あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

掌を返したような雨がふり  あきオジ

2010-09-28 20:08:27 | 日記
この稲を収穫した人はどんな人なのでしょうか。


柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

(何で有名なのでしょうかね。でも柿の色合い、そして法隆寺の壁との組み合わせ、そして音の距離感もあり、必要な事項がさりげなく無作為に整っているのがいいのでしょうね。いい句ってこんなことかもしれません。)

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清元の二つの流派の演奏会までのあれこれを取材した番組を見ました。
なぜか、この種の番組が好きなのですね。
どうしてでしょうか。

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ひたすらに水車がまわる悲しさよ  あきオジ

2010-09-28 18:51:41 | 日記
撞くものもなく
水車が回っている。
観光用の水車

音だけでは淋しすぎますね。

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つきぬけて天上の紺曼殊沙華  山口誓子

(現代俳句はあまり読まないのですが、この句は二度ほど目にとまり、このブログでもアップしたと思います。すっきりして混じりけがないのでしいですね。でも、評論家などは古典作品などを比較して、影響を受けたとかうけないとか、そんなことを言い始めるのでしょうね。まあ、いいか)


田を跳ねそして飛び立つ雀かな  あきオジ

2010-09-28 18:42:43 | 日記
巾着田の収穫です。
こんな風景を東京周辺で見ることも少なくなりましたね。
里山が消え
田が消え、思い出さえも消えて行くような淋しさがありますね。

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となりにも雨にの葱畑  放哉

(結局は自由律の俳句は崩壊するしかなかった。かたちは宿命なのですね。そこから抜けだしたら新しい形式を生みだすしかない。自己撞着ですね。放哉もその人生を紹介されなければ、中途半端な「へんなオヤジ」といより「俳句もきちんと作れない人」で終わってしまったでしょうね。)

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楽しいのは創り出すこと
それに限る。

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極楽の白き道辺に彼岸花  あきオジ

2010-09-28 06:03:13 | 日記
きっと、仏陀の歩んだ道はこのような花に包まれていたのでしょう。
東洋人である仏陀ですから
きっと、このような花に包まれていたのでしょう。

そして蓮の台で瞑想している。
何か目に浮かぶような強烈な色彩ですね。

東洋的であることと水墨画のような朦朧とした雰囲気とは
同じではないのですね。

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とびついてとるあをぞらの熟れ棗  飴山 実

(スナップ写真に添えたある軽快な気分がいいですね。素人には、このような明るさと疾走感がいいのです。緊張を強いるような俳句は敬遠したいのです。)

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祈る手にこの実が落ちる風の音  あきオジ

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丹沢に重なり抜ける雪の富士  あきオジ

2010-09-28 05:43:06 | 日記
巾着田の川に遊ぶサギです。
生活する場もなく
必死に生きる鳥も哀れですね。

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道の辺の壱師の花のいちしろく人皆知りぬわが恋妻は  万葉集

「壱師」は彼岸花と推定されるということです。万葉集には、彼岸花を扱った歌は、この一首だけらしいのです。不思議ですね。探し方が足りないのでしょうか。まあ、そのうちぼちぼちということで・・・

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山頭火の彼岸花を探して見ました。
けっこうあるのですね。

【曼珠沙華】

曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ

いつまで生きる曼珠沙華咲きだした

悔いるこころの曼珠沙華燃ゆる

ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる

【彼岸花】

歩きつづける彼岸花咲きつづける

うつりきてお彼岸花の花ざかり

まことお彼岸入の彼岸花

お彼岸のお彼岸花をみほとけに

彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり

(使い分けについては研究している人もいるかもしれませんが、私はそれほど熱心ではありません。)

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どうでもいいけれど
この時期気になるのは彼岸花とコスモスです。
そんな「待ち焦がれる」ようになればしめたもの
長生きできます。

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朝焼けのビルのすきまにユリの花  あきオジ

2010-09-28 05:16:09 | 日記
巾着田の家族
川の小さな橋があると渡りたくなるのは
日本人の遺伝子でしょうか。

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みじか夜や枕にちかき銀屏風  蕪村

(「与謝蕪村」(安東次男著)という堂々とした解説書があったので、ちょっとだけ読んでみました。内容が多く、多様な資料を駆使しているので、読む気が起きないままになっています。この句についても芭蕉を引き合いに出して検討を加えています。いつものような嘆きですが、ここまでがちがちに検討されると疲れてしまう。俳句とはこのようにしないと鑑賞できないものか。面白ければそれでいいじゃないか。そう思うのですが、あれこれ書いて生活している人もいるのですね。)

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とうろうを三たびかかげぬ露ながら  蕪村

(蕪村の句は距離感があり、画家としての視線があるので、句としては懐かしさや親しさを感じることはありません。美しい感性で捕まえた絵柄を再構築しているので「その辺りにある景色の発見」というような感想はありません。再構築しているのですから、ありもしない絵柄を作り上げている。それをあたかもあったように写生している。そのように思わせれる句のように思えます。不思議ですね。セザンヌが試みた手法を蕪村も意図的に試みていたのですね。)

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淋しさに入り込むから淋しいのです。

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