古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

香椎宮(北九州実地踏査ツアー No.18)

2018年01月13日 | 実地踏査・古代史旅
筥崎宮から15分ほどで香椎宮に到着。ここも9月に来たばかりで、そのときはJR香椎駅から徒歩で参拝した。(前回訪問時の記事はこちら

香椎宮は福岡市東区香椎にあって、主祭神は仲哀天皇と神功皇后で、応神天皇と住吉大神を配祀する。少し長くなるが、神社公式サイトから由緒、起源、由来を転載する。

由緒
香椎宮は仲哀天皇九年(200)、神功皇后躬ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源であります。
神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(723)に皇后御自身の御神託により、朝廷が九州に詔して社殿の造営を創め聖武天皇の神亀元年(724)に竣工したもので、此の両宮を併せて香椎廟と称しました。
明治以来には官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称しております。

起源
当宮の起源を申しますと、おおよそ西暦200年、今から1800年前にさかのぼります。
当宮御祭神である仲哀天皇(足仲彦天皇 タラシナカツヒコスメラミコト 14代)は、熊襲の反乱を鎮めるべく、神功皇后共々この香椎の地(筑紫 橿日宮)におこしになられました(仲哀天皇8年 199年)。しかし、志なかば仲哀天皇はこの香椎の地にて崩御されました(住吉大神の御神託)。
その後、神功皇后(気長足姫尊 オキナガタラシヒメノミコト)は神のお告げを受けて、海を渡り新羅を平定され、凱旋後、仲哀天皇様の御霊をしずめるべく神功皇后自らお祭されたのが香椎宮の起源となります。

由来
神功皇后は凱旋後、宇美にて皇子、後の八幡大明神・15代応神天皇様(誉田別命ホムタワケノミコト)をお産みになられます。八幡信仰は、後に源氏の氏神・戦神として全国広く信仰されるわけですが、そのため当宮は八幡様の親神様といわれております。
また当宮は古くは「香椎廟」と呼ばれ、朝廷より特別な待遇を受けておりました。そのため、延喜式神名帳には記載されておりません。正式に「香椎宮」となったのは明治以後でございます。

 本朝四所  伊勢神宮 石清水八幡宮 香椎宮 気比神宮

また、「続日本紀」天平九年(737)夏四月乙巳朔条に「使を伊勢神宮・大神社・筑紫の住吉・八幡二社(宇佐)・及び香椎宮に遣わし、幣を奉り新羅無礼の状を告げしむ」とある。
当初、当宮は現在の古宮に仲哀天皇・現在の本殿の地に神功皇后をお祭りしていたのですが、大正4年11月10日より、この本殿にて仲哀天皇・神功皇后を主祭神として、皇子の八幡様・応神天皇・新羅遠征にご功績あった住吉大神を併せ祀っています。


翻訳、整理するとこうなる。
第14代仲哀天皇は熊襲征伐のためにこの香椎の地にやってきて后の神功皇后と合流した。しかし神功皇后に新羅を討てと言う神のお告げがあった。天皇はこのお告げに従わずに熊襲を討とうとして亡くなった。その後、皇后は朝鮮半島へ渡って新羅を征伐して凱旋帰国、この地に亡き天皇を祀る祠(古宮)を建てた。そして皇后は近くの宇美の地でのちに八幡神となる応神天皇を産んだ。その後、時代が下って元正天皇の723年、この地に自らを祀る社殿を建てるように神功皇后のお告げがあり、聖武天皇が即位した翌724年に竣工した。神功皇后が建てた仲哀天皇を祀る古宮と聖武天皇の時に建てられた神功皇后を祀る宮(現在の本殿の地)を合わせて香椎廟と呼んでいたが、大正4年になって神功皇后を祀る本殿地(香椎宮)に仲哀天皇を遷座、合祀し、あわせて八幡神である応神天皇と新羅征討に従軍した住吉大神を祀った。


この香椎の地は仲哀天皇が崩御した地である一方、八幡神である応神天皇誕生の地でもあり、さらには神功皇后による新羅征伐の大本営が置かれた地である。また、これら一連の出来事において、主役の神功皇后のそばにたえず仕えていたのが側近の武内宿禰である。神功皇后と武内宿禰、そして応神天皇はこの地で古代史の大転換点を作ったのだ。配祀される住吉大神は武内宿禰であるという説もある。

この鳥居の先が境内。(前回訪問時の写真)

西鉄香椎宮前駅から1分、JR香椎駅から6分のところにある頓宮前から続く約1キロの参道を勅使道といい、その勅使道の終点がこの鳥居だ。勅使道はその昔、天皇の使いである勅使が参向するときと神幸式(神霊の御幸)のときだけ使用されたという。道の両側には大楠の並木が続いている。大分八幡宮、筥崎宮に続いてここ香椎宮でも大楠が登場した。

楼門。(上は前回訪問時の写真)


楼門の扉には菊の御紋。

武内宿禰の像。(前回訪問時の写真)


綾杉。

楼門をくぐった正面に立つ神木。「綾杉」の名は杉の葉が交互に生える様を綾に例えたことによる。神功皇后が三韓征伐から帰国した際、剣・鉾・杖の三種宝を埋め、鎧の袖に挿していた杉枝を植えたものという。それくらいの樹齢を感じさせるほどの老木だった。

拝殿。


本殿を横から。(前回訪問時の写真)


境内を出てすぐのところにある古宮。


仲哀天皇大本営御旧跡。


古宮からさらに数分のところには武内宿禰がこの地に駐留しているときに住んだ屋敷跡とされるところがある。そこには不老水と呼ばれる霊泉がある。武内宿禰がこの水によって300歳をこえる寿命を得たことによる。

ここには仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武内宿禰の痕跡が認められる、というかそれらがそろい過ぎている。香椎宮の本殿の創建が724年、すなわち記紀が奏上された後であることから記紀の説話をもとにしたテーマパークと言えないこともない。しかし、古宮の存在がそれを否定しているのではないだろうか。実際に訪れてこの地を自らの脚で歩き、五感で雰囲気を感じると、古代史の大転換点の舞台であったことを感じざるを得ない。

次の訪問地も神功皇后、応神天皇、武内宿禰にゆかりのある高良大社だ。
コメント
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