あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

コスモスの首細ければしなやかに  あきオジ

2010-09-14 16:58:08 | 日記
昭和記念公園のコスモス
まだ、一部の品種だけしか咲いていません。
今年は期待できないとか・・・

でも、それはそれ

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鐘の音の輪をなして来る夜長哉  子規

冬近き嵐に折れし鶏頭哉  子規

冬を待つ用意かしこし四畳半  子規

(子規はプロの俳人ですね。どのような状況も句にしてしまう。それが子規の素晴らしさなのでしょうね。でも、だから、「なじめない」なぜなら、不器用さがないから・・・
それは日本の文芸の一つの個性であり、愛される理由の一つだからです。)

桔梗だけ衆雨を受ける運のよさ  あきオジ

2010-09-14 16:43:20 | 日記
月夜の葦が折れとる 放哉

墓のうらに廻る  放哉

枯枝ほきほき折るによし 放哉

(これらの句を「放哉評伝」(村上護著)では、最晩年の句として、「第一句は実在そのものに肉薄してし「葦が折れている」では単なる写生句だ。第二句は孤独な人間の心理をみごとについている。「墓のうらへ」では放哉の世界はくずれてしまう。第三の句にも孤独な心情が現れて「ぽきぽきと」しない語感の機微はやはり弧絶の世界の産物である。」と書いてありました。そうなのかなと思いつつも、「そうですか」とは言えません。そのうち、そこまで深く読めるかもしれませんが、それは無理だと思う、今の気持ちは変わらないかもしれません。そこまで深読みするのですかね。)

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多摩川は鉄橋渡るながれなり  あきオジ

2010-09-14 14:44:05 | 日記
昭和記念公園の薄

八王子から立川に向かうとき
鉄橋を渡ります。
流れる川は浅川なのか多摩川なのかいまだに知りません。
でも広い河川敷を電車が渡るとき
富士山が見えることがあります。
その気持ちいいほど大きな広がりを見ると
歌人だったら取りあげる風景だろうなと思っています。
このスケールを歌った歌人はいるでしょうね。

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朝霜や室の揚屋の納豆汁  蕪村

(室の揚屋 港町で遊女を呼んで遊ぶ場所)

入道のよよとまいりぬ納豆汁  蕪村

(入道とは法体した貴族などをいう。よよというのはぐいぐいと飲み干すこと。)

朱にめづる根来折敷や納豆汁  蕪村

(根来折敷 は根来塗りの器)

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解説を読まなければ理解できないのは情けないですが、それはそれでしかたないことです。まあ、ぼちぼち馴れるようにしましょう。それが俳句を理解する早道かもしれませんね。

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どっと笑いしがわれには病める母ありけり  栗林一石路

(このようにことあるごとに反省する。ある時代の日本人の感性だったのでしょうね。今の時代はこの普遍性は変わらないでしょうが、どのような表情をしているのでしょうかね。)

隅占めてうどんの箸を割り損じ  林田紀音夫

(わらえる。でも、ちょっと屈折した心持、ここまで繊細にして巧みに表現できるのですから俳句もなかなかの形式なのだなあ。そんなことを感じた句です。)

すばらしい乳房だ蚊がいる  山頭火

(この句は「折々のうた」(大岡信編)で取りあげていました。村上護偏の「尾崎放哉全歌集」では見かけませんでした。読み方が足りませんね。でも大岡も「いい句なのか否か、それさえわからぬ」と書いている。そんな句もあるのですね。だとすれば、大岡はどのような意図で採用したのでしょうかね。)

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コスモスが点々から面になり   あきオジ

2010-09-14 06:41:45 | 日記
昨日、昭和記念公園を元気にあるいたせいでしょうか。
そこそこの時間に寝たのですが
起きてみれば6時でした。
寝坊です。
そうなるとあれこれしなければならないことがある。

(実際には、どれもこれもしなくてもすむことばかりですが・・・)

ばたばたしました。
性分としてせっかちですね。
ですから、時間がせまるとパニックになりますね。
こんなことは若い時にはありませんでしたがね。
本当の話。

用心しなければいけませんね。

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秋かぜやいせの墓はら猶すごし  芭蕉

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夜おそく出でたる月がひっそりとしまい忘れし物を照らしおる  方代

右左口」所収。南方戦線に六年間従軍、砲弾の細かい破片を浴びて右目失明、左目視力0.お1となる。帰還後は「起きて半畳ねて一畳のあばら屋を山の櫻が咲きかこみたり」というような「浮浪」の生活の中でm短歌を「生きる手探り」として詠み続けた。その歌には自分を飾りたてる必要のない人が見たこの世の姿が、新鮮な目で描かれている。そこに優しさが漂う。

(「折々のことば」で取り上げられたときの大岡 信の解説です。)


いま、興味をもっている歌人のひとりです。知れば、さらに面白くなる。そんな世界ですね。老後の楽しみとしては上等なものですね。こんな世界にたどり着いたことちょっとだけ気に入っています。どうのように広がるのでしょうかね。

そんなことで「朝日のように爽やかに」で
取りあげていますので、機会があったらご覧になってください。

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笠をぬぎしみじみとぬれ  山頭火

ことしは、空梅雨であった。きょうの行乞は、気分がふさぐから止めにして、庵中閑打座、しかし、いつまでもこもっていると、おまんまの食いあげとなるので、朝はやく起きて少し行乞をする。秋吉台に近い、山口県伊佐地方を歩く、暑さの中で、ちょうどいい具合に雨が降り出した。ほっとした気分だ。
露雨から、とうとう本降りとなり、すっかりぬれてしまう。雨ならば雨を歩む。ついに笠までにて、しみじみと雨に打たれる。久しぶりの慈雨となる。(昭和8年)

(山頭火のような人を社会的常識人はどのように読みとるのでしょうね。出家者のようなポーズをしているが、出家者とは思わないでしょう。出家者としての修行も日常もなく、ぎょうをしているような真似をしているが、ちっともそのような精神を感じない。孤独を演じているだけはないかと思ってしまうでしょう。修行者として未熟であるというより、そのように演じている。そんな見方をするとなると、俳人とは何でしょうかね。芭蕉の場合と同じなのでしょうか。「出家」「隠遁生活」という現代人の憧れを実現しているように見えるからそれらしい目で見ているのかもしれません。その辺りを積極的に評価し、認める学者も多いでしょうし、俳人として高く評価している人がいるとなれば、その話を聞いてみたいですね。素人の私は、そのような素朴な疑問をそのままにして、肌になじむまで詠み続けたいと思います。)

竹藪を抜ける秋風おと乾き   あきオジ

2010-09-14 06:32:23 | 日記
昭和記念公園の竹です。
私はなぜか竹が好きなのです。
根っこも面白いし
竹の子の姿も好きです。
風になびき
懐かしいざわめきも
乾いた音もいいですね。

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なんといふ空がなごやかな柚子二つ三つ  山頭火

ここにかうしてわたしおいてゐる冬夜  山頭火

よびかけられてふりかえつたが枯葉林  山頭火

(「山行水行」の中から三句です。山頭火の作句活動が充実した時期なのでしょうか、句も充実していて、泣きながらという気配がありません。でも、内実は分かりません。自分の思いを何よりも大切にしながら、周囲の人の迷惑が理解できない。そんな一面もあったのようです。でも、それも人間山頭火ですね。こんな句を読むと、詩人とはこんな言葉を自然に出せる人なのだなどと思っていました。)

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秋になると、竹藪の風も軽さが出てきますね。
自分と対比するつもりもないのですが、そんなことが気になります。

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「橘曙覧全歌集」が本屋に並んでいたのでさっそく手に入れました。
短歌を主として扱う「朝日のように爽やかに」で少しずつアップしていきます。
万葉調の淡々とした和歌ですが、もう、明治に足を突っ込んだような作風でいいですね。
興味ある人に出会うと、ちょっと前に進めるような気分になれます。ありがたいことです。




野ばくちがありそうな河原渡りゆき  あきオジ

2010-09-14 06:16:37 | 日記
野ばくちや銭の中なるきりぎりす  一茶

野っ原で博打を打てば、銭のなかにぎすがいる。ちょんぎーすとないている。

「文化一年の秋の句。さいころでやる丁半ばくちで、屋内でもやるが、竹藪の中とか、野原の草むらのなかでもやったらしい。けっこう興奮しているんだが、一茶からみれば野趣横溢ということになるんだろう。むろん、見ている句で、本人はやっていない。」
「たしかに横から見ている句ですね。一茶は事大主義で易易として規則に順応するかとおもうと、こういうはずれものに興味をもつところがありますね。これなども内心たのしくてしかたないんですね。」
「博打の句はわりあい多いんだが、みな野ばくちだね。野趣と無法の組み合わせが気に入っているのだろう。こんなのどうだい「野ばくちが打つちらかりて鳴く雲雀」「散る花もつかみ込みけりばくち銭」風俗をこなす力はさすがだよ」(金子兜太)

(この句と解説を読むだけで楽しい。こんな訳もあったのですね。ちょっと、嬉しい。)