あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

匂い立つ黄色に燃える牡丹かな  あきオジ

2011-01-19 18:52:55 | 日記
傘にばりばり雨音さして逢いに来た  放哉

門しめる大きな音さしてお寺が寝る  放哉

(このごろ、俳句を作ろうとするから、つまらい技巧的な言葉を羅列するようになる。
そんなことより地のままの言葉を出してみる。そんなことで十分ではないかと思うのです。朝日俳壇で選ばれた句の大部分は年配者のばあい、素材を安直に言葉を並べているのではなく、技巧を凝らすから、それなりの印象しか残らないのではないか、そんなことを思うのです。日記代わり、あるいはメモ代わりで十分ではないか、そんあことを思うのです。書家の書は技巧的ですが、その人を表現していない。中川一政などの書が大切にされても専門家の書は、印象にも残らない。それと同じような気がします。)

竹林すれあうだけの暗さかな  あきオジ

2011-01-19 18:47:31 | 日記
春が来た水音の行けるところまで  山頭火

梅もどき赤くて機嫌のよい目白頬白  山頭火

さてどちらに行かう風がふく  山頭火

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山頭火のような人生にはなれませんが、旅をテーマにして生きていくことにも意味があるかもしれません。
西行のように、そして一遍のように・・・。
何か老人になると
逆に何でもできそうな気がするから不思議です。

雪つづき海へ流れる小舟かな  あきオジ

2011-01-19 18:34:22 | 日記
人も見ぬ春や鏡のうらの梅  芭蕉

鶯や餅に糞する縁のさき  芭蕉

(だから何だろう。そんなことを思ってしまう句です。第三芸術論ではありませんが、これらの句を田の俳人の句に混ぜて、専門家に選考させたらなら、選ばないでしょうね。誰の句か訪ねたら一茶と答えるかもしれません。俳句は全体なのですし、一句一句では評価できない。そんな性質を持っていないでしょうか。そんなことを思いました。)

ひとつづつ渡れば春がやってくる  あきオジ

2011-01-19 05:44:04 | 日記
日本庭園にある石の道
踏み外さないように集中している。
そのように進んでいるうちに
向こう岸にただりつく
そんな意味合いだなんて考えなくても
そうなってしまう。
それが面白いので
昭和記念公園に出かけると
同じことをします。

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月の明るさ旅のめをとのさざめごと  山頭火

月は澄みわたり刑務所のまうえ  山頭火

(山頭火を魅力的な存在として気にする人もいますが、多くの人は、妻子を捨てて放浪し、知人のところを訪ね歩く社会人として好ましくない人物である。だから俳句も好きでない。そんな言い方をします。芸術家であるまえに人間であれ、そんな言い方がありますし、人間であることは常識人である。と思っている人が多いですね。ですから、俳句に目を向ける前に常識人として逸脱している。だから俳句も評価しない。そんなことになってしまっているようです。なるほどね。だとすれば、次の時代どうなっているか分からない常識に縛られることから抜け出せば、多少は山頭火が見えるかもしれませんね。俳句だって誕生のころを考えれば新しいスタイルだったのですからね。)

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さらさらと笹音ながれ春を知る  あきオジ

2011-01-19 05:35:45 | 日記
昭和記念公園の竹です。
しなやかで風に揺れる姿が美しいですね。

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壁の新聞の女はいつも泣いて居る  放哉

少し病む児に金魚買うてやる  放哉

(淡々とした日々になり、周囲の状況に振り回されなくなると、放哉の作る句も淡々として、ときには淋しげですが温かいこともあるのですね。そんな自分の淋しさをを抱きしめたくなるような句はいいですね。そんな裏側を見せるから放哉もみじかに感じるのですね。)

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贅沢が退屈となるお正月  あきオジ

2011-01-19 05:19:42 | 日記
昭和記念公園です。
葉が落ちれば
影が美しい。
空も広い
それが冬なのですね。

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草霞み水に声なき日ぐれ哉  蕪村

雪とけてくりくりしたる月夜かな  一茶

(一茶は雪を歓迎するような句をあまりつくっていません。農民にとって雪は決して関係するようなものではなく、水の恵みに感謝しながらも、疎ましいものだったのでしょう。でも、一茶は農作業をする人ではありませんでしたから、別の意味だったのでしょうかね。)

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「一遍聖絵を読む」という古いドキュメントを見ました。
テレビ等で紹介されることがありませんから貴重です。
「一遍聖絵」のファンとしては興味ある内容でした。

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