あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

秋深し白髪のうちならそれなりに あきオジ

2010-09-21 18:42:32 | 日記
神代植物公園のランです。
いついっても同じように咲いているので
新鮮さがありませんね。
本当は別々の鉢なのですが
咲き方が一様なので同じように見てしまうのですね・

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日は斜関屋の槍にとんぼかな  蕪村

蜻蛉や村なつかしき壁の色  蕪村

小原女の足の早さよ夕もみじ  蕪村

白菊の一もと寒し清見寺  蕪村

(蕪村は実写にはさほど関心がなかったように思えます。自分の美意識の中で構築された絵柄に必要な素材をあちこちから持ち込み、再構築しているように思えます。もちろん、研究者などは、そんな意味不明な考えに賛同するはずもないのですが、私はそれでも、そのように思えるのです。絵を描く人には生来的にそのような見方があるのです。そのように見ていくと西欧芸術を説明する「ミメーシス理論」にたどり着きます。換骨奪胎して再構築。そんなことだと思うのですがどうなのでしょうかね。これから、そんなことも楽しみます。まだ、始めたばかりでわけがわからないのですからね。)

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夏の月二階住居は二階にて  一茶

(この「当たり前の見直し」ともいうべき目の付けどころ、たまらないですね。)

名月や月の名所は月にあり  大伴大江丸

(「折々のうた」で大岡信は、警句としてとらえていましたが、成るほどね。「あたりまえ」を「あたりまえに」を句にしたのではないかということでしょうか。私は難しことは苦手ですし、そのつもりもない。素朴にして単純が好きなのです。)

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極楽の門では名詞と通帳は廃棄される。
そう思えば、これからのありかた
見当がつきそうです。

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鐘の音にゆれず飛びたつ胡蝶かな  あきオジ

2010-09-21 17:08:52 | 日記
春風に箸を掴んで寝る子哉  一茶

門々の下駄の泥より春立ぬ  一茶

(芭蕉になくて一茶にあるもの。畳の匂い。そんな気がします。不思議と一茶の句には、匂いがあります。それもあれこれ入り混じった匂いです。かまどの匂い、すえた匂い、たくあんの匂い、それが感じられるは一茶ですね。)

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黒猫の子のぞろぞろと月夜かな  飯田龍太  

(この句は「ぞろぞろ」という表現が、いかにも「ぞろぞろ」と思えるところで、一般的な括り方としての「ぞろぞろ」と違っているからでしょうか。素人の私には分かりませんが頭に「子の」を持ち出したからではないでしょうか。飯田龍太という俳人のことはまったく知りませんが、「折々のうた」で拝見すると、鋭角的で言葉の配列に周到な気配りをする俳人のように思えます。と思っているのですが、私は計算のないぶっきらぼうな句が好きです。)

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「鬼平犯科帳」でもっとも生き生きと動いているのは、若手の同心で「うさぎ」とあだ名されている忠吾、そして彦中ですね。俳優もいい役柄を楽しそうに演じています。窮屈なのは上級同心たちです。長官の平蔵に頭を押さえられ、平蔵が手柄を立てるときの引き立て役です。いつの時代も官僚は同じですね。

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桔梗咲く待合室のゆるやかさ  あきオジ

2010-09-21 17:06:03 | 日記
水草が浮いた壺に蓮の香弁が落ちていました。

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「放浪行乞」(金子兜太著)を手に入れました。
一気に読んでしまいました。
それにしても、研究者とはおそろしいですね。
何でも知りたがり調べたがる。

「山頭火」(石 寒太)も十分に読んでいないに
次のネタが登場してしまいました。
学者でもなければ俳句研究家でもない。
そのつもりもなく
そんなに熱心でもない。
でも、何となく
「実は・・」を知りたいのです。
それだけの理由ですが
ぼちぼち
読んだ内容をそのまま紹介しましょう。
退屈なことで申し訳ありません。

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酔ひざめの風のかなしく吹き抜ける  山頭火

わたしの酒はm中途半端ではない。とにかく、とことん飲んで、奈落の底まで沈むのである。私の一生は無駄に無駄を重ねたような一生だった。さらに酒をたえず注いで、そこから俳句が生まれた。酔い醒めの風が快い。風は、かなしく吹きぬけてゆき。酔中漫語・・・。一杯東西なし。二杯古今なし。三杯自他なし、ほろほろ、とろとろ、どろどろ、ぼろぼろ、ごろごろ酔う。(昭和11年)

(酒については相当にだらしない人で、周囲の友達にずいぶん迷惑をかけたというエピソードがいっぱい出てきます。山頭火の反省は自分だけのいいわけで、周囲の人は誰も信用はしてなかったでしょう。大人ですから、おとなの対応をしてきたのでしょうね。世の中は藤沢秀行のような無頼派が存在できた懐が大きさがあったのですね。それが時代なのですね。)

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じっとまつそれができずに茶をこぼす  あきオジ

2010-09-21 06:58:18 | 日記
神代植物公園のフジの蔓です。
放物線と言うか金属の鞭のようなしたたかさというか
勢いを感じますが
自分の進むべきところを知っているのでしょうか。

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顔に似ぬはつ句も出(いで)よはつ櫻  芭蕉

(芭蕉にも、このような句があるのですね。嬉しくなります。)

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勢いであれこれ取りあげたころから比べると落ち着いてきました。
まだ、輪郭さえも分からない段階ですが
ぼちぼち、そして、しみじみ噛みしめながら俳句を楽しみたいですね。

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「折々のうた」(大岡信著)にはずい分御世話になりました。
岩波文庫だけでは網羅的には知ることができない現代俳句などを知る上で、参考になりましたし、いっぱい引用しました。あれこれ探している間に、古本屋を渡り歩く楽しみもできました。ありがたいことです。一つのことを始めると、一つは消えていきますが、新しい発見もあります。不思議ですね。きっと、消えていくもの、気にしないことは必要ないことなのですね。

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「負けたくない」それでもいいと秋の風

2010-09-21 06:38:30 | 日記
船は皆出てしまひ雪の山山なり  放哉

静かなるかげを動かし客に茶をつぐ  放哉

(「とり残された」寂しさからうまれる「一人ぼっち」そして眼の前に人がいるのに心動かない「一人」さまざまな一人を観察し句にしているのですね。その冷徹さは理性的であると同時に憐れですね。そういってしまえば身も蓋もないのですが、そんな気がします。)

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上手に死にたい。
みんなに見守られながら死んでいく。
そのかっこよさは誰でも願うことですが
それは他人のこと
自分の死はそう簡単にはいきません。
他人の死と自分の死は似て非なるものです。

前触れもない突然の死もあれば
意識が混濁したままの死もあるのですからね。

思い煩うことなく
未練もない
それで十分だし
その準備ができないのですね。

でも、少しずつ
そしてぼちぼち

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素人に徹して語る秋のうた    あきオジ

2010-09-21 06:09:47 | 日記
華道展の展示物です。

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なにやらかなしく水をのんで去る  山頭火

おのずと飲む酒、味わう酒、酔う酒、酒を飲むより水を飲む。酒を飲まずにはいられないが、水を飲むよりも酒を飲む。いや水を飲むように酒を飲む。こういう境地でありたい。はじめはほろほろ、そしてとろとろ、気がつくと泥酔しきっている。やがて目覚めて、水を飲む。酔いざめの水は実にうまい。この水を飲むために酒を飲んでいる。酒も水もない世界は、わたしにはありえない。水のように自然でありたい。(昭和11年)

(あれこれ言い訳しているような内容とも思えるのですが、それは常識から抜け出ることができず小心者の私の感想に過ぎないのですが、逆転した発想と言うか、山頭火からすれば、常識などほどほどでいい。自分の俳句を高めるための人生、いやその逆なのだということになりますね。そんな中で酒と水との関係を語っているとなると、「水」に関する長い中国思想もありますし、酒についても同じですね。どこかで中国の隠棲生活のモデルを感じますね。よく分かりませんが、武骨な教養人が流れる傾向ですね。)

(「飲んで去る」がいいですね。飲んでいることもありますが、「去る」ことで、その水場には何も残らない。その状況が侘しいですね。こんなことがすっと出てくるのが、山頭火なのでしょうかね。)

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囲碁の藤沢秀行の晩年の生活を取材した番組を見ました。
最後の無頼派棋士と言われますが、破天荒な人生
ああ、あれも人生かと思いましたね。
小心者の私には想像もできない無茶ぶり
女を作り3年家に帰って来なかったり
競輪に夢中になり
莫大な借金をしたり
でも、それなりにおさまってしまっている。
「実は」の部分もいっぱいあったのでしょうが
亡くなってしまうと妻も懐かしいでしょうね。

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四股踏むまねし見れば病む床に萎(しの)び山あと呼ぶや老妻  川浪磐根

(「折々のうた」で死ぬまで「素人」に徹した歌を詠み続けたとの記事がありました。そこだけ読んで嬉しくなりました。そんな人もいると知っただけでも嬉しくなりますね。)

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