部氏の祖で、その物部氏の本貫は現在の大阪府八尾市渋川町あたりである。現在の大阪府では河内を北・中・南の3地区に分けて呼ぶことがあるが、交野は北河内、八尾は中河内に属していて別の地区として扱われる。物部氏が中河内の八尾市を本貫としているのは祖先がその地に留まって勢力を蓄え、繁栄を築いてきたからであろう。そう考えると祖先である饒速日命は難波から河内湖に入って南下し、現在の八尾あたりで上陸して拠点をおいた、とするのが妥当ではないだろうか。
私は「哮峯」を「いかるがみね」と読みたい。饒速日命が上陸した八尾のあたりで峯に該当する山を探せば、八尾市渋川あたりからほぼ真東に高安山が見える。高安山は大阪府と奈良県との境に位置する標高488mの山で生駒山地の南端で最も高い山である。7世紀後半、白村江で唐・新羅軍に敗れたあと、大和国防衛の拠点として高安城が築かれている。そして八尾から大和川を少し遡って大和に入ったところが現在の奈良県生駒郡斑鳩町である。この斑鳩からはほぼ真西に信貴山が見える。信貴山は高安山のすぐ東にある標高437mの山である。その名は聖徳太子が物部守屋を攻めたときにこの山で毘沙門天が現れ、太子が「信ずべし貴ぶべし」といったことに由来すると伝わる。古来より霊験ある山と崇められてきたことによる逸話と言えよう。この斑鳩の地名は「哮峯」に由来すると考えるのは想像が過ぎるだろうか。
大和川をさらに遡って奈良盆地の中心部に入ると弥生時代の環濠集落である唐古・鍵遺跡がある。唐古・鍵遺跡については後で詳しく触れるが、奈良盆地の代表的な弥生時代の遺跡で弥生中期に最盛期を迎えた。大型建物や楼閣、木製品や石器の工房、銅鐸などの青銅器鋳造設備に加え、吉備や紀伊、伊勢、尾張など各地の土器が出土するなど、非常に先進性を備えた集落であった。また、弥生時代前期末のものと考えられる木棺墓からは渡来系弥生人の人骨が検出されている。饒速日命は河内に本拠を置きながらも、四方を青い山に囲まれた大和の地を「美し国」として統治する野望を抱き、ここを拠点に大陸から持ち込んだ高度な技術を背景に勢力を整え、時間をかけて長髄彦をはじめとする周囲の土着民を取り込んでいったと考えたい。
とはいえ勘注系図では凡河内国の次は大和国鳥見白辻山へ遷ったことになっている。この鳥見白辻山こそ長髄彦の本拠地であり、現在の生駒山の東麓、奈良盆地の北西部一帯であると言われるが、饒速日命がここに移り住んだわけではないだろう。長髄彦を取り込んだことで自身の勢力範囲をそこまで広げたということだ。これにより奈良盆地の北半分を勢力下におくことになり、しかも大和川の水運も押さえたことで大変大きな影響力を持つこととなった。
実はこの時期、奈良盆地の南半分を押さえていたのが鴨一族である。秋津遺跡、中西遺跡、鴨都波遺跡など先に確認した通り、弥生前期より葛城地域に繁栄を築いていた。神武軍はこの鴨一族の勢力を後ろ盾として饒速日命と対峙することになった。
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