ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドノフ」(原典版)
指揮:リッカルド・シャイー、演出:カスパー・ホルテン
イルダザール・アブドラザコフ(ボリス)、ノルベルト・エルンスト(シェイスキー公爵)、アイン・アンゲル(ピーメン)、ドミトリー・ゴロヴニン(グリゴリー)、ヤロスラフ・アバイモフ(聖愚者ユロディヴィ)
2022年12月7日 ミラノ・スカラ座 2023年3月 NHK BSP
イワン雷帝時代の後のロシア、跡継ぎのとなる皇子(甥)を殺したらしいボリスは皇帝になるが内心の罪の意識は消えず、それを探り記録追求するピーメンとその弟子クリゴリー、おそらく全体を知り智謀をめぐらすシェイスキー、追われるグリゴリーの逃亡先はリトアニア、そして最後はこれらがまた集まり、ボリスの死で終わる。
1~2回、映像でも見たと思うが、はてもっと豪奢な宮廷シーン、迫力ある群衆シーンなどがあり、長時間ではなかったか。今回は原典版で、娯楽性も求められる歌劇場のレパートリーには向かない面もある。だから求められて改訂版も作られ、リムスキー・コルサコフによるオーケストレーションも生まれたのらしい。
ただもう何度も上演され、そこは作曲者の意図を忠実に再現してもいいとスカラもシャイーも考えたのだろう。ボリス、記録者ピーメン、グリゴリー、そしてシェイスキーの衣装が近現代なのは物語の本質のみに集中したいというところか。
ただ、こうなると音楽にひたるということはあまりない。今回あらためて歴史というモノがあるのでなくあるのは事実といってもその記録ということ(司馬遷「史記」が思い浮かぶ)、そして、ロシアとその群衆の苦しみ・悲哀というテーマ、そこに流れるキリスト教(正教)(聖愚者とボリスのやりとりは一つのクライマックス)などが感じられた。
歌手たちは皆うまく歌っているとは思うし、シャイーの指揮も手堅いという感じではある。
上演は2022年~2023年シーズンの幕開け、しかしこれをこの時期にという企画は2月のロシアによるウクライナ侵攻の前でないとできないだろう。むしろそれをそのままにしたのがスカラの見識というべきである。昨今、チャイコフスキーもふくめロシアの作曲家の作品を避ける意味のない傾向がかなりあるけれど、それはないだろう。
ボリスからプーチンを連想する人もいるだろうが、それは別のはなし。
指揮:リッカルド・シャイー、演出:カスパー・ホルテン
イルダザール・アブドラザコフ(ボリス)、ノルベルト・エルンスト(シェイスキー公爵)、アイン・アンゲル(ピーメン)、ドミトリー・ゴロヴニン(グリゴリー)、ヤロスラフ・アバイモフ(聖愚者ユロディヴィ)
2022年12月7日 ミラノ・スカラ座 2023年3月 NHK BSP
イワン雷帝時代の後のロシア、跡継ぎのとなる皇子(甥)を殺したらしいボリスは皇帝になるが内心の罪の意識は消えず、それを探り記録追求するピーメンとその弟子クリゴリー、おそらく全体を知り智謀をめぐらすシェイスキー、追われるグリゴリーの逃亡先はリトアニア、そして最後はこれらがまた集まり、ボリスの死で終わる。
1~2回、映像でも見たと思うが、はてもっと豪奢な宮廷シーン、迫力ある群衆シーンなどがあり、長時間ではなかったか。今回は原典版で、娯楽性も求められる歌劇場のレパートリーには向かない面もある。だから求められて改訂版も作られ、リムスキー・コルサコフによるオーケストレーションも生まれたのらしい。
ただもう何度も上演され、そこは作曲者の意図を忠実に再現してもいいとスカラもシャイーも考えたのだろう。ボリス、記録者ピーメン、グリゴリー、そしてシェイスキーの衣装が近現代なのは物語の本質のみに集中したいというところか。
ただ、こうなると音楽にひたるということはあまりない。今回あらためて歴史というモノがあるのでなくあるのは事実といってもその記録ということ(司馬遷「史記」が思い浮かぶ)、そして、ロシアとその群衆の苦しみ・悲哀というテーマ、そこに流れるキリスト教(正教)(聖愚者とボリスのやりとりは一つのクライマックス)などが感じられた。
歌手たちは皆うまく歌っているとは思うし、シャイーの指揮も手堅いという感じではある。
上演は2022年~2023年シーズンの幕開け、しかしこれをこの時期にという企画は2月のロシアによるウクライナ侵攻の前でないとできないだろう。むしろそれをそのままにしたのがスカラの見識というべきである。昨今、チャイコフスキーもふくめロシアの作曲家の作品を避ける意味のない傾向がかなりあるけれど、それはないだろう。
ボリスからプーチンを連想する人もいるだろうが、それは別のはなし。