古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

小迫辻原遺跡(北九州実地踏査ツアー No.21)

2018年01月19日 | 実地踏査・古代史旅
平塚川添遺跡をあとにして再び大分自動車道を走り、次の目的地である小迫辻原遺跡(おざこつじばるいせき)に向かいました。日田インターを降りて10分ほどで到着。遺跡が高速沿いにあるのは事前の情報収集でわかっていたものの、本当にここで合っているのかと疑いたくなるようなところでした。細い坂道を上がって最後は高速下のトンネルをくぐって左折、さらに坂道を上るとだだっ広いところに出るのですが、そこがまさに遺跡の場所でした。

小迫辻原遺跡は大分県日田市にあって日田盆地北部の通称辻原と呼ばれる標高120メートルほどの台地上に広がる旧石器時代から中世までの広範囲の年代にわたる複合遺跡である。ここまで坂道を上ってきたので確かに台地の上にあることが実感できた。台地の上はまっ平らな土地で前述のように広い空き地が広がっており、遺跡はすでに埋め戻されて一部が田畑になっていました。大分自動車道の建設に先立って大分県教育委員会によって1985年から行なわれた発掘調査で、弥生時代から古墳時代にかけての住居跡や墳墓などが発掘された。なかでも3基の環壕居館の遺構は出土した土器から3世紀末から4世紀初頭のものと推定され、日本最古の豪族居館跡と考えられている。


黄色の点線で囲ったところが遺跡の位置。北(写真左側)から南にせり出した山地の端っこにできた台地の上。白い線は古代にはおそらくここを川が流れていたであろうと思って加筆してみた。

ここは北部九州のど真ん中にあたり筑後川水運の要衝の地です。先に訪ねた高良大社や平塚川添遺跡から豊前、豊後へ抜けるときの中継点になり、また逆のコースで言えば瀬戸内海から豊前、豊後に上陸して筑後川を使って有明海へ抜ける、あるいは福岡平野へ向かうときの中継点ということなる。畿内や山陰系の土器が多数出土していることから、大和や出雲との交流が盛んに行なわれたことが窺え、大和政権の出先機関があったのではないかという説もある。

とにかく広くて何もない。


遺跡の説明とか全体図とか、出土品のこととか、通常ならそういう案内板が立っているのだけど、ここを訪れたときにそれを見つけることができなかった。見たのはただひとつ、意味なくでっかい看板。高速道路からも見えないし、空から見るわけでもないし、誰のために立てたのだろうか。



しかし、この記事を書くにあたってあらためてGoogleMapの航空写真をよく見てみると、遺跡の端っこの高速道路に沿った道に案内板があるのを発見してしまった。

GoogleMapのストリートビューのキャプチャー。

行ったときにはこれはなかったような気がするなあ。


細い矢印が車で遺跡にやってきたときの進入経路。その上の太い点線が上述の大きな看板の位置。写真下のふたつの線が今回わかった案内板の位置。この案内板、実は私たちに背を向けるように立っていたようだ。いや、本当に立っていたのだろうか。

とにかくここでは何も見ることができなかった。しかし、この遺跡が日田盆地を見下ろす台地の上にあることだけはしっかりと確認することができた。写真を撮って5分ほどで退却だ。

ここからは国道212号線を走って宇佐へ向かう。よくよく考えるとこの日のルートは、博多から筑紫平野に抜け、筑紫平野の中心地にある高良大社から筑後川をさかのぼって平塚川添遺跡へ、そしてさらに中継点である日田の小迫辻原遺跡を経て豊前国の宇佐へ向かうという古代においても重要幹線であったと考えられるルートを通っているのだ。
そして途中、紅葉が盛りの耶馬溪を通過する。このルートを組んだ時点で必ず寄りたいと思っていた場所が「青の洞門」だった。小学三年の時に国語の授業で菊池寛の「恩讐の彼方に」を習って以来、一度見てみたいと思っていたところだ。









手掘りのトンネルは川面からほんの少し高いところだが、トンネルが掘られる前はこの断崖絶壁の上を歩いていたのだろうか。通行人が時々落ちて亡くなったというのだからそういうことなんだろう。まさかトンネルの高さからは落ちても亡くなることはないだろうから。そんな説明はどこにもなかったが。それと、何もこんな断崖絶壁を通らなくともこの川を船で行けばいいだろうし、対岸は平地だから船で対岸へ渡るという手もあっただろうに。行ってみたいと思い続けて40数年、いざ来てみるとそんな疑問だけが残ってしまった。禅海和尚が30年もかけて掘ったトンネルも車だとわずか数秒で通過してしまった。
コメント
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