古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

平塚川添遺跡(北九州実地踏査ツアー No.20)

2018年01月17日 | 実地踏査・古代史旅
高良大社をあとにして次に向かったのが福岡県朝倉市平塚にある平塚川添遺跡。朝倉市は2006年に甘木市・朝倉町・杷木町が合併して朝倉市になったのだが、邪馬台国マニアにとって甘木・朝倉という地名は誰もが知るところではないだろうか。安本美典氏はこのあたりを邪馬台国の所在地として比定し、さらにここを中心とした北九州の地名と大和の地名が驚くほど酷似していて、その相対的な位置関係もほとんど同じであることから、この甘木・朝倉にあった邪馬台国が大和に東遷したといういわゆる「邪馬台国東遷説」を唱えている。このことを知らない邪馬台国マニアはいないであろう。



遺跡は平成6年(1994年)に国の史跡に指定され、平成13年(2001年)に「平塚川添遺跡公園」として開園された。到着していつも通りに見学前の情報収集と思って入り口にある体験学習館に入ったが閑散としており、出土品の展示などもなかった。廊下に貼られた数枚の資料だけが遺跡であることを物語っていた。職員の方が事務所から出てきたので説明をしてもらおうかと思っていると、最近赴任してきたばかりで説明ができないという。しかも説明ができるガイドは体験学習に訪れた子供たちの対応で出払っていて、話を聞ける人は誰もおらず、有益な話は何一つ聞けなかった。





この平塚川添遺跡は弥生時代中期から古墳時代初頭の環濠集落遺跡で、筑紫平野の東端近く、朝倉市域西部の沖積平野に位置している。筑後川支流の小石原川の氾濫原、標高20メートル程度の微高地にある。



遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡が検出されている。別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。

遺跡全体の復元図。

この説明板は見ての通り、塗りが剥げ落ちていてボロボロだ。

全体図にGoogleマップの航空写真を並べてみる。

「中央集落」の真ん中に大型建物4棟が並んでいて、その左側(北東)にも大型建物1棟が確認できる。(破線楕円部分)

4棟の大型建物のうち、2棟が復元されている。

これは祭殿を想定してるらしい。どうみても大型倉庫だ。

北東隅の1棟の大型建物。

こちらは首長の館ということだ。高床式ではない住居として復元されていて、少し違和感を感じた。

復元された高床式倉庫や竪穴式住居。


水が湛えられた環濠。


この朝倉市は昨年の北九州豪雨で甚大な被害が発生したところだ。前述の赴任したばかりの職員の方によると、この事務所におられる職員の方々も総出で被害からの復旧にあたってこられたそうだ。遺跡にある竪穴住居の中も水深30センチほど水が溜まっていた。
佐々木さんはここを訪ねる前から何かの形で支援したいと言ってきたのだが、旅行者の私たちができることと言えば買い物や飲食でお金を使うことだと思ってやってきた。ところが、大分自動車道を甘木インターで降りて遺跡に来てみると、田畑と工業団地に囲まれた中にあって飲食や買い物をするところはなく、残念だったけど何もできずに遺跡をあとにすることにした。
コメント
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