箸墓古墳の前方部正面で拝礼したあとは来た道を戻らずに田んぼの畦を通り、自転車を担ぎ上げて45度の傾斜を3メートルほど上って古墳北側の池に出た。この場所は箸墓古墳が紹介されるときによく使われるお決まりの場所だ。例に漏れず、ここで記念撮影をして、次はいよいよ纏向遺跡の中心地へ。まずは県道50号線を北上して纏向石塚古墳。桜井市立纏向小学校の東側にあるこの古墳は纏向遺跡最古の古墳とも言われているが、太平洋戦争中に高射砲設置のために墳丘部が削平されたとのことでもはや古墳の面影はなく、古墳だと言われない限りわからないだろう。
次に向かったのが卑弥呼の神殿跡か、と騒がれた建物群の跡が検出された辻地区。ここが発掘されたときは大騒ぎになったらしいが、現在は全て埋め戻されて線路と民家と田んぼに囲まれたどこにでもありそうな空き地になっている。私が子供の頃はこういう場所は必ずと言っていいほど子供たちの遊び場になっていたが、訪れたときは人の気配もなく、ましてや卑弥呼の存在など微塵も感じられず。おそらくここが纏向遺跡、いや政治都市「纏向」の中心地、私流に言えば邪馬台国の首都とも言える場所だったのだろう。
さて、来た道を西に少し戻って再び纏向小学校へ。今度は北側、小学校の正門を通り過ぎてすぐのところにある纏向勝山古墳。ここは帆立貝型というかシャモジ型の古墳であることがしっかりと認識でき、周溝も半分ほどが残っている。ただ、柵があって墳丘部に入ることができなかった。
次は小学校の西側、正門前の道路をぐるっと左に折れたところの纏向矢塚古墳。ここは前方部が失われていて後円部のみの円墳状態になっている。こんもりした低い小山という感じで、歩いて墳丘頂上へ。Oさん、Sさんはあまり興味がないのか、ついて来ない。登るというにはあまりに低い墳丘であり、登ってみても何もないが、この下には誰が葬られていたのだろうか、と想像することは楽しい。
纏向小学校を囲むように、東に石塚古墳、北に勝山古墳、西に矢塚古墳。まるで香具山、耳成山、畝傍山の大和三山を彷彿とさせる配置である。大和三山の中心には藤原宮があったが、これらの古墳の中心には何があったのだろうか。それは纏向大溝だ。幅約5m、深さ約1.2mの北溝と南溝の2本の溝が纏向小学校の校庭で「人」の字形に合流しており、そこはまさにこれら3つの古墳を結ぶ中心にあたる場所であった。
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さて、来た道を西に少し戻って再び纏向小学校へ。今度は北側、小学校の正門を通り過ぎてすぐのところにある纏向勝山古墳。ここは帆立貝型というかシャモジ型の古墳であることがしっかりと認識でき、周溝も半分ほどが残っている。ただ、柵があって墳丘部に入ることができなかった。
次は小学校の西側、正門前の道路をぐるっと左に折れたところの纏向矢塚古墳。ここは前方部が失われていて後円部のみの円墳状態になっている。こんもりした低い小山という感じで、歩いて墳丘頂上へ。Oさん、Sさんはあまり興味がないのか、ついて来ない。登るというにはあまりに低い墳丘であり、登ってみても何もないが、この下には誰が葬られていたのだろうか、と想像することは楽しい。
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邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) | |
石野 博信 | |
新泉社 |
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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |