あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

おでん喰う半そでオヤジの愚痴話  あきオジ

2010-09-22 17:29:29 | 日記
籾かゆし大和をとめは帯を解く  阿波野青畝

(俳句にしては思わせぶりですね。現代俳人でなければ表現できませんね。本当はもっといっぱいあってもよいと思うのですが教養ある人たちのたしなみである俳諧ではストイックであることが大切なのか、このような健康的でおおらかな句にはめったに出会いませんね。そんなところが魅力が乏しい原因かもしれませんね。でも、そんなこと私には関係ありませんね。私は楽しければそれでいいのですから。)

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山深し心に落つる秋の水  心敬

(名句ですね。ここまで象徴的に句を構築することは、素人には想像もできません。こんな句があるとほっとしますね。)

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羊煮て兵を労(ねぎら)ふ霜夜かな  黒柳召波

(漢詩のようような品格であり、師である蕪村の雰囲気が見えるような気がします。骨太で圧倒されるように気力に満ちた句ですね。軽さだけが俳句ではないのですね。この俳人の句を探して、読んでみましょう。)

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中年の男同士の「友情論」毛ごと煮られてゐる鳥料理  寺山修司

(なぜか、俳句を感じて、引っ張り出しました。組み合わせが巧みで刺激的なので、面白い。体裁が整った品格を大切にする俳人を嘲笑するかのような勇ましさがいいですね。寺山修司の再構築の美学はいいですね。私もこの路線を真似してみようかといつも思っているのです。)

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背伸びするコスモスもあり空堅し あきオジ

2010-09-22 16:20:09 | 日記
昭和記念公園のコスモスです。
明日は巾着田の彼岸花を見てきます。
まだ、早いと思いますが、待てません。
偵察のつもりで出かけます。

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日ぐらしや急に明るき湖の方  一茶

夕月や流れ残りのきりぎりす  一茶

孤(みなしご)の我は光らぬ蛍かな  一茶

三歳で母をなくしたおれは、光らない蛍なんだ。じっと草にかじりついて生きているだけなのだ。

「文政三年、五十八のときの句だが前書がある。
「桐壺源氏三つのとし、我も三つのとし母に捨てられたれど」
つまり、「源氏物語」の「桐壺」の巻に、光源氏が母の桐壺更衣に三歳で母をなくしたということで「光らぬ蛍」という発想には、「光源氏」のイメージがあるわけなんだ」

(金子兜太の解説は面白いし、研究者としての見方も「なるほど」と思えるのですが、今の私にはさほど重要でありません。これからさき一茶を掘り下げる時に必要かもしれませんが、今は、一茶の句に馴れる段階です。「俳句を楽しむ」ことが大切です。そんなことを思っているのです。でも、俳句を楽しむって、ことのほか大変ですね。)

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声かわしコスモスの川渡りけり  あきオジ

2010-09-22 15:28:04 | 日記
昭和記念公園のコスモスです。
いわゆるいろいろな色が混じったコスモスはもう少しです。
この丘のコスモスを見れば
今年の秋はもう後半です。

楽しみです。

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朝焼おそき旦(あした)薔薇(そうび)は散りそめぬ  山頭火
朝焼がおそい。空のいろどりが、まだ、ほんのりと、そしてうっすらと染めぬいてゆく。その時は「旦(あした)」であった。その中で薔薇が、ゆっくりとひとつくずれてゆく、朝焼の中のわわやかさと暗さ、散りゆくものの美しさとはかなさ・・・・
この薔薇こそ自分だ。自恃の薔薇が、散りそめる。そしていつかくる破滅のたしかな予感。あえかな自恃が、かすかに、ひそかに揺らいでいる。(大正3年)

(山頭火には、「人生を表象すれば、最初に涙、次に拳、そして冷笑、最後に欠伸である。」という言葉が残っている。いい得て妙であるし、面白い表現ですが、金子兜太によれば「人生はナンセンスだと感じた時こそ、人生はナンセンスでなくなった時である。」という言葉もあるという。このように小難しいことをいうのは得意だったのでしょうね。)

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ところてん突き出す母もぎこちなく  あきオジ

2010-09-22 06:45:43 | 日記
神代植物公園で写真を撮り合う夫婦です。
この時期
この場所でなければ見かけない夫婦です。

大きなカメラをかかえているのはわがまま
だから、一人
小さなカメラを持っている人は夫婦
不思議とあたっています。

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清瀧の水汲みよせてところてん  芭蕉

うらみの瀧にて

しばらくは瀧に籠るや夏の始(はじめ) 芭蕉

(ちょっとタイミングを逸しましたが暑中見舞いです。すずしさをどうぞ。)

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気になりし人あればこそ女郎花  あきオジ

2010-09-22 06:32:03 | 日記
淋しきままに熱さめて居り  放哉

(放哉の「淋しさ」は一気にというか一直線。そんな気がします。ブレーキがないまま、淋しさを走り抜ける。そんな印象があります。ぼちぼち読んでいけば、見えてくるかもしれません。)

自分が通っただけの冬ざれの石橋  放哉

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九月尽(じん)遥に能登の岬かな  加藤暁台

(この「九月尽」は九月の終わりを示す用語なのだそうです。いかにも俳句を作る人が用語辞典を引っ張り出して伝いたがる季語ですね。それはそれなりなのでしょう。能登半島といえば大伴家持。それだけで嬉しくなる風景です。)

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目の丈で声を出せぬ槿かな  あきオジ

2010-09-22 06:17:53 | 日記
神代植物園の槿です。

何か訴えかけるような儚さと病的に白さが不気味です。
どうしてでしょうかね。
素敵な花なのですが・・・
過ぎた日の中で槿の思い出はありません。

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押売が村から村へ雲の峰  山頭火

(上機嫌な山頭火なのですね。正当な商売とでも思っているような気楽さがありますね。この景色、越中富山の薬売りもありそうですが、押売をとりあげたのが面白い。こんな句が混じっているから面白い。)

夕月に夕刊がきた  山頭火

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