古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

男50歳からの古代史構想学(11)

2020年09月04日 | 古代史構想学
■原始信仰と記紀神話の融合

前回の熊野本宮大社から今回は熊野速玉大社、神倉神社、阿須賀神社を紹介します。
 
熊野速玉大社は新宮川の河口近くにあって、祭神は熊野速玉大神と熊野夫須美大神となっており、これまた聞いたことのない神様ですが、伊邪那岐神と伊邪那美神のことだそうです。神社公式サイトを見ると「熊野の神々はまず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり「新宮」と称した」となっており、このことが新宮市の名の由来にもなっています。社殿はすべて朱塗りになっているので本宮大社のような趣や歴史を感じることができませんでした。
 

 (熊野速玉大社本殿)
 
この速玉大社を出て少し南に歩いていくと前述の神倉山があり、その中腹に神倉神社があります。油断すると転げ落ちそうな急な石段を五百数十段も登ったところに御神体のゴトビキ岩があり、その前に小さな祠が立っています。この石段は本当に危険で、神社の公式サイトにも「急勾配なので、御年配の方は下の鳥居でご参拝下さい。また、飲酒者や踵の高い靴での登拝は、危険防止上、お止め下さい。」と書かれています。実際に行ってみると、上りよりも下りのほうが怖くて、情けないかな、へっぴり腰にならざるを得ませんでした。
 

 (へっぴり腰の佐々木さんと岡田さん)
 
このゴトビキ岩は神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)と言われており、日本書紀には「遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進」と記されています。
 

 (ご神体のゴトビキ岩)
 
2月には御燈祭というのがあって、松明を持った男衆がゴトビキ岩から麓まで急峻な石段を一気に駆け下りるというのです。この石段を経験してみると「駆け下りるなんてとんでもない。死人が出てもおかしくない」と思うのですが、地元出身の友人に聞くと「大丈夫ですよ」とサラリと言われました。

 御燈祭の情報→http://travel.nankikumano.jp/omatsuri/otoumatsuri/
 

神倉神社の次に向かったのが新宮川のさらに河口寄りにある阿須賀神社。主祭神は、事解男命(コトサカノオノミコト)、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神。事解男命以外はすでに見てきた速玉大社と本宮大社の神様だけど、事解男命はまた初耳の神様です。でも、調べてみると次のような話で日本書紀に登場していることがわかりました。
 
イザナギは亡くなった妻のイザナミに会いたいと思って黄泉の国に行ったとき、その穢れた体を見て引き返そうとした。イザナミは黙って帰らせず 「別れましょう」と言うと、 イザナギは 「負けない!」と言い返した。その時に吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)、次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が生まれた。

速玉之男は熊野速玉大社の祭神である熊野速玉大神と言われています。そして泉津事解之男がこの阿須賀神社に祀られる事解男命のことです。
 

 (阿須賀神社)
 
神社の背後には神奈備山の典型と言ってもいいお椀を伏せたような形の蓬莱山があり、境内からは弥生時代の遺跡が出ています。ここでも記紀以前の原始信仰があったことがわかります。
 
また、神社境内には徐福の宮と呼ばれる小さな祠があり、徐福が探し求めた不老不死の妙薬と言われている天台烏薬(てんだいうやく)の木が育っていました。ここ新宮は徐福伝説にあふれる街で、JR新宮駅前は「徐福」という地名で、そこには徐福公園があり、その中には徐福の墓までありました。
 

 (徐福公園。まさにテーマパークだ)
 
熊野の神社を訪ねて感じたことは、それぞれの祭神が記紀に登場する神々に少々強引にこじつけられているな、ということです。熊野のそれぞれの神社にはもともと地元の神様が祀られていたと思うのです。神倉神社なんかはその典型で、原始的な磐座信仰に始まっているのは明らかです。そして3世紀中頃(と私は考えている)に神武東征があって、4世紀から5世紀にかけて大和政権が確立され、8世紀初めにその経緯が古事記、日本書紀に記されました。つまり、古事記や日本書紀は時の政権が編纂した歴史書であり、ここに登場する神様は政府公認の神様と言えるのです。

しかし、出雲や大和の葛城と違って熊野が記紀に登場するのは神武東征の一場面のみで、神様として祀るべき人物もほとんどいません。それでも記紀ゆかりの土地として、有難い記紀の神様にあやかろうとスサノオノミコトやイザナギ・イザナミなどを無理やり持ってきたのではないでしょうか。
 
ちなみに、熊野詣が盛んになるのは記紀編纂からずっとあと、10世紀以降のことと考えられています。記紀が編纂された頃の熊野は住む人もほとんどなく、大和から見ると遥か彼方の僻地でした。だからこそ私は、神武天皇が大和に入るためにわざわざ遠回りしてこの熊野にやって来たのは史実であったと考えるのです。
 
日の皇子である神武天皇は太陽を背にして戦おうと紀伊半島を迂回し、東から大和に入ろうとしました。紀伊半島を迂回して大和の東から、となれば伊勢あたりに上陸することを目指したはずです。ところが、熊野で嵐にあって遭難し、上陸を余儀なくされたのです。神話として創作するのであれば無事に伊勢まで行かせればよくて、わざわざ熊野で遭難させる理由がないと思うのです。だから私は、神武天皇が紀伊半島を迂回して熊野までやってきたこと、ここで遭難して上陸したことを史実と考えるのです。
 
 
次回は、熊野古道を歩いて熊野那智大社を参った様子を紹介します。 (第12回へつづく)


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