古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

荒神谷遺跡(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.20)

2017年04月02日 | 実地踏査・古代史旅
 加茂岩倉遺跡で39個もの銅鐸の埋納を見た後は荒神谷遺跡だ。遺跡発見のきっかけとなった出雲ロマン街道を走る。この道路は遺跡を保存することを優先して当初ルートを変更して建設が進められた。その変更されたルートを走っているのだ。荒神谷遺跡は島根県出雲市斐川町神庭にある遺跡で358本もの銅剣に加えて銅矛と銅鐸がまとめて発見された。前回訪問時の記憶をもとに書いた記事がこちら

 この日の朝から訪ねたところは、最初が原神社古墳、その次は加茂岩倉、そしてここの地名が庭である。出雲はとことん「神」の国である。遺跡を含めて周辺は史跡公園として整備されている。だから駐車場も広い。しかし最近は訪れる人も少なくなったのだろう、関係者のものと思われる車が2台ほど停まっているだけだった。入り口を入って右手に荒神谷博物館があるが、ここでもまず遺跡を見ることにした。反対側の建物にボランティアガイドの案内があり、中には2人のおじさんがすわっていた。お願いするとすぐに1人の方が対応してくれた。「時間はどれくらいあるか」と尋ねられたので「30分ほど」と答えると「30分で博物館も含めて全部説明するのは無理」と言われた。ここで1時間を費やす余裕はなかったので45分でお願いすることにした。ちなみにおじさんの名は品川さんだ。

ガイドのスタートはこの年表の説明から。


続いて遺跡の概要の説明。


そのあと遺跡まで少し歩く。途中で見つけた小さな案内。


 荒神谷遺跡は昭和58年に出雲ロマン街道の建設にともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見された。ここはその土器片を拾った場所。調査員がここで土器片を見つけていなかったら世紀の大発見は無かったかもしれない。あるいは加茂岩倉遺跡のように、工事中にショベルカーが大量の銅剣をすくい上げることによって発見されたのかもしれない。
 遺跡分布調査とは、遺跡の有無を広域にわたって把握するために踏査を行なって遺物の表面採集を行なうことを言う。つまり、調査地域を歩き回って遺構や遺物と思しきものの有無を視認するだけの調査であり、これで何か見つかれば発掘調査へと進められるが、何も見つからなければそれでおしまいなのだ。土器片を見つけた調査員の功績は大きい。

待ちに待った銅剣の出土現場。

加茂岩倉ほどではないが同じように山あいの斜面に埋納されていた。加茂岩倉でこの雰囲気を覚えておいてと二人に伝えたけど、とっくにお忘れのようであった。黄色のジャンパーがガイドの品川さん。

左側に銅剣、右側に銅矛と銅鐸。

いずれもレプリカを使って発掘時の状況を再現している。試掘された箇所がよくわかるが、それ以外のところは掘られていないとのこと。掘ってみたい衝動に駆られる。





 品川さんの説明が非常にわかりやすく、また知識も豊富なようだったので「358本という銅剣の数は出雲国風土記に記される神社の数と近しい数字であることから、各神社から集められて埋納されたという説もあるんですよね」と投げてみると「そうきますか」と返ってきた。ご本人に確認すると、考古学の専門家でも何でもないとのことだ。加茂岩倉の館長代理の爺さんといい、ここの品川さんといい、ボランティアとして働き始めてから勉強されたという。考古学や古代史なんて興味のない人には全くつまらない学問のはずだ。それなのにこのお二人が門外漢でありながらこの仕事を選択されたのは「出雲人の血」ではないだろうか。素晴らしいし、うらやましい。

 天気も良く、品川さんとの会話もはずみ、思わず時間を費やした。最後に荒神谷博物館に入ると、今の時代に作られた銅剣の実物を持ち上げて重さを確認するコーナーがあった。銅剣は想像以上に重かった。料金200円を払えばさらに詳しい展示を見ることができたのだが、内容は銅剣などのレプリカの展示や発掘時の様子を映像で紹介されている程度ということだったのでパスすることにした。

品川さんのおかげでここでも有意義な見学ができた。ここ荒神谷と先の加茂岩倉ともに、Sさん、Oさんの強い念が館長代理の爺さんと品川さんを降臨させたのだ。

 さあ、次に目指すは巨大な四隅突出型墳丘墓が並ぶ西谷墳墓群。ここはOさんが2年ほど前から「行ってみたい、絶対に行きたい」と異常なまでに執着心を示していたところだ。そして私も同様に一度は行っておかねば、と思っていた場所だ。
 


コメント
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