■熊野はややこしい
今回より実地踏査の舞台を奈良の葛城から和歌山の熊野に移したいと思いますが、ここで奈良の纒向を一緒に回った岡田さんと佐々木さんに再び登場していただきます。
昨年2016年の2月、記紀の神武東征説話と徐福伝説を訪ねて、私たち三人は私の自宅がある大阪の富田林を出発地として一泊二日の熊野ツアーに出かけました。熊野へは国道168号線で奈良県十津川村を縦断するルートです。余談になりますが、途中、岡田さんがどうしてもと主張されたので、古代史とは関係ないのだけど、日本一高い吊橋である「谷瀬の吊橋」に立ち寄りました。ここで意外な事実が発覚。佐々木さんが吊橋を渡らないとおっしゃるのです。理由をたずねると、なんと高所恐怖症とのこと。
長いお付き合いなのに初めて知る事実。やむなく二人で渡ることにしました。とは言うものの、私はここには毎年キャンプで来ていて何度も渡った経験があったので、実は岡田さん一人の為であったと言っても過言ではありません。来年には田舎の高松に戻られる岡田さんにとってはいい思い出になったことでしょう。
(谷瀬の吊橋)
車は山の中をひたすら走り続け、熊野本宮大社へ到着。ここでまず、熊野あるいは熊野三山についておさらいをしておきましょう。熊野の地名が日本の歴史に最初に登場するのは720年に完成した日本書紀です。その神代紀に「イザナミが死んだときに熊野の有馬村に葬られた」と記されています。平安時代に浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土とみなされて歴代の上皇が御幸(ぎょこう)しました。その信仰は民間にも広がり「蟻の熊野詣」と称されるほどに各地からこぞって熊野へ参詣する人で賑わいました。その参詣のための道が現代によみがえり、熊野古道ともてはやされているのです。熊野にある「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社をあわせて熊野三山といいます。熊野は特に平安時代の神仏習合における仏教的な要素が強く残っているために「山」という表現が使われ、さらに熊野の神様も熊野権現と言ったほうが通りがいいようです。
ここは全国に三千社ある熊野神社の総本社で、祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)であり、この神様はスサノオノミコトのことであるとされています。なぜ家津美御子大神がスサノオノミコトのことなのか、私はよくわかっておりません。実は出雲にも熊野大社があって、こちらもスサノオノミコトが祭神になっています。出雲にスサノオノミコトを祀る神社があるのは当たり前と思えるのですが、紀伊の熊野にあるのは理解が難しい。出雲の熊野大社の社伝によると、熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元である、となっているとのこと。熊野本宮大社は全国熊野神社の総本社であると主張し、もう一方の出雲側はその総本社は出雲の熊野大社から勧請されたと主張する。どちらも由緒ある大社だけに「本家はこっちだ」と主張しているように聞こえませんか。おそらく、出雲から熊野に勧請されたのでしょう。そう考えると紀伊の熊野にスサノオノミコトが祭られる理由が理解できます。
(熊野本宮大社 本殿)
しかし、この熊野本宮大社では主祭神よりも有名なのが日本サッカー協会のシンボルにもなっている三本足の八咫烏です。記紀の神武東征に登場し、熊野から大和まで神武一行を導いた「導きの神鳥」とされています。この八咫烏は賀茂氏(鴨氏)の祖先と言われていますが、これについてはまた機会があれば触れたいと思います。
(本殿鳥居横に立つ八咫烏のノボリ)
本宮大社は現在の本殿から約500メートルのところ、もともと新宮川の中州だったところに元の本殿がありました。明治22年の大水害で何から何まで流された結果、現在のところに再建されました。流された跡地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、摂社や末社が祀られています。
(大斎原への参道。神々しい)
現在の本殿も厳かな空気に包まれた素晴らしい雰囲気があるのですが、この大斎原も神々しくて有難く感じるところです。熊野を訪れた際にはぜひお参りしてください。
この熊野本宮大社では、神武天皇の一行は東征の際に本当にこの熊野までやってきたのか、本当に険しい山中を大和までどのようにして辿りつくことができたのか、という疑問がわいてきました。紀伊半島の海岸沿いに難波から熊野へ回ってきたこと、八咫烏の導きで熊野から大和へ行軍したことを感じ取りたかったのが、逆の気持ちになってしまい頭が少し混乱しました。
次は新宮川を河口近くまで下ったところにある熊野速玉大社ですが、ここはさらによくわからないところでした。また次回。 (第11回へつづく)
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素人学習の成果を2冊の本にまとめることができました。アマゾンで電子版を販売していますので是非ご覧ください。
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今回より実地踏査の舞台を奈良の葛城から和歌山の熊野に移したいと思いますが、ここで奈良の纒向を一緒に回った岡田さんと佐々木さんに再び登場していただきます。
昨年2016年の2月、記紀の神武東征説話と徐福伝説を訪ねて、私たち三人は私の自宅がある大阪の富田林を出発地として一泊二日の熊野ツアーに出かけました。熊野へは国道168号線で奈良県十津川村を縦断するルートです。余談になりますが、途中、岡田さんがどうしてもと主張されたので、古代史とは関係ないのだけど、日本一高い吊橋である「谷瀬の吊橋」に立ち寄りました。ここで意外な事実が発覚。佐々木さんが吊橋を渡らないとおっしゃるのです。理由をたずねると、なんと高所恐怖症とのこと。
長いお付き合いなのに初めて知る事実。やむなく二人で渡ることにしました。とは言うものの、私はここには毎年キャンプで来ていて何度も渡った経験があったので、実は岡田さん一人の為であったと言っても過言ではありません。来年には田舎の高松に戻られる岡田さんにとってはいい思い出になったことでしょう。
(谷瀬の吊橋)
車は山の中をひたすら走り続け、熊野本宮大社へ到着。ここでまず、熊野あるいは熊野三山についておさらいをしておきましょう。熊野の地名が日本の歴史に最初に登場するのは720年に完成した日本書紀です。その神代紀に「イザナミが死んだときに熊野の有馬村に葬られた」と記されています。平安時代に浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土とみなされて歴代の上皇が御幸(ぎょこう)しました。その信仰は民間にも広がり「蟻の熊野詣」と称されるほどに各地からこぞって熊野へ参詣する人で賑わいました。その参詣のための道が現代によみがえり、熊野古道ともてはやされているのです。熊野にある「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社をあわせて熊野三山といいます。熊野は特に平安時代の神仏習合における仏教的な要素が強く残っているために「山」という表現が使われ、さらに熊野の神様も熊野権現と言ったほうが通りがいいようです。
ここは全国に三千社ある熊野神社の総本社で、祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)であり、この神様はスサノオノミコトのことであるとされています。なぜ家津美御子大神がスサノオノミコトのことなのか、私はよくわかっておりません。実は出雲にも熊野大社があって、こちらもスサノオノミコトが祭神になっています。出雲にスサノオノミコトを祀る神社があるのは当たり前と思えるのですが、紀伊の熊野にあるのは理解が難しい。出雲の熊野大社の社伝によると、熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元である、となっているとのこと。熊野本宮大社は全国熊野神社の総本社であると主張し、もう一方の出雲側はその総本社は出雲の熊野大社から勧請されたと主張する。どちらも由緒ある大社だけに「本家はこっちだ」と主張しているように聞こえませんか。おそらく、出雲から熊野に勧請されたのでしょう。そう考えると紀伊の熊野にスサノオノミコトが祭られる理由が理解できます。
(熊野本宮大社 本殿)
しかし、この熊野本宮大社では主祭神よりも有名なのが日本サッカー協会のシンボルにもなっている三本足の八咫烏です。記紀の神武東征に登場し、熊野から大和まで神武一行を導いた「導きの神鳥」とされています。この八咫烏は賀茂氏(鴨氏)の祖先と言われていますが、これについてはまた機会があれば触れたいと思います。
(本殿鳥居横に立つ八咫烏のノボリ)
本宮大社は現在の本殿から約500メートルのところ、もともと新宮川の中州だったところに元の本殿がありました。明治22年の大水害で何から何まで流された結果、現在のところに再建されました。流された跡地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、摂社や末社が祀られています。
(大斎原への参道。神々しい)
現在の本殿も厳かな空気に包まれた素晴らしい雰囲気があるのですが、この大斎原も神々しくて有難く感じるところです。熊野を訪れた際にはぜひお参りしてください。
この熊野本宮大社では、神武天皇の一行は東征の際に本当にこの熊野までやってきたのか、本当に険しい山中を大和までどのようにして辿りつくことができたのか、という疑問がわいてきました。紀伊半島の海岸沿いに難波から熊野へ回ってきたこと、八咫烏の導きで熊野から大和へ行軍したことを感じ取りたかったのが、逆の気持ちになってしまい頭が少し混乱しました。
次は新宮川を河口近くまで下ったところにある熊野速玉大社ですが、ここはさらによくわからないところでした。また次回。 (第11回へつづく)
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