■武内宿禰の誕生と終焉
武内宿禰の誕生については記紀の記事で見たとおりであるが、両者には少し違いがある。日本書紀では、孝元天皇と妃である伊香色謎命との間に生まれた彦太忍信命が武内宿禰の祖父とあり、また、景行天皇の時に紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って生まれたのが武内宿禰である。つまり、系譜としては「孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心命→武内宿禰」となる。
一方の古事記では、孝元天皇と伊迦賀色許売命(伊香色謎命)の子である比古布都押信命(彦太忍信命)が木國造の祖先である宇豆比古(菟道彦)の妹、山下影日売(影媛)を娶ってできた子が建内宿禰である。系譜は「孝元天皇→比古布都押信命→建内宿禰」となる。要するに、古事記は屋主忍男武雄心命を飛ばして一世代少なく書かれているのだ。現時点でその理由はよくわからない。
次にその生誕の地について見てみる。書紀では、紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が阿備の柏原で9年間滞在している間に紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って武内宿禰が生まれたとあるので、生誕地は紀伊国である。阿備の柏原は現在の和歌山市松原字柏原とされており、ここには武内神社があって武内宿禰が祀られている。また、境内には武内宿禰の産湯を汲んだとされる武内宿禰誕生井が残されている。一方、古事記では場所の言及はないが、比古布都押信命が木国造の祖先である宇豆比古の妹、山下影日売を娶ってできた子とあり、木国=紀国であることから書紀と同様に紀国で生まれたと解釈してよいだろう。
書紀ではこのほかに武内宿禰と紀伊のつながりが2カ所に出てくる。ひとつは神功摂政前紀の仲哀10年2月の記事である。香坂王・押熊王の兄弟による反乱に際し、皇后はこれを迎え撃つために畿内に戻ろうとするが、忍熊王が待ち構えていることから、武内宿禰に命じて誉田別皇子(のちの応神天皇)を連れて迂回させ、南海から紀伊の水門へ向かわせた、という話。もうひとつは応神紀9年の記事。武内宿禰が筑紫にいた時、弟の甘美内宿禰の讒言によって天皇から命を狙わる身となり、無実を訴えるために筑紫を出て朝廷に向かおうとして、船で南海を回って紀の水門に入った後、無事に朝廷に入ることができた、という話である。
いずれの記事にも登場する紀伊水門(紀水門)は紀ノ川の河口付近であるが、紀ノ川流域を含めて紀氏の本拠地である。この紀ノ川を遡って現在の五條市あたりで上陸して北上すれば大和の葛城に入ることができる。葛城氏の本拠地である。古事記によれば紀氏、葛城氏ともに武内宿禰の直系氏族である。武内宿禰は両氏とのつながりによって紀ノ川流域から大和の葛城にかけての一帯に所縁があったと思われる。そう考えると、その生誕地はやはり紀伊国であると考えるのが妥当ではないだろうか。
ところで、佐賀県に武雄神社がある。ここには武内宿禰と父である武雄心命が祀られていて、ここが武内宿禰の生誕地という説もあるようだ。神社公式サイトによると、創建は神功皇后の三韓征伐のあとで、さらに武内宿禰が祀られるようになったのは天平7年(735年)とされている。創建時から武内宿禰を祀っているのであれば生誕地としての可能性はあるだろうが、記紀編纂後の合祀であるなら後付けであることは否めないので、この神社を生誕地とすることはできない。
次に終焉の地を考えてみたい。記紀ともに武内宿禰の薨去については触れていないが、「因幡国風土記(逸文)」に次のような記述がある。
仁徳天皇55年3月に大臣の武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残してどこかに隠れてしまった。またこのようにも聞いている。因幡国法美郡の宇倍山の麓に神社があり、宇倍神社といい、武内宿禰を祀っている。昔、武内宿禰が東夷を平定して宇倍山に入った後は、その終焉の地を知らない。
日本書紀の仁徳55年の条には残念ながらこれに対応する記事はない。また、原文を確認できていないが、「公卿補任」では薨年未詳で295歳で薨去(一説として仁徳55年に年齢未詳で薨去)、「水鏡」では仁徳55年に280歳で薨去、「帝王編年記」では仁徳78年に年齢未詳(一説として312歳)で薨去、とあるようだ。いずれも仁徳天皇の治世に薨去しており、そのときの年齢は280歳から360余歳の間ということが言える。
さて、先の因幡国風土記(逸文)に登場する宇倍神社は因幡国一之宮で鳥取市国府町に鎮座する。本殿左手の階段を登って裏に回ると武内宿禰が双履を残して姿を隠した霊跡と伝わる双履石があって、文字通りふたつの石が並んでいる。この双履石の下から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳であることが判明したという。なぜ、縁もゆかりもないはずの因幡の地に武内宿禰が祀られることになったのだろうか。
(いずれも筆者撮影)
もともとは地元の有力氏族である伊福部氏の祖神を祀っていたが、その後に武内宿禰を祀るようになったとされるものの、その理由は定かではない。また、福岡県宗像市にある織幡神社でも祭神である武内宿禰が沓を残して昇天した沓塚があるということだが、この神社ももとは海人族が海の神を祀ったことに由来するようで、武内宿禰を祀るようになったのは後世になってからのようだ。
武内宿禰の墓はどうであろうか。書紀の允恭紀5年の記事には、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰は、反正天皇の殯を命じられたが役割を果たさずに酒宴を催していたことが尾張連吾襲(あそ)に知れるところとなったため、吾襲を殺して武内宿禰の墓に逃げ込んだ、とある。現在、反正天皇陵に治定されるのは大阪府堺市の百舌鳥古墳群にある田出井山古墳とされるが、玉田宿禰は葛城氏直系なので、おそらく地の利のある葛城へ逃げたと考えられる。武内宿禰の墓は大和葛城のどこかにあったのだろう。
奈良県御所市にある掖上鑵子塚古墳は全長150mで5世紀後半築造の前方後円墳である。江戸時代に蒲生君平が著した「山陵志」では、五朝に仕えた伝説的廷臣・武内宿禰の墓ではないかとしている。その掖上鑵子塚古墳の近くにある葛城最大の前方後円墳である室宮山古墳は全長が240mもあり、4世紀末から5世紀初頭の築造とされる。これを武内宿禰の墓にあてる説もあったが、最近では葛城襲津彦の墓とするのが有力となっている。また、馬見古墳群が広がる奈良県北葛城郡広陵町にある巣山古墳は全長210mの前方後円墳で古墳時代中期初頭(5世紀初頭)の築造とされるが、これを武内宿禰の墓にあてる説もある。このように武内宿禰の墓と推定されるいずれの古墳も葛城に所在する。仁徳天皇のときに薨去したということであれば5世紀後半の掖上鑵子塚古墳は考えにくいが、巣山古墳の可能性は残る。
終焉の地について考えてみたが、因幡国風土記逸文の信憑性は何とも言えず、武内宿禰が因幡に行く理由も不明である。宇倍神社においても武内宿禰は創建時からの祭神ではなく、いつの頃かわからないが本来の祭神に取って代わったようである。したがって宇倍神社を終焉の地とすることは困難であり、織幡神社についても同様である。一方、墓の場所については大和の葛城にあることが高い確度で想定されるので、終焉の地を大和とすることが妥当ではないだろうか。
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武内宿禰の誕生については記紀の記事で見たとおりであるが、両者には少し違いがある。日本書紀では、孝元天皇と妃である伊香色謎命との間に生まれた彦太忍信命が武内宿禰の祖父とあり、また、景行天皇の時に紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って生まれたのが武内宿禰である。つまり、系譜としては「孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心命→武内宿禰」となる。
一方の古事記では、孝元天皇と伊迦賀色許売命(伊香色謎命)の子である比古布都押信命(彦太忍信命)が木國造の祖先である宇豆比古(菟道彦)の妹、山下影日売(影媛)を娶ってできた子が建内宿禰である。系譜は「孝元天皇→比古布都押信命→建内宿禰」となる。要するに、古事記は屋主忍男武雄心命を飛ばして一世代少なく書かれているのだ。現時点でその理由はよくわからない。
次にその生誕の地について見てみる。書紀では、紀伊国に派遣された屋主忍男武雄心命が阿備の柏原で9年間滞在している間に紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って武内宿禰が生まれたとあるので、生誕地は紀伊国である。阿備の柏原は現在の和歌山市松原字柏原とされており、ここには武内神社があって武内宿禰が祀られている。また、境内には武内宿禰の産湯を汲んだとされる武内宿禰誕生井が残されている。一方、古事記では場所の言及はないが、比古布都押信命が木国造の祖先である宇豆比古の妹、山下影日売を娶ってできた子とあり、木国=紀国であることから書紀と同様に紀国で生まれたと解釈してよいだろう。
書紀ではこのほかに武内宿禰と紀伊のつながりが2カ所に出てくる。ひとつは神功摂政前紀の仲哀10年2月の記事である。香坂王・押熊王の兄弟による反乱に際し、皇后はこれを迎え撃つために畿内に戻ろうとするが、忍熊王が待ち構えていることから、武内宿禰に命じて誉田別皇子(のちの応神天皇)を連れて迂回させ、南海から紀伊の水門へ向かわせた、という話。もうひとつは応神紀9年の記事。武内宿禰が筑紫にいた時、弟の甘美内宿禰の讒言によって天皇から命を狙わる身となり、無実を訴えるために筑紫を出て朝廷に向かおうとして、船で南海を回って紀の水門に入った後、無事に朝廷に入ることができた、という話である。
いずれの記事にも登場する紀伊水門(紀水門)は紀ノ川の河口付近であるが、紀ノ川流域を含めて紀氏の本拠地である。この紀ノ川を遡って現在の五條市あたりで上陸して北上すれば大和の葛城に入ることができる。葛城氏の本拠地である。古事記によれば紀氏、葛城氏ともに武内宿禰の直系氏族である。武内宿禰は両氏とのつながりによって紀ノ川流域から大和の葛城にかけての一帯に所縁があったと思われる。そう考えると、その生誕地はやはり紀伊国であると考えるのが妥当ではないだろうか。
ところで、佐賀県に武雄神社がある。ここには武内宿禰と父である武雄心命が祀られていて、ここが武内宿禰の生誕地という説もあるようだ。神社公式サイトによると、創建は神功皇后の三韓征伐のあとで、さらに武内宿禰が祀られるようになったのは天平7年(735年)とされている。創建時から武内宿禰を祀っているのであれば生誕地としての可能性はあるだろうが、記紀編纂後の合祀であるなら後付けであることは否めないので、この神社を生誕地とすることはできない。
次に終焉の地を考えてみたい。記紀ともに武内宿禰の薨去については触れていないが、「因幡国風土記(逸文)」に次のような記述がある。
仁徳天皇55年3月に大臣の武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残してどこかに隠れてしまった。またこのようにも聞いている。因幡国法美郡の宇倍山の麓に神社があり、宇倍神社といい、武内宿禰を祀っている。昔、武内宿禰が東夷を平定して宇倍山に入った後は、その終焉の地を知らない。
日本書紀の仁徳55年の条には残念ながらこれに対応する記事はない。また、原文を確認できていないが、「公卿補任」では薨年未詳で295歳で薨去(一説として仁徳55年に年齢未詳で薨去)、「水鏡」では仁徳55年に280歳で薨去、「帝王編年記」では仁徳78年に年齢未詳(一説として312歳)で薨去、とあるようだ。いずれも仁徳天皇の治世に薨去しており、そのときの年齢は280歳から360余歳の間ということが言える。
さて、先の因幡国風土記(逸文)に登場する宇倍神社は因幡国一之宮で鳥取市国府町に鎮座する。本殿左手の階段を登って裏に回ると武内宿禰が双履を残して姿を隠した霊跡と伝わる双履石があって、文字通りふたつの石が並んでいる。この双履石の下から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳であることが判明したという。なぜ、縁もゆかりもないはずの因幡の地に武内宿禰が祀られることになったのだろうか。
(いずれも筆者撮影)
もともとは地元の有力氏族である伊福部氏の祖神を祀っていたが、その後に武内宿禰を祀るようになったとされるものの、その理由は定かではない。また、福岡県宗像市にある織幡神社でも祭神である武内宿禰が沓を残して昇天した沓塚があるということだが、この神社ももとは海人族が海の神を祀ったことに由来するようで、武内宿禰を祀るようになったのは後世になってからのようだ。
武内宿禰の墓はどうであろうか。書紀の允恭紀5年の記事には、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰は、反正天皇の殯を命じられたが役割を果たさずに酒宴を催していたことが尾張連吾襲(あそ)に知れるところとなったため、吾襲を殺して武内宿禰の墓に逃げ込んだ、とある。現在、反正天皇陵に治定されるのは大阪府堺市の百舌鳥古墳群にある田出井山古墳とされるが、玉田宿禰は葛城氏直系なので、おそらく地の利のある葛城へ逃げたと考えられる。武内宿禰の墓は大和葛城のどこかにあったのだろう。
奈良県御所市にある掖上鑵子塚古墳は全長150mで5世紀後半築造の前方後円墳である。江戸時代に蒲生君平が著した「山陵志」では、五朝に仕えた伝説的廷臣・武内宿禰の墓ではないかとしている。その掖上鑵子塚古墳の近くにある葛城最大の前方後円墳である室宮山古墳は全長が240mもあり、4世紀末から5世紀初頭の築造とされる。これを武内宿禰の墓にあてる説もあったが、最近では葛城襲津彦の墓とするのが有力となっている。また、馬見古墳群が広がる奈良県北葛城郡広陵町にある巣山古墳は全長210mの前方後円墳で古墳時代中期初頭(5世紀初頭)の築造とされるが、これを武内宿禰の墓にあてる説もある。このように武内宿禰の墓と推定されるいずれの古墳も葛城に所在する。仁徳天皇のときに薨去したということであれば5世紀後半の掖上鑵子塚古墳は考えにくいが、巣山古墳の可能性は残る。
終焉の地について考えてみたが、因幡国風土記逸文の信憑性は何とも言えず、武内宿禰が因幡に行く理由も不明である。宇倍神社においても武内宿禰は創建時からの祭神ではなく、いつの頃かわからないが本来の祭神に取って代わったようである。したがって宇倍神社を終焉の地とすることは困難であり、織幡神社についても同様である。一方、墓の場所については大和の葛城にあることが高い確度で想定されるので、終焉の地を大和とすることが妥当ではないだろうか。
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