あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

歩きたい歩かせたいの大芝生  あきオジ

2010-09-20 17:28:09 | 日記
神代植物公園の大芝生
歩く練習をしている子
歩きたい
歩かせたい
でも上手にいかない子
それでも歩かせたい

なれない親子を楽しんでいる。

なるほど
親子であるのではなく親子になるのである。

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霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き  芭蕉

義朝の心に似たり秋の風  芭蕉

(素人が読んでも「さすが俳句」という完成度の高いのが芭蕉ですね。こんな短い文芸なのに品がありバランスがよく表現すべき内容が鮮明。これでは次の世代が苦労するのは無理ないですね。ベートウベンの後継者として目された人ブラームスは交響曲を作るのに20年かかったというエピソードは分かるように気がします。それと同じですね。一茶はそうだったでしょうね。そんな気がします。)

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撥太鼓習う子荒ら荒ら安房夜波   古沢大穂

(現代作家ですね。文字まで勇壮で語調もテンポがある。音楽的な響きまで意識した珍しい句だと思います。なるほどね。そんな感じです。現代作家も頑張っているのですね。)

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嫁入りの歩(かち)で吹るる霰かな  去来

(山田洋次の映画に登場するような絵ですね。実際にあったのか具体的な映像は思いだせないのですが、「たそがれ清兵衛」に出てきそうですね。月山辺りを背景にして畔を歩く行列を思います。庶民の慎ましい生活であり、お祝いですね。)

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多摩川を見下ろす橋にたどりつき  あきオジ

2010-09-20 17:19:04 | 日記
俳句は状況を説明するのはなく
状況が説明を不要にする。
そんなことかもしれません。
いじりまわさない。
粗製乱造
順調です。
このまま終わってもいい
そんな感じです。

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あらしの闇を見つめるわが眼が灯る  放哉

海のあけくれなんにもない部屋  放哉

友の夏帽が新しい海に行こうか  放哉

(放哉としては異色の句だと思います。景色が明るいし、人に声を掛けているような雰囲気があるのも楽しい。夏帽、「海に行こうか」という誘いも新鮮です。ひとりを売り物して拗ねているような句が多い中で、楽しい。放哉がちょっと親しく感じた句です。)

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ぐうたらの肩につかまる赤とんぼ  あきオジ

2010-09-20 17:05:09 | 日記
神代植物公園の展示会でみたカサブランカです。
季節なしのは花ですね。
花も季節を喪失してしまいそうです。
「季語」にこだらりは伝統芸能を残しますが
芸術を失いますね。

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八王子でも風の盆をイベントして開催したそうです。
高円寺阿波踊りもすっかり有名になりましたし
よさこいソーランは全国区になりました。
こだわり続けたパワーが伝統に変えてしまうのですね。
「庶民の力」は不思議ですね。

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うつくしや年暮きりし夜の空   一茶

うつくしや障子の穴の天の川  一茶

うつしくや雲ひとつなき土用空  一茶

(大岡信が述べているように一茶の句にはなぜか「うつくしや」が登場する。放哉の「ひとり」と同じように目立ちます。うつくしいものを「うつくしい」では、何の説明にもなっていないし「ひとり」を「ひとり」と表現したら、それで終わってしまう。それを広げてしまう使い方もあるのですね。しみじみとした感じが含まれる使用法になると、それぞれの「うつくしや」の意味が変わってくるのでしょうかね。)

手を握り改札を出る帰郷かな  あきオジ

2010-09-20 07:12:36 | 日記
深大寺門前でオカリナを吹く
女大道芸人です。
そんな雰囲気がいいですね。

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駅には帰省した親子がデイバッグを下げて改札を出てきます。
おじいちゃん、おばあちゃんに顔を見せたのでしょう。
顔を見ただけで十分に満足というのは
うまくできていますね。
あれこれの話を聞きたい
未来のことを語り合いたい
そんなことだったら
孫たちはまいってしまうでしょうね。

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本降りに成って出て行く雨宿り  俳風柳多留

(こんな風景が記憶にある人は幸運ですね。)

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誰にでも一つや二つの隠しごとがある。
ないような男は不気味ですね。

誰にでもいいたことの一つや二つはあり。
たわいないことでもこだわりとなっていることがある。

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燭の火を燭にうつすや春の夕  蕪村

(蕪村らしい感覚的な句で「やったぜ」というような心地良さがあり、好きです。きっと、絵柄としての面白さと表現の新鮮さだけなのでしょうが、見えない物語を感じさせるように仕組んだ句なのでしょう。蕪村にはそんな気が多いのではないでしょうか、しばらく読み続ければその傾向が見えるかもしれません。今は、そんなことではないだろうか。そんな段階です。技巧的になるということは、観察しての表現に限界があることを俳人たちは感じ始めていたのでしょうね。ご苦労様です。)

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秋なれば子をすくいあげ頬あわす  あきオジ

2010-09-20 06:18:43 | 日記
神代植物公園の木漏れ日
子と遊ぶ父親の姿も見えます。
子と楽しく遊べる父親ならば
子は元気に育つでしょう。

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今日一日の終りの鐘をききつつあるく  放哉

月は冴えざえ人の世またく寝入りたり  放哉

昼ふかぶか木魚ふいてやるはげてゐる  放哉

(放哉の句は愚痴のような諦めのような、そのままでない自分の噴き出し口としての役割を果たしているのでしょうか。一人でぶつぶつ言いながら歩いている。俳句としての吐き出し口がなかったらならば「変なおやじ」で固まっていたでしょうか。)

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最澄の瞑目つづく冬の畔  宇佐美魚目  

(最澄の瞑目と冬の畔との関係は?というより、落語の謎かけのようなもの、何かしゃれた回答を欲しがっているように思えますが、それは失礼なのでしょうね。でも、比叡山で永遠の命を続ける最澄と冬のあぜ道の荒漠とした雰囲気が景色として馴染むような気がします。俳句的に見ることは素人の私にはできませんが、絵柄として実になじんでいます。そう思います。俳句とはそんな一気の飛躍に面白さがあるのではないでしょうか。)

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朝から鬼平犯科帳です。
録画しておいて繰り返し見るのが楽しみです。
でも、食べても食べても新しい食べ物が欲しいのです。
さきほど食べたことを忘れているのです。

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木漏れ日がかりんを照らす曲がり角  あきオジ

2010-09-20 05:49:43 | 日記
思えば、どんな花でも
実となったときの姿に見向きをしませんが
その実が美しいですね。

詩的みれば、未来を身ごもっている
その健気さ
用心深さは
姿となっている。

美しい。

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ふる郷ちかく酔うてゐる  山頭火

門司に渡り八幡へ飛ぶ。ようやく星城子をたずねあてて、ここに腰をすえる。星城子
居で星城子に会うのは当然だが、宗俊和尚に会えたのは意外であった。訪問早々、奥さんの手作りの御飯とうどんを御馳走になり、夜はみんなで酒盛り。ずいぶん遅くまで飲みつづけ、話つづけた。俳友はいいもの、飲んでも話しても、いつまでもつきることがなかった。故郷はもう近い、快い気分で酔いしれている。(昭和5年)

(望郷の思いは俳人のものなのでしょうが、この日記でもそうなのですが、「自分は歓迎されて当然であり、歓待されており、迷惑などと誰も思ってはいない」と思いこんでいるふしがあります。それが俳人であり、山頭火であるのでしょうが、小心者の私は、勝手にころがり込み、家族の迷惑を顧みず飲み食いしている。無心というより、強要しえているようにしか見えないのです。それでいいのですが、そんなことを気にしています。でも、そんな善意の屈託のない歓迎したくなるような良寛さんのような人柄だったとしたら、俳人としての興味は湧いてこないでしょうね。)

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