話を最終決戦に戻そう。書紀では、饒速日命は神武が持っていた天羽々矢と歩靫を見ただけで忠義の意を表わしたが、それでも戦おうとした長髄彦を饒速日命が斬ったとある。しかし、神武と饒速日命が戦った形跡は見られない。本当に剣を交えなかったのだろうか。神武は東征を開始する時点でこの大和に饒速日命がいることを知っていた。さらに自身の祖先同様に大陸から渡ってきた渡来集団のリーダーであることも知っていた。ただし、饒速日命が同じ江南の一族であることまではわかっていなかったのかもしれない。兄の五瀬命を討たれ、さらには稲飯命や三毛入野命を立て続けに失ったこともあって、最初は戦う意思を強く持っていたものの、いざ対峙してみると互いに同郷の集団であることがわかった。さらには饒速日命が恭順の意を表し、自身の部下を斬り捨てた。やはり二人は剣を交えることがなかったと考えるのが自然であろう。
さて、ここで饒速日命に関する大きな疑問が頭をもたげる。それは、記紀は神武に服従したあとの饒速日命に触れていないことである。勘注系図では大和から再び丹波に戻っている。本紀によると大和で亡くなったとだけ書かれている。これはどういうことであろうか。饒速日命には子がいた。書紀によると長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って可美眞手命を設けた、とある。古事記ではその名が宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)となっているが、この人物が物部氏の系譜につながっていく。本紀においてはそれに加えて、天道日女命を妃として天香語山命を設けたとある。天香語山命は別名として高倉下命を名乗り、神武の熊野上陸後に登場する。勘注系図では高倉下は天香語山命の子、すなわち饒速日命の孫となっているが、この高倉下がのちの尾張氏や海部氏につながるとされている。
尾張氏を考えるくだりのところでも書いたが、饒速日命一族は神武に服従して大和の葛城に定着することになり、そこで尾張氏や鴨氏らとともに神武王朝の執政を支えたのであろう。饒速日命自身は葛城の地で亡くなったであろうが、その後裔が丹後の地を治める役割を担って故郷へ戻ることになったと考える。それが勘注系図の記事であり、また本紀の丹後国造の記事につながっている。
ここまで饒速日命の足跡を追ってきたが、中国江南の地から集団を率いて丹後に漂着し、丹後の地を治めた後に河内、そして大和へ赴いて大和で「美し国」を築いたものの、日向からやってきた神武に屈する、という過程は長い時間を要する。これは饒速日命という一人の人物が成し遂げた事績ではないだろう。饒速日命はこれを成し遂げた集団の代々のリーダーを表す代名詞ではないだろうか。最初のリーダーが江南から丹後に渡り、第2のリーダーが弥生時代前期に大和に入って唐古・鍵地域を開発し、第3のリーダーが弥生前期末にその唐古・鍵で葬られた渡来系弥生人、その後何代かを経て最後のリーダーが神武に敗れた饒速日命だ。弥生前期から後期までの数百年間に存在した複数のリーダーをまとめて饒速日命と称した。
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さて、ここで饒速日命に関する大きな疑問が頭をもたげる。それは、記紀は神武に服従したあとの饒速日命に触れていないことである。勘注系図では大和から再び丹波に戻っている。本紀によると大和で亡くなったとだけ書かれている。これはどういうことであろうか。饒速日命には子がいた。書紀によると長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って可美眞手命を設けた、とある。古事記ではその名が宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)となっているが、この人物が物部氏の系譜につながっていく。本紀においてはそれに加えて、天道日女命を妃として天香語山命を設けたとある。天香語山命は別名として高倉下命を名乗り、神武の熊野上陸後に登場する。勘注系図では高倉下は天香語山命の子、すなわち饒速日命の孫となっているが、この高倉下がのちの尾張氏や海部氏につながるとされている。
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ここまで饒速日命の足跡を追ってきたが、中国江南の地から集団を率いて丹後に漂着し、丹後の地を治めた後に河内、そして大和へ赴いて大和で「美し国」を築いたものの、日向からやってきた神武に屈する、という過程は長い時間を要する。これは饒速日命という一人の人物が成し遂げた事績ではないだろう。饒速日命はこれを成し遂げた集団の代々のリーダーを表す代名詞ではないだろうか。最初のリーダーが江南から丹後に渡り、第2のリーダーが弥生時代前期に大和に入って唐古・鍵地域を開発し、第3のリーダーが弥生前期末にその唐古・鍵で葬られた渡来系弥生人、その後何代かを経て最後のリーダーが神武に敗れた饒速日命だ。弥生前期から後期までの数百年間に存在した複数のリーダーをまとめて饒速日命と称した。
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