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古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆欠史八代

2016年12月15日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀には初代天皇である神武天皇の治世のあと、第10代の崇神天皇までに綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇の8名の天皇のことが記されている。いわゆる欠史八代といわれ、これまでの歴史学においてはこの8名の天皇は実在しなかったという説が有力であったが、最近では実在説も提唱されるようになっている。非実在説の主な根拠は次のようなものである。

-中国の革命思想である辛酉革命の考えをもとに神武天皇の即位を紀元前660年(辛酉の年)にさかのぼらせて皇室の起源の古さと権威を示すためにこれら八代の天皇を偽作した。
-日本書紀における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代崇神天皇の称号である「御肇國天皇」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読め、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。本来は崇神が初代天皇であったがそれより以前の神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられた。
-この八代の天皇の記述は他と違って主に系譜のみで事跡の記述がほとんどないことから、系図だけが創作された。

 非実在説は天皇の実在性のみならず、記された内容そのものを否定していると思えるが、私は天皇の実在性とともに、そこに記された事象そのものをどう扱うかが重要であると考える。本書の冒頭で述べたように、そもそも日本書紀は編纂当時の政権にとって都合のいい内容になるような様々な装飾や編集が施されているものの、記述されていることそのものは残された記録や伝承、あるいは人々の記憶など何らかの根拠に基づいていると考える。したがって、神話の部分でさえ全くのデタラメではなく、デフォルメの度合いが極端に大きくなっているだけであると考えて、その奥底に潜む事実を読み取ろうとしてきた。同様に欠史八代に記された内容も歴史上の事実を少なからず反映していると考える。次にこの欠史八代に書かれた内容を紐解いてみたい。


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◆神武天皇の即位と論功行賞

2016年12月14日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀によると、南九州の日向を出てから6年、苦難の末に饒速日命を従えた神日本磐余彦は橿原の地で初代天皇として即位し、その翌年に東征の論功行賞が以下の通りに行われた。

 ・道臣命(大伴氏の祖)     築坂邑の土地、宅地
 ・大来目(久米氏の祖)     来目邑の土地 
 ・椎根津彦(珍彦)       倭国造に任命
 ・弟猾(菟田主水部の祖)    猛田県主に任命
 ・弟磯城(黒速)        磯城県主に任命
 ・剣根             葛城国造に任命
 ・八咫烏(葛野主殿県主部の祖) 不明
  
 道臣命に対してはその功績が大きかったので特に目をかけた。熊野から大和まで八咫烏の先導により大来目を率いて菟田(宇陀)まで一行を導いた。道臣の名はそのときに神武から賜ったものだ。また、兄猾が神武に罠を仕掛けた際、道臣は兄猾に向かって「おまえが作った屋敷には自分で入るがよい」と言って剣を構え、弓をつがえて追い込み、兄猾を死に追いやった。国見丘では神武の命に従い、大来目部を率いて八十梟帥の残党を討ち取った。その前には、神武自らが高皇産霊尊を斎き祀るときにその斎主に任じられ「厳媛(いづひめ)」の号を授けられた(道臣命は男性であるが、媛という女性の名をつけたのは神を祀る役は女性であったことの名残であろう)。このように道臣は戦闘や祭祀で大活躍をみせた。築坂邑は大和国高市郡築坂邑のことで現在の橿原市鳥屋町がその伝承地と言われている。

 大来目はその道臣に従って戦闘に参加した集団で、大来目が賜った来目邑(現在の橿原市久米町)は築坂邑のすぐ隣である。神武東征時のみならず、書紀の一書では大伴氏の遠祖の天忍日命が来目部(久米部=久米氏)の遠祖である天クシ津大来目を率いて瓊々杵尊を先導して天降ったと記されていることからも、久米氏は大伴氏の配下にあって軍事的役割を担っていたと考えられ、そのことから両氏は隣村に居住することになった。

 椎根津彦は神武が東征を開始して宇佐に到着する前に一行に加わり、航行の先導役を担った珍彦であり、倭直の始祖である。論功行賞として倭国造に任じられたことによるものだ。また、武内宿禰を生んだ影媛の父親である菟道彦(うじひこ)と同一人物であると考える。椎根津彦は大和での戦闘においても、神武が見た夢のお告げを実行するために老人に変装して敵陣の中を通り抜けて香久山の赤土を採りに向かったり、その赤土で作った御神酒甕を丹生川に沈めて魚を浮かせるという占いのようなことをしたり、兄磯城を討つために立てた作戦が見事に的中したりと、祭祀や戦闘において道臣命に引けを取らない功績があった。このことから倭国造という大役に任じられることになった。

 弟猾は兄猾とともに菟田の地(現在の奈良県宇陀市)を治めていた土着の豪族であったが、兄猾を裏切って神武側について神武を勝利に導いた。その功績から猛田邑を与えられ、猛田の県主に任命された。この猛田邑の場所は今一つ定かではないが、弟猾が菟田主水部(うだのもひとりべ)の遠祖であるとされていることから弟猾が住んだ猛田邑は菟田のどこかの一帯を指すと考えられる。主水部とは飲み水や氷を調達する役割を担った集団である。宇陀の芳野川沿いには宇太水分神社があり、天水分神(あめのみくまりのかみ)、速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)が祭神として祀られている。いずれも水に関わりのある神である。この神社があるあたりが猛田邑であろうか。

 弟磯城は兄磯城とともに磯城の地(現在の奈良県桜井市)を治めていた土着の豪族であった。弟猾と同様に神武側について勝利に貢献したために賞に与かり、磯城の県主として引き続き磯城の地を治めることを認められた。兄猾・弟猾の話、兄磯城・弟磯城の話のいずれもが兄ではなく弟が功績をあげて新しい役割を担うことになっているが、これは神武を含めてその後に続く天皇の後継が長子以外の子であることの正当性を主張していると言われている。

 書紀は続いて剣根を葛城国造に任命したと記しているが、剣根なる人物についてまったく触れることがない。また、葛城氏に関する記載の中にも葛城国造は登場しない。葛城氏、葛城国造とも同じ葛城の地を拠点にしていたはずなので、何らかの関係があったと思われるが残念ながらそれを検証する術がない。

 最後に八咫烏も賞をもらったとあるが、その内容については書かれていない。「八咫烏と日臣命」のところでも書いたが、「新撰姓氏録」の記録などから八咫烏は賀茂建角身命(鴨建角身命)であり、賀茂県主(鴨県主)の先祖である。したがってここで八咫烏の子孫であるとされる葛野主殿県主は賀茂県主(鴨県主)と考えられる。葛城に出自を持つ鴨氏はその後に山城国に移って賀茂氏を名乗った。八咫烏が授かった賞の内容を明示せずに葛野主殿県主が子孫であると触れるにとどめたのは神武即位時には勢力範囲に入っていなかった山城を拠点とする賀茂氏が山城国を治める正当性を暗にほのめかそうとしたのではないか。



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◆銅鐸の考察

2016年12月13日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 唐古・鍵遺跡では銅鐸片や銅鐸の鋳型など銅鐸鋳造関連遺物が出土したことから、銅鐸の製造や銅鐸による祭祀が行われていたことが推定される。銅鐸の使途はまだ定説がないが、農耕に関わる祭器であったとする説が有力である。当初は音を鳴らす楽器として用いられたらしいが、終末期には大型化して見せるためのものに変わっていったようである。
 銅鐸の原型についても様々な説がある。朝鮮半島の小銅鐸という説や「魏志韓伝」に「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神につかえる」という一文があり、この「鈴」が原型であるという説、あるいは中国の鐸という楽器であるという説もある。銅鐸の材料となる鉛の同位体比を分析することにより鉛の原産地が特定できるが、それによると前期の銅鐸は朝鮮半島産の鉛を使っており、それが後期になると中国華北産を使うようになったことが判明している。このことからその原型が何であるにせよ、朝鮮半島や中国から伝わったものであることは間違いないと思われる。また、銅鐸製造には、炉の構築、精巧な鋳型の製作、高温による銅の溶融など様々な技術力と朝鮮半島や中国から材料となる銅や鉛を調達する交易力が必要となることから渡来人が関与していたことは間違いない。つまり、銅鐸を製造していた集落は渡来人が居住する集落である、ということだ。その証拠として唐古・鍵遺跡の人骨があげられる。
 また、様々な技術力を駆使して製造された銅鐸は極めて貴重なものであり、これを保有する集落はその地域の有力な集落であると言える。さらに豊穣を祈る農耕祭祀に使用されるとともに貴重な財宝であるとも言えるので、集落の首長の統治権力の象徴にもなっていたと思われる。

 銅鐸は全国で約500個が発見されており、その大半が畿内を中心とするいわゆる銅鐸文化圏内である。紀元前2世紀から2世紀までの約400年にわたって製造、使用されたとされるが、唐古・鍵遺跡においても弥生後期にはその痕跡が見られなくなる。これは九州などの銅鐸文化圏の外からやってきた集団の影響により祭祀形式の変更を余儀なくされた可能性が高いと言われる。九州からやってきた神武勢力が畿内の饒速日命の勢力を押さえたことと符合し、その時期は弥生時代後期のことであると考えられる。神武と饒速日命はともに江南の地を故郷に持つ同系集団であったが、一方は南九州の地で文化を育み、もう一方は日本海側の丹後から畿内を拠点に文化を育んだ。南九州において銅鐸が製造されることはなかったのだ。



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◆唐古・鍵遺跡

2016年12月12日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここで私が饒速日命の大和での拠点であると考える唐古・鍵遺跡について確認しておこう。唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあたる奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵にある弥生時代の環濠集落遺跡である。現段階で確認されている遺跡面積は約30万平方メートルで、規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、また、全国から翡翠や土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落と考えられている。現地で聞いたボランティアガイドの話も含めて以下に遺跡の変遷を追ってみる。

<弥生時代前期>
-遺跡北部・西部・南部の小高い丘(標高48m前後)に居住域が形成される。この頃には古代奈良湖は湿地帯になり、微高地では人が住める状況になっていた。
-各居住区から多数の鍬や鋤などの農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢など容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。また、原石から完成品までの製作過程の石包丁が出土し、この石材は遺跡南方6キロにある耳成山の流紋岩であることが確認されている。このようなことから、集落の形成時期から様々な道具を作り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定される。
-弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が検出された。この建物は西地区の中枢建物と推定される。
-稲穂の束や炭化米が出土し、多数の農耕具の出土と合わせて考えると遺跡周辺で稲作が行われていたことが推定される。ただし、水田跡は検出されていない。
-弥生前期末のものと考えられる木棺墓から検出された人骨が渡来系弥生人であることが確認された。放射性炭素分析による人骨の年代測定も弥生前期末葉という結果であったという。

<弥生時代中期>
-中期初頭に3か所の居住域周辺に環濠が巡らされる。
-西部居住域で大型建物が建築される。6m×13.7mの長方形の建物で床面積は82.2㎡。柱列は建物中央と東西両側の3列に並び、中央柱列は6本、東西両側の柱列は基本的に7本の柱がある。
-中期中葉に3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し、一つの居住域に統合する。長径約500m、短径約400mの不整円形の環濠である。幅8m以上の大環濠とそれを囲むように4~5重に環濠が巡らされる多重環濠となっているが、どの環濠も深さはなく防御用ではなさそうである。
-集落の西南部に河内、近江、紀伊、伊勢など各地からの搬入土器が多く出土し、市的な場所があったと考えられる。
-南部で銅鐸片や銅鐸の鋳型外枠、銅鏃・銅剣などの鋳型、銅塊、銅滓、送風管など青銅器鋳造関連遺物や炉跡が出土し、周辺に青銅器の供給を行っていたことと、銅鐸による祭祀が行われていたことが想定される。
-北部では二上山産出のサヌカイト原石や剥片がまとまって出土した。
-これらにより、集落内には各種工人の居住場所あるいは工房跡があったと推定される。 

<弥生時代中期後半>
-楼閣などの建物・動物・人物が描かれた多数の土器が検出され、土器に絵を描く風習があったことが確認される。(全国の絵画土器片の1/3がここで出土している。) 加えて、それぞれの絵が想像で描かれたとは考えにくいので、楼閣などが実際に存在したと思われる。
-中期後半から末にかけての洪水により環濠が埋没。

<弥生時代後期>
-洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。
-吉備の大型器台が発見され、吉備との交流が想定される。

<古墳時代以降>
-大環濠が消滅する。
-3か所の居住遺構や井戸が減少していることから居住域が縮小された。
-古墳時代中期に前方後円墳が築かれた。
-唐古氏、唐古南氏、唐古東氏の居館が築かれ、周辺が現在の鍵集落として発展する。

 この遺跡を訪ねたときに現在の周囲の景色を取り払って唐古・鍵が最も栄えた弥生時代中期に身を置いてみた。ここは奈良盆地のど真ん中にあたり南東の方に三輪山が見える。弥生後期に入るとその麓に纒向の都市が誕生する。距離にして数キロ。今なら歩いてもすぐに到着する近隣地である。しかし弥生の当時、この周辺は奈良湖が干上がったあとの湿地帯であり、行く手をさえぎる幾筋もの川が流れていた。現代の感覚で隣り町のような捉え方をしないほうがいいと感じた。
 石原博信氏はこの唐古・鍵の住民が弥生後期に纒向に移動したと書いているが、私は否定的に考える。奈良盆地のど真ん中で繁栄する都を捨ててわざわざ山沿いへ移る理由が今一つわからないのである。町が手狭になったとしても周囲に広げていけばいいだろうし、仮に移ったとしても以前の町を捨てる必要はないと思う。隣り町の感覚でいかにも両遺跡の住民が同族であったと考えるのは少し違うように感じた。纒向遺跡の所在地は奈良県桜井市、唐古・鍵遺跡は奈良県磯城郡田原本町であり、現在でも行政区域が異なっている。
 唐古・鍵と纒向は別の一族の国であり、前者は丹後からやって来た饒速日命一族、後者は出雲からやってきた崇神一族。すでに書いたが、これが私の考えである。


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◆饒速日命の服従

2016年12月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 話を最終決戦に戻そう。書紀では、饒速日命は神武が持っていた天羽々矢と歩靫を見ただけで忠義の意を表わしたが、それでも戦おうとした長髄彦を饒速日命が斬ったとある。しかし、神武と饒速日命が戦った形跡は見られない。本当に剣を交えなかったのだろうか。神武は東征を開始する時点でこの大和に饒速日命がいることを知っていた。さらに自身の祖先同様に大陸から渡ってきた渡来集団のリーダーであることも知っていた。ただし、饒速日命が同じ江南の一族であることまではわかっていなかったのかもしれない。兄の五瀬命を討たれ、さらには稲飯命や三毛入野命を立て続けに失ったこともあって、最初は戦う意思を強く持っていたものの、いざ対峙してみると互いに同郷の集団であることがわかった。さらには饒速日命が恭順の意を表し、自身の部下を斬り捨てた。やはり二人は剣を交えることがなかったと考えるのが自然であろう。

 さて、ここで饒速日命に関する大きな疑問が頭をもたげる。それは、記紀は神武に服従したあとの饒速日命に触れていないことである。勘注系図では大和から再び丹波に戻っている。本紀によると大和で亡くなったとだけ書かれている。これはどういうことであろうか。饒速日命には子がいた。書紀によると長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って可美眞手命を設けた、とある。古事記ではその名が宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)となっているが、この人物が物部氏の系譜につながっていく。本紀においてはそれに加えて、天道日女命を妃として天香語山命を設けたとある。天香語山命は別名として高倉下命を名乗り、神武の熊野上陸後に登場する。勘注系図では高倉下は天香語山命の子、すなわち饒速日命の孫となっているが、この高倉下がのちの尾張氏や海部氏につながるとされている。
 尾張氏を考えるくだりのところでも書いたが、饒速日命一族は神武に服従して大和の葛城に定着することになり、そこで尾張氏や鴨氏らとともに神武王朝の執政を支えたのであろう。饒速日命自身は葛城の地で亡くなったであろうが、その後裔が丹後の地を治める役割を担って故郷へ戻ることになったと考える。それが勘注系図の記事であり、また本紀の丹後国造の記事につながっている。

 ここまで饒速日命の足跡を追ってきたが、中国江南の地から集団を率いて丹後に漂着し、丹後の地を治めた後に河内、そして大和へ赴いて大和で「美し国」を築いたものの、日向からやってきた神武に屈する、という過程は長い時間を要する。これは饒速日命という一人の人物が成し遂げた事績ではないだろう。饒速日命はこれを成し遂げた集団の代々のリーダーを表す代名詞ではないだろうか。最初のリーダーが江南から丹後に渡り、第2のリーダーが弥生時代前期に大和に入って唐古・鍵地域を開発し、第3のリーダーが弥生前期末にその唐古・鍵で葬られた渡来系弥生人、その後何代かを経て最後のリーダーが神武に敗れた饒速日命だ。弥生前期から後期までの数百年間に存在した複数のリーダーをまとめて饒速日命と称した。



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◆饒速日命の降臨

2016年12月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀では饒速日命が降臨した場所が具体的に記述されず、東の美し国に飛び降りたとあるだけである。本紀では先述の通り河内国の河上の哮峯に天降ったとなっている。一方、勘注系図では降臨した場所やその後の移動が詳しく記されているので順に見てみよう。ただし、勘注系図において火明命となっているのは本来は饒速日命であるので読み替える。

 饒速日命は高天原で大己貴神の娘の天道日女命(あめのみちひめ)を娶って天香語山命が生まれた。その後、天に昇って御祖のもとに行ったのち、丹後国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に降りた。さらにその後、天祖より2つの神宝とともに受けた命により高天原から丹波国の凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)に降りた。それから由良之水門(ゆらのみなと)に遷った時に子の香語山命に神宝の1つを分け与え、さらに天磐船に乗って虚空に登り、凡河内国に降りた。そのあと大和国鳥見白辻山に遷って、登美屋彦の妹の登美屋姫を娶って可美真手命が生まれる。その後、再び天に昇って丹波国に遷って凡海息津嶋に留まる。そして高天原で娶った佐手依姫命とともに養老三年に籠宮に天降った。
 移動経路を整理すると「高天原→丹後国の伊去奈子嶽→高天原→丹波国の凡海息津嶋→由良之水門→凡河内国→大和国鳥見白辻山→丹波国の凡海息津嶋→籠宮」となる。高天原の地は瓊々杵尊の出発地と同様に日本列島以外の地を指すと考える。そして書紀は饒速日命が天神であることを明かしているので、その出発地は瓊々杵尊同様に中国江南の地であったと考える。江南を出て東シナ海を渡って南九州の薩摩半島に漂着したのが瓊々杵尊で、対馬海流に乗って日本海に入り、丹後の地に漂着したのが饒速日命である。古事記における饒速日命の登場シーンで「天津神の御子である瓊々杵尊が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た」と記しているのは、その出発地が同じであったことの表れであろう。そして饒速日命が漂着(降臨)したところが丹後の凡海息津嶋(京都府舞鶴市の若狭湾内にある冠島)であった。最初に伊去奈子嶽(京丹後市、兵庫県との県境近くの磯砂山か)に降臨したように記述しているのは、まさに瓊々杵尊が薩摩半島に漂着したことを日向の高千穂の峯に降臨したと記述するする記紀と同じ設定である。
 その次の由良之水門であるが、現在の由良川河口あたりと考えるのが妥当であろう。ここには湊十二社という神社があり由緒は不明であるが、江戸時代には北前船の基地にもなっており、古くから航海の安全を祈願する神社で、今でも船の模型が数多く奉納されている。また、由良川を上れば福知山や綾部へとつながっており、この地は海運のみならず由良川を利用した内陸部への輸送路の基地にもなっていたと考えられる。由良川は福知山から綾部につながるが、福知山から分岐する土師川、さらには竹田川を上ると兵庫県丹波市氷上町の石生(いそう)に至るが、ここは本州で最も低い分水嶺にあたり標高は95mしかない。石生を越えれば加古川となって瀬戸内海へ出ることができる。饒速日命はこのルートを経由して難波の河内湖から河内国に入ったと考えられる。

 本紀には河内国の河上の哮峯に降りたとある。この「哮峯」は2通りの読み方がされており、1つは「たけるがみね」、もう1つは「いかるがみね」である。比定地としては「天の磐船」と呼ばれる巨石がご神体となっている大阪府交野市私市にある磐船神社、あるいは731年成立の「住吉大社神代記」にも記される生駒山北嶺の饒速日山など、いずれも神武が長髄彦と初戦を交えた孔舍衞坂からほど近いところであり、このあたりは長髄彦の勢力地ともされている。さらには次の降臨地である大和国鳥見白辻山は現在の奈良県生駒市白庭台あたりとされ、まさに長髄彦の本貫地と考えられるところである。私はここに少なからず違和感を覚える。長髄彦は神武がこの地で一敗地にまみれ、兄の五瀬命を失うほど苦汁を飲んだ相手であるにも関わらず、饒速日命はいきなり長髄彦の勢力範囲に乗り込み、戦闘の形跡すらない中で長髄彦を従えることに成功したことになる。相当な財物を提供して和議に持ち込んだのであろうか。それとも、饒速日命の河内への降臨地は本当に磐船神社あるいは饒速日山のあたりだったのだろうか。
 書紀にある通り饒速日命は物部氏の祖で、その物部氏の本貫は現在の大阪府八尾市渋川町あたりである。現在の大阪府では河内を北・中・南の3地区に分けて呼ぶことがあるが、交野は北河内、八尾は中河内に属していて別の地区として扱われる。物部氏が中河内の八尾市を本貫としているのは祖先がその地に留まって勢力を蓄え、繁栄を築いてきたからであろう。そう考えると祖先である饒速日命は難波から河内湖に入って南下し、現在の八尾あたりで上陸して拠点をおいた、とするのが妥当ではないだろうか。

 私は「哮峯」を「いかるがみね」と読みたい。饒速日命が上陸した八尾のあたりで峯に該当する山を探せば、八尾市渋川あたりからほぼ真東に高安山が見える。高安山は大阪府と奈良県との境に位置する標高488mの山で生駒山地の南端で最も高い山である。7世紀後半、白村江で唐・新羅軍に敗れたあと、大和国防衛の拠点として高安城が築かれている。そして八尾から大和川を少し遡って大和に入ったところが現在の奈良県生駒郡斑鳩町である。この斑鳩からはほぼ真西に信貴山が見える。信貴山は高安山のすぐ東にある標高437mの山である。その名は聖徳太子が物部守屋を攻めたときにこの山で毘沙門天が現れ、太子が「信ずべし貴ぶべし」といったことに由来すると伝わる。古来より霊験ある山と崇められてきたことによる逸話と言えよう。この斑鳩の地名は「哮峯」に由来すると考えるのは想像が過ぎるだろうか。

 大和川をさらに遡って奈良盆地の中心部に入ると弥生時代の環濠集落である唐古・鍵遺跡がある。唐古・鍵遺跡については後で詳しく触れるが、奈良盆地の代表的な弥生時代の遺跡で弥生中期に最盛期を迎えた。大型建物や楼閣、木製品や石器の工房、銅鐸などの青銅器鋳造設備に加え、吉備や紀伊、伊勢、尾張など各地の土器が出土するなど、非常に先進性を備えた集落であった。また、弥生時代前期末のものと考えられる木棺墓からは渡来系弥生人の人骨が検出されている。饒速日命は河内に本拠を置きながらも、四方を青い山に囲まれた大和の地を「美し国」として統治する野望を抱き、ここを拠点に大陸から持ち込んだ高度な技術を背景に勢力を整え、時間をかけて長髄彦をはじめとする周囲の土着民を取り込んでいったと考えたい。
 とはいえ勘注系図では凡河内国の次は大和国鳥見白辻山へ遷ったことになっている。この鳥見白辻山こそ長髄彦の本拠地であり、現在の生駒山の東麓、奈良盆地の北西部一帯であると言われるが、饒速日命がここに移り住んだわけではないだろう。長髄彦を取り込んだことで自身の勢力範囲をそこまで広げたということだ。これにより奈良盆地の北半分を勢力下におくことになり、しかも大和川の水運も押さえたことで大変大きな影響力を持つこととなった。
 実はこの時期、奈良盆地の南半分を押さえていたのが鴨一族である。秋津遺跡、中西遺跡、鴨都波遺跡など先に確認した通り、弥生前期より葛城地域に繁栄を築いていた。神武軍はこの鴨一族の勢力を後ろ盾として饒速日命と対峙することになった。



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◆先代旧事本紀と勘注系図

2016年12月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 まず本紀によると、饒速日命は天神の御祖神の命令で天の磐船に乗り、河内国の河上の哮峯(いかるがみね、または、たけるがみね)に天降ったとある。天神の御祖神を天照大神と解すれば饒速日命は瓊々杵尊同様に高天原の天照大神の命で天降ったことになる。そして降臨後に大倭国(大和国)の鳥見の白庭山に遷り、長髓彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。そしてその御炊屋姫は妊娠したが、まだ子が生まれないうちに饒速日命は亡くなった。饒速日命が降臨するとき、天神の御祖神は天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授け、高皇産霊尊は、32人の勇者と5人の従者、5人の供領(とものみやつこ)、25人の物部一族、船長や舵取りら6人といった大規模な護衛を付き添わせた、とも記されている。しかし、この降臨時の様子や饒速日命の死のことは書紀では語られていない。
 さらに本紀では、饒速日命の名前を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」とし、加えて別名として「天火明命」「天照国照彦天火明尊」「胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)」をあげている。すなわち饒速日命と火明命が同一人物であるとしている。また、天押穂耳尊と、高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)、別名が栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の間に産まれた子であり、弟に「天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)」すなわち瓊々杵尊がいるとも記し、饒速日命と瓊々杵尊が兄弟であるとしているのだ。古事記においても火明命と瓊々杵尊は兄弟ということになっているが、書紀では火明命は瓊々杵尊の子であり、尾張氏の始祖となっている。(ただし、一書においては瓊々杵尊の兄で尾張連の遠祖であるとしている。)

 次に勘注系図を見ると、海部氏の始祖は彦火明命であるとして、そのまたの名を「饒速日命」「神饒速日命」「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」「膽杵磯丹杵穂命(にぎしにぎほのみこと)」と記されている。また、本紀と同様に彦火明命(饒速日命)と瓊々杵尊が兄弟であるとされている。記紀においては、火明命と瓊々杵尊は兄弟あるいは親子という相違はあるものの二人の関係性が明示されている一方で、火明命と饒速日命の関係については一言も触れられていない。このことから記紀においては饒速日命は天神であるが天孫ではない、つまり天照大神の系譜にないということが言えよう。ではなぜ本紀、勘注系図では火明命と饒速日命が同一人物とされているのだろうか。

 本紀の成立については、807年に成立した「古語拾遺」からの引用があること、藤原春海による「先代旧事本紀」論が承平(931年~938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから藤原春海による「日本書紀」講書の際(904年~906年)には本紀が存在したと推定されること、などからその成立は807年以降で904年以前と考えられている。神代本紀から国造本紀までの十巻から成り、記紀からの引用や流用、さらには物部氏や尾張氏に関する系譜に加えて独自の伝承説話が多く、編者は物部氏系の人物であろうとされている。蘇我氏との戦いに敗れて没落した物部氏の権威を取り戻すべく、書紀で物部氏の遠祖とされた饒速日命を天孫である瓊々杵尊の兄弟である火明命と結びつけて物部氏が天孫系であることを主張した書である。
 一方の勘注系図は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家である海部氏が「籠名神社祝部氏係図」とともに代々伝えてきた「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記」のことを指し、現存のものは江戸時代初期の写本であるが原本は仁和年中(885年~889年)に編纂された「丹波国造海部直等氏之本記」であると伝えられる。始祖である火明命から第34世までが記され、当主の兄弟やそこから発した傍系を記す箇所もあり「記紀」は勿論、本紀などにも見られない独自の伝承を記している。書紀にて火明命を祖とする尾張氏と海部氏のつながりが系譜に表わされている。その尾張氏は本紀でも詳しく記される。

 記紀、本紀、勘注系図の成立順番は、記紀→本紀→勘注系図とするのが妥当であろう。したがって勘注系図にて火明命と饒速日命が同一とされているのは本紀を参照してのことと思われる。自らの祖先が天孫族であるという由緒ある系譜であることは海部氏にとっては肯定こそすれ否定する必要のないことであった。このことから、本紀、勘注系図とも饒速日命と火明命を同一としていることに大きな恣意性を感じざるを得ない。いずれも記紀以降の成立であり本紀においては物部氏、勘注系図においては海部氏が自らの系譜の権威を高めるために仕組んだことと考えるのが妥当であろう。したがって、饒速日命の降臨について本紀、勘注系図を参照することが可能であるが、饒速日命が火明命と同一人物であったことについては考慮しないこととしたい。



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◆饒速日命の登場

2016年12月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀には饒速日命が登場する場面が3カ所ある。1ケ所目は神武が東征を決意した場面。神武は塩土老翁から「東の美し国に天磐船に乗って飛んで降りた者がいる」と聞いた。そして「その土地は天下に威光を輝かせるに相応しい場所で国の中心となるだろうから、その土地へ行って都にしようではないか。その土地に飛び降りた者は饒速日である。」と兄や子供たちに説いたのである。2カ所目は神武東征の最終場面。長髄彦が神武に使者を派遣して「自分は天神の子である櫛玉饒速日命に仕えているが、天神の子がなぜ二人いるのか?あなたは偽物ではないか」と問うた。互いに天神の子である表物(しるし)を見せ合って本物であることを確認したが、長髄彦が戦う意思を変えなかったため饒速日命は長髄彦を殺してしまった。書紀はこの記述に続いて饒速日命が物部氏の祖先であることを記している。そして3カ所目は神武が即位して31年目。国内を見て回った天皇が「なんと良い国を得たのだろう」と言い、この国の様々な呼称を紹介する中で、饒速日命は天磐船に乗って大空を廻り、この国を「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と言った、とある。
 つまり書紀は、饒速日命が神武よりも先に奈良盆地に降臨した天神であることを明かしている。これは3つのことを意味しており、第1には饒速日命は神武よりも先に奈良盆地を治めていたということ、第2に饒速日命は天神、つまり神武同様に大陸から日本列島にやってきた渡来人であること、そして第3に、本来は敵であり同じ天神である饒速日命の存在を明かす必要がないにも関わらず登場させたのは、書紀編纂当時、編纂を指示した天武天皇あるいはそれを受け継いだ持統天皇をもってしても隠しようのない事実であったこと、この3点だ。二人の天神は表物である天羽々矢と歩靫(かちゆき)を見せ合ったところ、神武のそれが勝っていたからであろう、饒速日命は神武に降伏したという。饒速日命はいったいどこから来たのであろうか。

 古事記においては「邇藝速日命」と記されるが、登場シーンは神武東征の最終場面のみである。「邇藝速日命が神武に対して、天津神の御子が天降ったと聞いたので私も後を追って天降って来た、と言って天津神の印である宝物を神武に献上した」となっており、書紀と少し違う表現であるが、これ以上のことは記されていない。高倉下のところで参照した「先代旧事本紀(以降、本紀と記す)」および「海部氏勘注系図(以降、勘注系図と記す)」をここでも見てみよう。



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◆神武東征最終決戦

2016年12月07日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 八咫烏の話から鴨氏、葛城氏、蘇我氏の考察で大きく回り道をしたが、話を神武東征に戻そう。八咫烏の道案内で無事に大和に入った神武は宇陀で兄猾・弟猾と対峙した。神武は弟猾を味方に引き込んで道臣命を遣わして兄猾を討った。その後、吉野へ出向いて吉野首の先祖である井光(いひか)、吉野国栖の始祖である磐押別(いわおしわく)の子、阿太の養鵜部(うかいら)の始祖である苞苴担(にえもつ)の子など吉野の先住民達と出会った。再び宇陀に戻った神武はいよいよ饒速日命率いる大和軍との全面戦争に挑む。神武軍は神武を総大将として道臣命(大伴氏)、多来目部(久米氏)、椎根津彦(紀氏)、高倉下・兄倉下・弟倉下(いずれも尾張氏)、八咫烏(鴨氏)に加え、味方にした弟猾、さらに磯城で味方に引き込んだ弟磯城らの軍勢である。対する大和軍は饒速日命のもと、長髄彦を総大将に各地の族長(八十梟帥)が要所要所を守備していた。神武軍はあの手この手で勝利を重ね、ついには総大将の長髄彦と向き合うことになった。

 長髄彦は大和に土着する一族の長であったと考える。神武が難波から大和に入ろうしたときに生駒西麓の孔舍衞坂で待ち伏せをして五瀬命に致命傷を与えた人物である。書紀には「長髄はもともと邑の名であり、それで人の名とした」とある。「ナガスネ」あるいは「ナカスネ」という地名を奈良盆地周辺に見つけることはできないが、書紀には神武がまさに孔舍衞坂で長髄彦と初戦を交える直前の記述に「乃還更欲東踰膽駒山而入中洲(そこで引き返して東の生駒山から中洲に入ろうとした)」とある。この「中洲(ナカス)」を充て、「長髄=中洲根」とする地名研究家である池田末則氏の考えに賛同する。「根」は敬称あるいは発音しやすくするための接尾語ということらしい。長髄彦は饒速日命がやってくる前は中洲、すなわち内つ国である大和の長であった。古事記では登美能那賀須泥毘古あるいは登美毘古と記されることから、その拠点は生駒東麓、矢田丘陵北端の鳥見の地であったと思われる。西の生駒山を越えれば孔舍衞坂である。

 神武軍と大和軍との最終決戦の地はこれまでの流れから考えると宇陀から西へ進んだ奈良盆地の入り口にあたる現在の桜井市あたりであろう。太陽を背にして戦うためにわざわざ熊野へ迂回し、宇陀で兄猾をち、吉野の先住民を探索し、宇陀の高倉山から磐余の邑を眺めたときにあふれるほどいた敵軍勢を打ち負かし、ようやく迎える決戦である。書紀にはなかなか決着がつかない状況になった時に金色に光り輝く鵄が飛んできて大和軍を幻惑させたとある。これがもとでこの地を鵄の邑と呼ぶようになり、それが訛って鳥見になったとある。現在の桜井市外山(トビ)、あるいは付近の鳥見山を指すと思われ、長髄彦が拠点とした鳥見とはまた別の場所になる。しかし、奈良盆地北西部を拠点とする長髄彦が神武軍との決戦において対極の場所にあたる盆地南東部に陣形を敷くということは、やはり長髄彦は中洲すなわち大和の国の長であったと言える。

 さて、大和に先住する長髄彦を従えた饒速日命とはいったい何者だったのだろうか。饒速日命を詳しくみたあと、魏志倭人伝と記紀神話の関係を解いていきたい。



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◆蘇我氏の出自

2016年12月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、蘇我氏の出自の議論になった時に必ず出てくる説がもう一つある。それは蘇我氏が朝鮮半島由来の氏族であるとする門脇禎二が唱える説である。14世紀後半に成立した諸氏族の系図をまとめた「尊卑文脉」などをもとに蘇我氏の直系をたどると以下となる。

 満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿 

 この説は「満智」を百済紀に登場する百済の高官「木満致(もくまんち)」と同一人物とすることに根拠を求める。二代目、三代目の「韓子」「高麗」ともに朝鮮半島を思わせる名前であることもそれを表しているという。今となっては否定的に語られることが多い考えであるが、天皇の祖先が中国からやってきたと考える私には必ずしも的外れなことを言っているようには思えない。
 先に書いたように、蘇我氏本貫地は大和国曽我であったと考えているが、神武天皇や崇神天皇がそうであったように、蘇我氏も他の地から大和にやってきて曽我に拠点を置くようになったのではないだろうか。門脇氏の説はそのことを示唆していると言える。しかし、当時、百済との間に外交関係があって両国間で要人の往来があったことは葛城襲津彦の活躍などからも理解できるところであるが、朝鮮半島から大和にやって来た人物がすでに権力構造が出来上がっている日本の国でわずかの間に大きな権力を手にすることは可能なのであろうか。そうでないとすると蘇我氏はどこからやってきたのだろうか。歴史作家の関裕二氏は蘇我氏と出雲のつながりを指摘する。関氏の論拠に私の考えも加えて蘇我氏と出雲のつながりを見ると次のようになる。 

①入鹿神社の祭神
 奈良県橿原市曽我町のすぐ近くの小網町に入鹿神社という神社がある。この神社には不思議なことに蘇我入鹿と素戔嗚尊が同時に祀られている。この二柱の神がなぜ同じ神社に祀られているのか、小網町文化財保存会が運営する公式サイトをみてもその理由はわからない。社伝によると「乙巳の変で中大兄皇子に斬られた入鹿の首が飛んできたのを祀った」となっているが事実ではあるまい。
 同サイトでは「明治時代に皇国史観に基づいて逆心である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった『小網神社』に改めるように政府から言われたが、地元住民がそれを拒んだ」とあり、この町では入鹿は崇敬を集めているという。蘇我氏の本貫地と考えられる曽我町の近くに蘇我氏本宗家の入鹿を祀る神社があり、昔から住民に親しまれていることにあまり違和感はないが、同時に素戔嗚尊を祀る理由がわからない。境内には廃寺となった真言宗のお寺の本堂である正蓮寺大日堂があり本尊として大日如来が祀られている。入鹿神社は元はそのお寺の鎮守社であったと伝えられているが、お寺に祀られているのが大日如来であれば神社に祀られているのが天照大神というなら理解できるが、それが素戔嗚尊というのは何とも理解しがたい。全国で蘇我入鹿を祀る神社はここだけで、その入鹿神社に素戔嗚尊が祀られていることは蘇我氏と素戔嗚尊の間に何らかの関係があると考えざるを得ないのではないか。

②出雲大社摂社の「素鵞社」
 出雲大社本殿の真裏に素鵞社(そがのやしろ)という摂社がある。パワースポットとして有名で、また肩こりにも効くらしく、摂社ではあるが参拝者が絶えないようである。この素鵞社の祭神は素戔鳴尊である。出雲の地で「そが(素鵞)」と素戔鳴尊がつながっているのである。「素鵞」はおそらく最初は「すが」と読んでいたのだろうが、いつしか「そが」に変化したと考えられる。それを想定させるのが次の③④である。

③素戔嗚尊の最初の宮
 書紀によると、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した後、奇稲田姫と結婚するのに良い場所を求めて出雲の「清地」というところにたどり着いた。素戔鳴尊が「私の心は清々しい」と言ったのでこの地を「清地」と呼ぶようになったという。「清地」の読み方について書紀の原文には「清地此云素鵝」と書かれており「素鵝」は「すが」と読むことがわかる。「鵝」と「鵞」は「嶋」と「嶌」の関係と同様で、つまり同じ漢字である。ということは「素鵞」も「素鵝」も同じことを表していることになるので先の素鵞社はもともとは「すがのやしろ」であったと考えられる。いずれにしても、「素鵝(すが)=素鵞(そが)」で、それは出雲で素戔鳴尊とつながっている。
 この清地の場所は、四隅突出型墳丘墓のところで触れたように、江の川を遡った広島県安芸高田市の清神社か、あるいは島根県雲南市の須我神社であろうか。後者は素戔鳴尊が八岐大蛇退治後に初めて設けた宮であることに因んで「日本初之宮」と呼ばれていることもあり、一般的にはこちらの可能性が高いと考えられている。

④素戔鳴尊の子
 書紀の一書によると、素戔嗚尊と奇稲田姫の間にできた子の名が「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)」という。ここでも「清(すが)」と素戔鳴尊がつながる。前述の須我神社に祀られる祭神は素戔鳴尊、奇稲田姫ともう一柱、それが子の清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠である。但馬国一之宮の粟鹿神社に伝わる古文書「粟鹿大明神元記」には、素戔嗚尊の子として「蘇我能由夜麻奴斯禰那佐牟留比古夜斯麻斯奴」の名が見られるという。ここにははっきりと「清」を「蘇我」と書いている。やはり「すが」は「そが」であり、「そが」は出雲で素戔鳴尊とつながっている。

⑤石舞台古墳
 石舞台古墳は奈良県高市郡明日香村にある古墳時代後期の方墳で蘇我馬子の墓といわれている。封土がすべて剥がされて石室が露出している為にもとの墳形は正確にはわからないが、基壇部が1辺51mの方形であることから、上部の形はともかくとして方墳と考えて問題ない。この方墳は出雲において顕著に見られる墳形である。弥生時代に多く築かれた四隅突出墳丘墓の流れを汲んでいると考えられるが、前方後円墳が主流となった古墳時代においても出雲では独自の墓制を続けたと言えよう。蘇我氏はその出雲独自の墓制を明日香に持ち込んだと考えられる。
 蘇我稲目の娘である堅塩媛は第29代欽明天皇の妃となり、第31代用明天皇と第33代推古天皇を生んだ。また同じく稲目の娘である小姉君も欽明の妃として第32代崇峻天皇を生んでいる。この3人の天皇の陵はそれぞれ春日向山古墳、山田高塚古墳、赤坂天王山古墳と呼ばれ、いずれもが方墳である。第10代崇神天皇以降、第30代の敏達天皇まではほぼ全ての天皇陵が前方後円墳であったのだが、蘇我氏系の天皇だけが出雲独自の墓制と言っても過言ではない方墳となっている。出雲と関わりのある蘇我氏の影響と考えてよい。

 ①から⑤で見たように、蘇我氏は素戔嗚尊の後裔として出雲から大和の曽我にやってきた可能性が高いと言えよう。そして葛城氏の活躍を目の当たりにして、交通の一大要衝である葛城の地を押さえれば大きな影響力を持てることをよく理解していた蘇我氏は、葛城氏の没落後に何とかしてこの地を手に入れようと様々な策を施したのだ。稲目は葛城に通い、おそらく葛城氏に属する女を娶って子を設けた。その子である馬子は葛城に出自を持つことを理由に推古天皇に葛城県割譲を迫った。さらに馬子の子、蝦夷は祖廟を葛城の高宮に立てて天皇だけに許されたと言われる舞を舞った。それだけでなく、今木の地(葛城の東、現在の吉野郡大淀町今木)に蝦夷自身と子である入鹿の墓を生前に築造した。このように蝦夷・入鹿の時にはすでに飛鳥において絶大な権力を得ていたが、葛城へのこだわりは続いていたようだ。
 そして蘇我氏は葛城との関係を作為するためにさらなる策を施した。それが「葛城の神々を出雲由来の神々に仕立てること」であった。つまり葛城を自らの出身地である出雲の神々が宿る土地に仕立てようとしたのだ。葛城には鴨三社があり、高鴨神社には味耜高彦根命(迦毛大御神)、鴨都波神社には積羽八重事代主命(事代主神)、葛木御歳神社には御歳神がそれぞれに祀られていて、これら葛城の神々は鴨氏や葛城氏の祖先神であることはすでに書いたとおりである。しかし、記紀や出雲国風土記などではいずれもが出雲の神として描かれている。それによって、これらの神々は出雲から葛城に遷されたと考えられており、そのことが出雲から大和に移った集団があることの根拠にもされている。これはまさに蘇我氏の術中にはまっていると言えよう。新任の出雲国造が天皇に対して奏上する出雲国造神賀詞にも「大穴持命(大国主命)が自分の子である阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐させ、、、」と書かれており、現存する史料からは「出雲の神が大和に遷った」との理解になるのはやむを得ないことであるが、私は逆の考え方をしている。前述のように蘇我氏はもともと葛城で祀られていた神々が出雲から遷ってきたように装った。それは葛城の神々がより古い時代に出雲に存在したことを示すことで可能になる。そのためにはそういう伝承を作り出して喧伝すればいいのだ。蘇我氏はそのことを天皇記・国記でやってのけたのではないか。天皇記・国記は蘇我馬子が編纂責任者である。いずれも現存しないので確認のしようがないが、藤原氏が自分達に都合よく日本書紀を編纂したのと同様に、天皇記・国記は蘇我氏が蘇我氏に都合のいい内容に仕立てることができた。出雲神話の中に阿遅須伎高孫根命や事代主命を登場させ、素戔嗚尊や大国主神の系譜に組み込んだのだ。そしてその写本を作成して天皇のみならず、出雲や大和の氏族にも読ませてプロモーション活動をしたことだろう。その結果、記紀も出雲国風土記も、そして出雲国造神賀詞もそれを常識として描くようになった。記紀や風土記の編者はまんまと蘇我氏の罠にはまってしまったのだ。



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◆蘇我氏の考察

2016年12月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 神武東征を論証している途中であるが寄り道をして葛城氏について考えてきた。ここではさらに寄り道をして蘇我氏について考えてみたい。

 書紀によると蘇我馬子は推古天皇に対して「葛城県は元々はわたしが生まれた本拠地なのでその県を姓名(かばねな)にした。その県をわたしが治める県にしたい」と、葛城の地を蘇我氏に割譲するように申し出た。この地は既に見てきたように水運、海運ネットワークの要衝の地であり、葛城氏が繁栄する礎でもあった。推古天皇は蘇我馬子の妹、堅塩媛(きたしひめ)の子であり、天皇にとっては叔父にあたる馬子の依頼であった。それまで天皇は強い権力を手にした叔父の願いを全て聞き入れてきたが、今回だけは聞けないと断ったという。葛城の地がそれほど重要な地域であったことの証である。そしてこのとき馬子は葛城の地が自らの生誕の地であると言っている。馬子が葛城の地名を姓名にしたことについては、平安時代前期の歌人である藤原兼輔が917年に編纂した聖徳太子の伝記である『聖徳太子伝暦』に「蘇我葛木臣」と記されていることもあり、おそらく事実であったのだろう。また、吉村武彦氏がその著「蘇我氏の古代」において「葛城氏の没落後、おそらく稲目の前後に、蘇我氏が葛城の一部地域に政治的勢力を培い始めた」と指摘しているが、葛城氏の没落に合わせて蘇我氏が歴史の表舞台に立ち始めた事実を考え合わせたときにこの指摘は妥当であると言えよう。蘇我稲目が葛城に進出し、葛城の女と結ばれて馬子が生まれた、というのは十分にあり得る話である。
 では、蘇我氏が稲目の頃に葛城に進出したとしたら、それ以前はどこにいたのだろか。蘇我氏の本貫地については一般的に次の3つの考え方がある。

 ①大和国高市郡曽我(奈良県橿原市曽我町)
 ②大和国葛上郡(奈良県御所市)
 ③河内国石川郡(大阪府富田林市及び南河内郡の石川流域)

 ②は先に見た通り、馬子の本居(生まれたところ)があったことには蓋然性があり、その父である稲目が葛城に出入りしていたことは確かであろう。さらに書記には馬子の子である蝦夷が「己が祖廟を葛城の高宮に立てて」という記述もあり、馬子、蝦夷の二代に渡って葛城に関わりがあったことがわかるが、稲目まで含めて考えてもこの三代に限った話であり、蘇我氏の本貫地が葛城にあったことを伺わせる証左が他にないことから②は疑わしいということになろう。
 ③は六国史のひとつである日本三代実録にある石川朝臣木村の言として記された「始祖は大臣武内宿禰の男宗我石川、河内国石川別業に生まれ、故に石川を以て名とす」という記事が根拠とされる。石川朝臣の始祖が宗我石川で、その宗我石川は河内国石川の別業で生まれたのでその居地を氏名にしたということだ。また、古事記にも建内宿禰の子である蘇賀石河宿禰が蘇我臣の始祖であると記されている。蘇我氏は河内の石河(石川)を出自として稲目の時代に葛城に移った可能性は考えられる。
 ①については土地の名を氏族の名に冠するケースが多いことを考えると、蘇我氏は大和の曽我の地を本貫とした可能性は十分に考えられる。古事記において建内宿禰(武内宿禰)の9名の子のうち地名を冠すると考えられるのは波多、許勢、平群、木、久米、葛城に加えて蘇賀があり、この蘇賀を曽我と考えることに異論はない。この曽我の地には宗我坐宗我都比古神社がある。神社由緒によると「式内宗我坐宗我都比古神社は大同元年(八〇六)大和国内に神封三戸を寄せられ(新妙格勅符妙)、天安三年(八五九)一月二七日に従五位下より従五位上に昇叙、同六年六月十六日には正五位下となった(三代実録)。当社の創祀について、「五群神社記」には推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀ったとある。」となっており、少なくとも806年には蘇我氏ゆかりの神社として存在したことがわかる。この神社の存在は曽我の地と蘇我氏の縁の深さを感じさせる。

 私は蘇我氏の本貫地は現在の橿原市曽我町、つまり①の説が妥当であると考える。現在の大阪府富田林市の石川周辺や奈良県御所市の葛城を訪ねても蘇我氏を感じさせる痕跡がまったく見られないのだ。私は現在、富田林市に住んでいるが地元民からそのような話を聞いたことがない。詳しい調査をすれば根拠となる史料や伝承が出てくるのかもわからないが、少なくとも地元で生活していてそれを感じたことがない。また、富田林から竹内街道を経由して奈良の葛城へもよく足を運ぶが、葛城氏のゆかりを感じることはあっても蘇我氏のそれを感じたことがなかった。その一方で、古くからゆかりのある神社が存在し、町の名前として現代まで受け継がれている事実を考えると、この曽我町が蘇我氏の本貫地であったと考えるのが自然ではないかと思う。


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◆葛城氏の盛衰

2016年12月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 これまで見てきたように葛城氏は、①天皇家と強いつながりを築いたこと、②畿内・瀬戸内海から朝鮮半島への水運・陸運を統率していたこと、③これによる外交を一手に握っていたこと、の3点により5世紀に絶大な勢力を持つに至り、大いに栄えた。それにしてもなぜ天皇家と強いつながりを作ることができたのであろうか。私はこれまで述べてきたことをもとに次のように考えている。神武天皇が東征を果たして大和で即位するまでの苦難の道を支えたのは各地で活躍する隼人系の海洋族たちであった。それが宇佐、安芸、三島、吉備、大伴、紀、尾張、鴨などの一族である。そして大和での即位後、天皇家は葛城の地を拠点にしたことから、この一帯を治める鴨族の貢献は他のどの一族よりも絶大で、第9代の開化天皇まで続く神武王朝は鴨族のお陰で政権を継続できた。葛城氏は4世紀後半頃にその鴨一族から出た氏族であり、紀氏などとの関係を通じて各地の海洋族に対して影響力を持つようになり、5世紀の葛城襲津彦のときに全盛期を迎える。当時の天皇家である応神王朝、とくに安康を除く仁徳から雄略に至る天皇がその葛城氏と協力関係を強化しようとするのは必然であった。その結果、葛城氏から次々と后妃を迎え入れたのだ。その襲津彦の墓が全国18位の規模を誇る葛城最大の前方後円墳である宮山古墳である。竪穴式石室に全体が朱で塗られた長持形石棺が納められ、朝鮮半島からの伝世品と推測される船形陶質土器や高さ1.2メートルの大型家形埴輪などが出土した。また、盗掘にあっているものの刀剣11口、三角縁神獣鏡片・甲冑片・刀剣片、革綴短甲残片などが副葬品として見つかっている。その規模を含めてまさに王の墓と言ってもよさそうである。

 ところが、である。この葛城襲津彦はその活躍とは裏腹に書紀にはヘマばかりしている様子が描かれる。先述した話であるが、神功皇后の時に新羅王の使いが人質を取り返しにきたので襲津彦が新羅へ届けることになっていたが、途中の対馬で使いの者たちに騙されて人質を逃がしてしまった。同じく神功皇后の時、新羅討伐のために派遣されたが、美人に目がくらんで新羅ではなく加羅国を攻撃してしまった。応神天皇の時には百済から来日しようとした弓月君一団が新羅に邪魔されて加羅国に留まっているのを助けるために派遣された襲津彦は3年経っても帰国しなかった。仁徳天皇の時には、無礼を働いた百済王族を襲津彦が連行して帰国したが途中で逃がしてしまった。このように、現地に赴いて外交を一手に引き受けていたものの、さしたる成果もなく、むしろ失敗が強調されている。これはどういうことであろうか。

 葛城襲津彦に始まる葛城氏は雄略天皇のときに眉輪王(まよわおう)の変をきっかけに滅亡したと言われている。したがって一族の記録や系譜が残されていないため、間接的な資料や伝聞をもとに書かれたものと思われるが、それにしてもこの書かれ方は作為を感じざるを得ない。私は記紀の原資料となった天皇記・国記の時点でこの作為が施されていたと考える。もちろん蘇我氏によるものである。葛城氏は現代においても古代最大の豪族と言われている。時代が下るとはいえ蘇我氏も同様に権力を欲しいままにした豪族であった。しかし、そうであるがゆえに自身の権力を誇示するために葛城氏の経歴は蘇我氏にとっては邪魔であった。蘇我氏を越えるヒーローは不要だったのだ。



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◆畿内環状ルート

2016年12月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 仁徳天皇の后に葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)がいる。あるとき天皇は、皇后が紀国の熊野岬に出かけた隙に八田皇女(やたのひめみこ)を娶って宮中に召し入れた。皇后はそれを知って嫉妬し、難波の堀江まで戻っていたが宮(難波高津宮)に帰らなかった。 天皇は自ら難波の大津に出向いて皇后の船を待っていたが皇后は大津に泊まらず、さらに川を遡って山背を巡って大和に向かった。那羅山を越えて葛城を望んで「つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯倭を過ぎ 我が見が欲しく国は 葛城高宮 我家のあたり(難波の宮を過ぎて山代川を上り、私が登っていくと、奈良を過ぎて小楯と倭を過ぎて私が見たかった葛城の高宮の我家の辺りです)」と歌を詠んだ。皇后は山背に帰って筒城岡(つつきのおか)の南に宮を作って住んだという。 
 この話の内容はさておき、磐之媛が辿ったルートを取り上げると「熊野→難波→山背→那羅山→山背」となる。熊野から難波は神武東征とは逆のルートであり、難波からは淀川、木津川を遡って現在の木津川市あたりで船を降りて徒歩で少し南下すると平城山(ならやま)へ至る。そこで歌を詠んで再び山背へ引き返した。また実際に通過はしていないが、歌の中で奈良から小楯、倭を過ぎると葛城の我が家が見えるとあることから、少し標高の高い「山の辺の道」を歩くことを想定した情景であると思われる。そうすると葛城を起点として「葛城→風の森峠→紀ノ川→紀伊水道→大阪湾→河内湖→難波→淀川→木津川→山城→平城山→奈良→山の辺の道→葛城」という古代の畿内環状ルートが浮かび上がる。しかもこれは葛城出身の磐之媛が実際に通った、あるいは通ることを想定したルートであることから、葛城氏がこの環状ルートを押さえていたと考えることができる。紀ノ川から紀伊水道を経て大阪湾へ至る水路は先に見た葛城から朝鮮半島へのルートと同じで、ここは紀氏が押さえていた。淀川、木津川はどうであったろうか。

 大阪府茨木市、淀川と並行する安威川の近くに溝杭神社がある。主祭神は玉櫛媛命、すなわち事代主神が鰐に化けて通っていた三島溝杭の娘である。また、溝杭神社からすぐ近くの淀川沿いには三島鴨神社があり、大山祇神と事代主神が祀られている。大山祇神はもちろん瀬戸内海大三島の大山積神社に祀られる神である。一説によれば大三島よりもこちらのほうが先に創建されたとも言われている。さらにこの2つの神社から少し北には大山積を祀った鴨神社がある。このようにこの三島地区一帯に鴨氏の存在が認められる。またそれが瀬戸内海の大三島とつながっていることも重要である。
 木津川周辺を見ると、現在でも山城町として山背の地名が残り、また隣接する加茂町には岡田鴨神社があり、鴨氏の祖である鴨建角身命を祀っている。山城国風土記逸文には、鴨建角身命は神武天皇を先導したあと大倭の葛木山に宿り、しばらくのちに山代国の岡田の賀茂に至り、その後に山代川を下って葛野川と賀茂川が合流する所に至った、とある。ここ木津川沿いにも鴨氏がいたのである。以上のように、淀川・木津川ルートは鴨氏が押さえていたことがわかる。葛城氏は紀氏と鴨氏を統率することによって隼人系海洋族とも関係を構築し、瀬戸内海から朝鮮半島へのルートおよび畿内環状ルートの運営を握っていたと考えられる。

 和歌山県有田郡に吉備町と言う町があった。町村合併により現在は有田郡有田川町となっているが、古くは和名類聚抄が記す紀伊国在田郡吉備郷である。この町は吉備国の吉備海部と呼ばれた海人たちが移り住んだのでこの名を持つ。また、少し北の和歌山市から海南市にかけての沿岸地域には明治22年に廃止されるまで海部郡があった。前述の仁徳天皇と八田皇女の話では磐之媛が紀国の熊野岬まで出かけたと記されていた。紀伊半島の西沿岸は吉備一族と関係の深い紀氏の勢力範囲であったからこそ、紀氏を統率する葛城氏の娘である磐之媛は熊野まで遊行することができたのである。時代は遡るが、神武天皇も同様に隼人系海洋族の拠点がこの紀伊半島の各地にあったからこそ熊野への迂回を判断したのではないだろうか。


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◆葛城氏の考察

2016年12月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 葛城氏は武内宿禰の後裔とされ、その始祖は葛城襲津彦と言われている。記紀によれば、襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の后となり、履中、反正、允恭の3人の天皇を生み、同じく襲津彦の子の葦田宿禰の娘である黒媛は履中天皇の后となり市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を生んだ。その市辺押磐皇子の妃で顕宗天皇、仁賢天皇の母であるハエ媛は襲津彦の孫である蟻臣(ありのおみ)の娘とされる。さらに同じく襲津彦の孫である円大臣(つぶらのおおおみ)の娘の韓媛は雄略天皇の后となった。このように仁徳から雄略までの9人の天皇のうち安康を除いた8人の天皇が葛城氏の娘が后妃あるいは母となっていることから、葛城氏は5世紀において天皇家の外戚として絶大な勢力を誇った。
 ただし、書紀には武内宿禰と葛城襲津彦の関係を示す記述はなく、古事記において建内宿禰の子として葛城長江曾都毘古が挙げられているので、これが書紀に見える葛城襲津彦であると考えられている。また書紀では、武内宿禰は、景行天皇が紀伊国に遣わした屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が紀直の祖先である菟道彦(うじひこ)の娘の影媛を娶って生まれた子となっており、葛城氏と紀氏は武内宿禰を介してつながっていることになる。古事記は建内宿禰の子に木角宿禰(きのつののすくね)を挙げており、これが紀氏を指していると思われる。つまり、葛城氏は紀氏との関係をもとに、奈良盆地から紀ノ川を下って大阪湾、瀬戸内海へ出る水路を押さえていたと考えることができる。
 
 話は少し横道にそれるが、菟道彦は以前にも触れた通り、神武が東征を開始してすぐに一行に加えた珍彦、すなわち椎根津彦のことである。珍彦が一行に加わったのは神武が日向を出て宇佐に到着する直前の豊予海峡においてであり瀬戸内海の西端にあたる。そこから宇佐、そして関門海峡を通過して筑紫、瀬戸内海へ戻って東進、途中で安芸、吉備に寄港、安芸と吉備の間には大三島があり、安芸、吉備、大三島はいずれも瀬戸内海航路を押さえる隼人系海洋民族の拠点であることは先述した。椎根津彦は瀬戸内海を西から東へ、これらの海洋民族とコンタクトをとりながら神武一行を難波まで先導し、さらに南進して紀ノ川河口に至った。このルートを逆に見れば紀ノ川から瀬戸内海へ出て西へ進み、関門海峡を経て玄界灘へ至り、その先は対馬海峡を渡れば朝鮮半島である。椎根津彦の後裔にあたる紀氏は大和から朝鮮半島へ至る海路を押さえていたのだ。このように考えると紀氏も隼人系の海洋族であったと言えよう。実は古事記では神武が亀の背に乗る槁根津日子(椎根津彦)に出会って一行に加えたのは吉備を出た後となっている。神武が椎根津彦を一行に加えた場所が記紀で違っているのは、一方が正解で他方が間違いということではなく、椎根津彦は吉備とも関係が深い一族であった可能性を示唆している。

 葛城氏は襲津彦のときに隆盛を極める。神功皇后の時、新羅王の3人の使いが人質を取り返しにきた。皇后は3人の遣使と人質を新羅に戻すために襲津彦を派遣し、襲津彦は必ずしも役目を全うできなかったものの、新羅から漢人の祖を連れて帰国した。皇后はその後も新羅討伐に襲津彦を派遣している。また、応神天皇の時には秦氏の祖である弓月君が百済からやってきて、人民を来日させようとしているのに新羅が邪魔をして加羅国に留まっていると訴えたのに対して襲津彦が加羅国に派遣されている。仁徳天皇の時には、紀角宿禰(木角宿禰)を百済に遣わしたときに百済王族が無礼を働いたので襲津彦が連行して帰国した。これらの記事から襲津彦は朝鮮半島との外交を担っていたと考えられているが、それも前述の海路を紀氏とともに押さえていたことが大きな理由であろう。天皇家による朝鮮半島経営は葛城氏の力を借りなければ成り立たなかったのだ。


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◆事代主神

2016年12月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 事代主の「コトシロ」は「言知る」の意で、事代主神は託宣を司る神のことである。古代においては「言(言葉)」と「事(出来事)」の区別がないため「言」とも「事」とも書く。書紀において事代主神が登場する場面を確認してみる。

 まず第1に、有名な国譲りの場面に登場し、高皇産霊尊の命を受けた経津主神と武甕槌神から国譲りを迫られた大己貴神(大国主神)は自分の子である事代主神に相談してから回答することにした、とある。結果は国を譲るのがよいと答えたあと、海の中に姿を消してしまった。
 次に、朝鮮半島討伐を促した神託に逆らって熊襲を討とうとした仲哀天皇が崩御したときに、神功皇后が自ら神主となって仲哀天皇をそそのかした神の名を知ろうとした場面で、そのなかの一人に天事代於虚事代玉籤入彦嚴之事代主神(あめにことしろしらにことしろたまくしいりびこのいつのことしるのかみ)がいることを告げられる。長い名がついているが要するに事代主神のことである。
 第3に、神功皇后が朝鮮半島遠征を終えた後、筑紫で生まれたばかりの誉田別皇子(応神天皇)を連れて大和に凱旋すべく瀬戸内海を東進したとき、船が前に進まなくなったために占いを試みたところ、天照大神、稚日女尊(わかひるめのみこと)のお告げに続いて事代主尊が「吾をば御心の長田国に祀れ」と告げたため、葉山媛の弟である長媛に祀らせた、とある。
 第4に、壬申の乱の場面で、金綱井(かなづなのい)が軍を起こした時、高市郡大領の高市県主許梅(こめ)は突然、口を閉じて何も言えなくなり、その三日後に神掛かって「吾は高市社に居る、名は事代主神だ。神日本磐余彦天皇の陵に馬と種々の兵器を奉れ。」と言ったという。

 いずれの場面においても事代主神が託宣を司る神であることを伺い知ることができる。政治と祀りが限りなく近い古代において、神のお告げを利用しながら政治を行うことは日常的に行われた。言い換えると、政務者は自身の考えを神に語らせることでその政策を正当化していた。そのように考えると託宣を行なう人は時の政権の中枢に極めて近い存在であったはずである。現代の日本に当てはめると、首相をサポートする側近中の側近であり、政府のスポークスマンでもある官房長官のような存在であろうか。

 鴨都波神社に祀られているのは鴨一族の祖先であり、代々の鴨一族の首長であった。鴨の首長家は4世紀後半に葛城氏となり、政権中枢で天皇の側近中の側近として権勢を誇るに至り、その祖先神が事代主神として祀られるようになったと考える。

 奈良県御所市森脇に葛城一言主神社がある。主祭神は葛城之一言主大神であるが、書紀では「一事主」、古事記では「一言主」と表記され、「言」と「事」の区別がないことがここでもわかる。一言主神(ひとことぬしのかみ)は事代主神と同一であるとされ、記紀において雄略紀に現われる。書紀では、雄略天皇が葛城山中で狩をしていたときに、同じ姿をした人が現われたので名を問いかけたところ、「自分は現人神であるので後で名乗ろう」と答えた。天皇が名乗ったところ「自分は一事主神である」と名乗り、二人は一緒に狩を楽しんだという。天皇と同じ姿をして対等に言葉を交わし、狩を共にする葛城に住む一事主神こそ葛城氏を表していると考えられる。つまり、一事主神=事代主神=葛城氏、ということになる。書紀には先の4つのほかにも次の場面で事代主神が登場する。

 5番目の場面では、大己貴神が国作りを終えたあと、自らの幸魂奇魂を三諸山(三輪山)に祀った話の別伝として、事代主神は八尋熊鰐(やひろのくまわに)となって三嶋の溝クイ姫、別名を玉櫛姫(たまくしひめ)という姫のところに通って出来た子が姫蹈鞴五十鈴姫命であり、この姫は神日本磐余彦(神武天皇)の后となった、とある。
 6番目は、神武即位後に前述の内容を裏付ける記述として、天皇は皇后を迎えようと思って相応しい人物を広く求めたところ、ある人が「事代主神が三嶋溝クイ耳神の娘の玉櫛媛を娶って生んだ子が媛蹈鞴五十鈴媛命といい容姿が優れている」と申し出たので、天皇はたいそう喜んで媛を皇后に迎え入れた、とある。
 7番目は、神武天皇崩御の場面で、第二代の綏靖天皇は神武天皇の第三子であることを記した上で、その母は媛蹈鞴五十鈴媛命といい、事代主神の長女であると紹介している。
 8番目は、第三代安寧天皇の紹介場面で、安寧天皇は綏靖天皇の嫡子で、 母は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)で事代主神の次女であるとしている。
 最後に、第4代懿徳天皇の紹介場面で、懿徳天皇は安寧天皇の第二子で、母は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)といい、事代主の孫の鴨王(かものきみ)の娘である、としている。

 これら一連の記述からは、鴨氏あるいは葛城氏とつながる事代主神は三嶋溝クイ(以降、三島溝杭と記す)と関係があること、事代主神と三島溝杭の娘の間にできた二人の娘が第2代・第3代の天皇の后になっていること、両者の孫が鴨王と呼ばれ、その娘が第4代の天皇の后となっていること、がわかる。これらの天皇の時代は奈良盆地の南半分、とくに葛城地方周辺が拠点となっており、出雲系とのつながりは見られない。それにもかかわらず、この由緒ある事代主神がなぜ書紀では出雲の大国主神の子とされたのか。高鴨神社に祀られる味耜高彦根神も同様で、地元の農耕神であるはずのこの神がどうして大国主神の子になっているのか。葛木御歳神社の御歳神も、神社由緒にあるように稲の神、五穀豊穣をもたらす神がどうして出雲の素戔嗚尊の系譜になるのか。私は高鴨神社の味耜高彦根神と葛木御歳神社の御歳神はともに鴨一族であると考えている。大国主神の子という同じ扱いで味耜高彦根神と兄弟とされている事代主神も加えた3人の神々は鴨族の首長家の人物であったと考える。鴨都波神社には鴨一族の代々の首長が祀られていたが、一族の最盛期を築いた事代主神を祀るに至って、この神社は事代主神の社となった。そして、それよりも少し前の時期に一族の繁栄に貢献した味耜高彦根神と御歳神を分祀してそれぞれ高鴨神社、葛木御歳神社として祀るようになった。高鴨神社が最も高い位置に祀られていることから味耜高彦根神がもっとも古い祖先神であったのだろう。だからこそ「迦毛大御神」とも言われるようになった。このように鴨三社は高鴨神社の由緒に書かれているのとは逆の順序で下から上へと祀られて行ったのである。

 事代主神や味耜高彦根神、御歳神がなぜ出雲の神になったのかを見ていくが、それを明らかにする前にそれらの神々と関係があったと鴨一族、とりわけ葛城氏の盛衰について簡単に確認しておこう



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