あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

野牡丹の響きの重さも楽しけれ  あきオジ

2010-09-05 18:01:20 | 日記
稲妻にこぼるる音や竹の露  蕪村

いな妻や佐渡なつかしき舟便り  蕪村

もの焚て花火に遠きかかり舟  蕪村

(蕪村の句は色合いが美しく、組み合わせが巧みだということは素人でも分かります。繰り返し読んでいると、その色合いは先にあり、素材がそのあとにやってくるのではないと思うことさえあります。写実を大切にする流れは分かりますが、蕪村が描く世界は、そんなことを飛び越して、組み合わされ、創り出されているのではないかと思うこともあります。その辺りから読み続けてみたいですね。でも、学者風の読み方は、厭味ですね。)

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最近は「向上心」「努力」「前向き」そんな言葉を使わなくなりました。
若い人にとってどうか分かりませんが
年を取ると
そんなものはなくても困らないし
それとは違った世界があることを感じるようになるものですね。

どうしてでしょうかね。
人それぞれで、一概に言えませんが
ぼんやり、ゆったり、生きているというか
食べる才覚さえ何とかすれば
後は、世間体など気にしない。
それで十分なのと考えてしまうのですね。

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影もなき鉄路に草が伸びる午後  あきオジ

2010-09-05 17:45:33 | 日記
このごろは月をみる機会もありませんが
江戸時代、蝋燭も高価な時代
夜は早寝とはいえ、食事してすぐ寝ることもなかったでしょう。
そんなときは月を見る機会も多かったでしょうし
月の存在もいまよりはるかに大きかったのでしょうね。
それだけに月の名句が多いのですね。

その時代によって自然の受け止め方
感じ方が違うのですから
季語などの制約は必要な人には
必要ですが新しい季語を生みだす人がもっと多くなっていいと思いますが
もう、そのような動きが主流かもしれませんね。

5・7・5の語調は複雑な心情で、饒舌な時代には
おさまりが悪い形式かもしれませんね。

今日見ていた「NHK俳壇」
素人が観ていても江戸時代そのまま
そんなスタイルなのですね。
でも、素人はそれでいいのです。
そう思いました。

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鎖あけて月さし入れよ浮み堂  芭蕉

今日よりは書付消さん笠の露  芭蕉

義仲の寝覚の山か月かなし  芭蕉

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ちょっと気合をいれないと
しまりのない写真ばかりになってしまいます。
奮発して新しいカメラを手に入れようか
同じことをばかり考えてしまいます。
でも高画質の写真を取るわけでもなく
高度の技術を必要とする写真を捕るわけでもないのです。
そうなると、今のカメラでいいかな
間に合うのかな
そんなことばかり考えてしまいます。
物を手に入れるときは、そんなときが一番楽しいですね。

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プロとか本格的な俳人、カメラマンは御苦労な時代ですね。

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円覚寺石段ごとに影長くし     あきオジ

2010-09-05 17:34:19 | 日記
江ノ電に定期観察で出かけました。
途中、円覚寺に立ち寄りました。
もみじが秋の準備に入りましたね。

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静かで人が少ないのがこの時期の寺のよさですね。
秋になると紅葉が映えますね。

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舟は皆出てしまひ雪の山山なり  放哉

(景色の描写も極度に抑制され、人の気配を感じないのが放哉なのか、足りなさなのか、よく分かりませんが、泣いたりわめいたりする山頭火との際立った差異であることは分かるような気がします。)

船乗りと山の温泉に来て雨をきいている  放哉

すでにあかつき仏前に米こぼれある  放哉

(放哉は景色の美しさや景色から伝わる感動表現をを故意に外しているのか、無視しているのか、それが気になることがあります。読み方が足りないのでしょうかね。)

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猛暑なりみずいずこより流れくる  あきオジ

2010-09-05 07:17:12 | 日記
むさしのへ投出す足や秋の暮  一茶

御仏の御鼻の先へつらら哉  一茶

小坊主の袂の中の蝉の声  一茶

(思えば江戸時代も「蝉の声」だったのですね。蝉に人生を重ねるというのは日本独特の文化なのですね。)

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今日は写真を取りに出かけたいのですが
猛暑の中、どうしましょう。

法師蝉千本浜を飛び去りぬ  あきオジ

2010-09-05 06:53:45 | 日記
千本浜とは沼津の海岸です。
石浜なのですね。
そして帯状に松林が続いた
富士山が美しくみえるところです。

幼いころ遊びにでかけるとすれば千本浜だったような記憶があります。
このごろ、そんな日々を思い出したりします。

年寄りになりたくないと思っていても
年寄りらしい年寄りになってしまうものなのですね。

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そろそろ曼殊沙華の季節ですね。
楽しみです。
コスモスも開花始めですね。
そろそろ動かなければいけませんね。

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峠路や時雨はれたる馬の声  放哉

寂しいぞ一人五本のゆびを開いてみる  放哉

草のびのびししわぶきして窓ある  放哉

(放哉の俳句についてものをいう立場にありませんが、放哉の句を読むと「その次に言いたいこと」を押し込んでしまっているように思えません。山頭火のように「悲しい」「さみしい」というような言葉は出てきません。当然のように「ひとり」「・・きる」というようなところで扉を閉じてしまいます。それも、放哉のスタイルなのでしょうかね。そのうち見えてくるかもしれません。)

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蝉なきし夕べなれど誰も来ず  あきオジ

2010-09-05 06:40:57 | 日記
郵便も来ない日のつくつくぼうし  山頭火

ひとりの生活は、さみしい。
唯一の楽しみは、肉親や俳友から来る頼りである。朝、家ポストをのぞいて一通も手紙が来ない日は、何かもの足りない。
夏も、すっかり終わって、あたりは秋の景色にかわっている。秋が過ぎると、寒い冬がやってくる。冬は好きではない。行乞をしていたころの冬は、つらく苦しかった。それにくらべると、其中庵の生活は、まるで極楽のようなものだった。(昭和10年)

お彼岸のお彼岸花をみほとけに  山頭火

彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり  山頭火

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山頭火を読みつづると最初の印象とは変わってきているのが分かりますね。偏屈爺さんという印象とは違って、気弱で柔らかな感性だったのだなと思いますね。これからも読み続ければさらに鑑賞者として脱皮できるかもしれません。

きっと、放哉についても、印象が変わるかもしれません。でも、今はその段階ではありません。

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